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第3話
午後の講義が始まったばかりの時間帯の学食は、少し前までの雑然さが嘘のように静かだった。日当たりのいささか良すぎる窓際の席に座った隼人の向かい側には、期間限定メニューの盛岡冷麺。それを買って運んで来た当人は、今は麦茶を取りに席を立っている。隼人は自分が注文したたぬきそばを前に、頬杖をついて突然の居候と彼の両親の形見のペンダントのことをぼんやりと考えていた。
数日前、アパートに荷物を取りに行ったあの朝、依は最終的に焦げてはいるがどうにか履くことはできそうだったスニーカーを一足と、データがとんでいる可能性の高いUSBメモリだけを持ち出した。隼人は紙袋に入れたスニーカーを持って依とマンションに戻ったけれど、焦げた匂いを発する靴よりもずっと、ポケットに押し込んだあのペンダントの重みが気になった。持ち帰ったそれを自分の部屋のデスクの抽斗にしまうと、何年分かと思うほどの重々しい溜息が漏れたほどだ。
今になって、どうしてあんな提案をしてしまったのだろう、と隼人は後悔していた。ほとんど初対面に近い人間に対してすることではなかった。ただ、隼人が預かっておくと言った時、依があまりにも深い安堵の表情を浮かべたから、もう発言を撤回できなくなってしまった。
「隼人、悪い。お待たせ」
麦茶のグラスをひとつ、隼人の前に置きながら、同じフットサルサークルの友人である奈川灯太が言った。先に食っててもよかったのに、と続ける。考え事に耽っていた隼人は、適当に相槌を打ち、灯太が席につくのを待った。
「こっちの学食のお茶の機械、いまだによくわかんねぇんだよな、俺。あれってボタン押してなくても出るの? 出ねぇの?」
「出る」
「あ、やっぱり。俺、ずっと押してたわ。恥ずかしー」
ぶつぶつと漏らしながら、灯太は椅子に座った。
灯太は理工学部に所属する建築学科の二年生だ。隼人の所属する経済学部など、文系の学部が揃うキャンパスではなく、徒歩圏内の別の敷地にあるキャンパスに主に通っている。メインキャンパスに来るのは一般教養の講義の時だけで、学食を使うこともあまりない。
そういえば、依も灯太と同じ理工学部の学生だった。箸を取り手を合わせた灯太に続きながら、隼人はふと思い出した。
「で、何だっけ。お前が朝帰りしたら……?」
ここ数日の出来事を灯太に説明している最中だったことに気付き、隼人はそばを啜りながらああ、と頷いた。隼人にとってはやはりイレギュラーな出来事で、まともに理解してくれる誰かに聞いてもらいたかったからだ。もちろん、依の性癖や実家のことなど話すつもりはないけれど、それは災難だったな、の一言が聞ければ、それで少し気楽になれるような気がした。
「帰ったら、家に玲子と知らない男がいて」
「真っ最中?」
食事時に似つかわしくない下品な合いの手に、隼人は無言で灯太の足を蹴り、灯太がいて、と声を漏らしながら笑った。
「そんなわけないだろ。ただ、玲子が、そいつ今日からうちに住まわせるって」
「何だよ。当たらずとも遠からずじゃんか」
「そうじゃないって。大体俺と年変わらない、っつーか、うちの理工の三年だって」
「マジ? 何でまた」
「アパートが火事で焼けたんだって」
「え、この近く?」
「そう」
「あー、そういや、火事があったとかって、聞いたかな」
灯太が冷麺を豪快に啜る。隼人はあまり食欲を感じられず、灯太の半分ほどのペースでずるずるとそばを啜った。濃い出汁の味が記憶を鮮明にさせ、心にかかる靄の体積を増やす。また、あのペンダントのことを思い出し、隼人は憂鬱になった。
「玲子が偶然現場通りかかって、そいつが飛び出して来て、そしたら玲子の好みだったんで、月一回のデートを家賃代わりに拾って来たって。無茶苦茶」
「お前んとこのかーちゃんおもしろいよな」
完全に愉しんでいる様子で灯太が笑う。隼人は箸を置いて溜息をついた。
「で、何専攻? まさか建築科じゃないよな?」
灯太は更に愉しそうにして、身を乗り出した。別に、隼人は灯太を愉しませたかったわけではないのだけれど。
「化学だって。朝永依」
アパートからの帰り道、話題に困った末に聞いた情報だった。別に無理に会話をする必要もなかったのだけれど、無言で歩き続けるよりは、いくらか気が紛れるような気がしたのだ。化学など、中学生レベルのことしか思い出せない、と顔を顰めた隼人に、結構楽しいよ、と依は微笑んだ。
「え、あ、朝永さん?」
灯太は依のことを知っているらしく、かなり驚いた様子で目を瞠った。
「知ってんの?」
「知ってるよ。理工じゃ有名人だもん。へぇ、朝永さん火事に遭ったんだ。ついてないな」
「有名人って?」
「ああ、二年連続学費免除。相当優秀で、三年なのにもう雑誌に論文とか投稿してて、いくつも載ってるらしいぜ。化学の教授陣、みんな自分のとこ欲しくて争奪戦だってよ」
「免除? て、何、そんなのあんの?」
「入試のトップと毎学期の成績トップは免除になるんだよ。お前んとこだって一緒だろ」
「知らねぇよ。関係ないし」
「まぁ、それは俺もだけど。でも、二年連続でずっとトップなんて、普通ないぞ。一回免除されんのだって全部のテストで満点取るくらいじゃなきゃ無理なんだから」
「はぁ……」
「すごいんだよ。しかも、結構格好いいだろ? 理工にいたらかなり目立つんだよ」
隼人は依の顔を思い浮かべ、首を捻った。確かにスタイルはいいし、整っていない顔とは思わないけれど、格好いいというには地味すぎる顔立ちだ。
「雰囲気あるしさぁ。あぁ、まぁ、お前みたいな派手な顔の生え抜きイケメンにはわかんないのかもしれないけど」
「何だよそれ。っつーか、そんなことじゃなく慰めろよ、俺を」
「は、何で? いいじゃん、朝永さん。超優秀だぞ」
「経済の俺には関係ない」
「まぁ、そりゃそうかもしんないけど」
「そうだよ……大体」
火事現場に付き合わされた挙句親の形見なんか拾ってきて。その言葉を、隼人は寸前で呑み込んだ。
「大体、何?」
「大体……おかしいだろ。常識的に考えて。デートが家賃って何だよ」
「まぁなぁ。でも、火事なんだししょうがねぇじゃん。朝永さんだって困ってんだろ」
「お前あいつの肩持つのかよ」
「いや、肩っていうか、お前は何をそんなにかりかりしてんの?」
「別にかりかりなんか……」
「してるじゃん。でも、一生住むわけでもないんだし、せいぜい二、三カ月だろ」
どうせお前ほとんど家帰んないんだし、と灯太は続けた。隼人とて、そんなことはわかっている。でも、そう簡単に割り切れる話でもない。何よりも、あのペンダントをさっさと持って行って貰わないと困る。
「三カ月もいられたら困るんだよ」
「まぁまぁ、大丈夫だって。化学だぞ? めちゃくちゃ忙しいぞ? もしかしたらお前以上に帰って来ないかもよ?」
どう見ても面白がっている灯太を隼人は睨んだけれど、灯太は気にしない様子だった。隼人は思わず溜息を漏らす。
「しかしまぁ、月一回のデートね。それでいいなら俺も朝永さんの次、お前ん家住みたいね」
通学に一時間半かかる灯太は冗談めかして言った。隼人はもう灯太に慰めを求めることは諦め、麦茶を飲んだ。
「お前ならいけるかもな。俺は、お前と同居もごめんだけど」
「そうかよ――お」
灯太はふと、何かに気付いたように隼人を越えた奥の方に焦点を合わせた。つられて振り返ると、ちょうど目が合った隼人の彼女の澤部まりかが、隼人に向かってひらひらと手を振った。まりかも二人と同じ大学の二年生で、灯太との面識もある。彼女は小さな子供のような足取りで、隼人に駆け寄った。
「隼人、みっけ」
「何?」
「何じゃないよぉ。ケータイ、繋がんないじゃん」
「え、あー、ごめん。気付かなかった」
バッグから携帯電話を取り出し確認すると、確かにまりかからの着信が数件入っていた。
「ごめん」
「もー」
まりかはリスのように頬を膨らませ、隼人の腕を取りながら隣の席に座った。辺りに甘い香水の匂いが漂う
「まりかちゃん、講義もう終わり?」
「途中で出てきちゃった」
灯太は天気いいしね、と適当なことを言って、トレーを持って立ち上がった。カップルの二人に気を遣っているようだ。
「じゃ、隼人、俺行くわ。レポートあるし」
「ん、ああ」
「まりかちゃんも、またね」
「うん、ばいばい」
まりかは灯太に手を振って、微笑んだ。いつの間にか冷麺を平らげていた灯太と違い、隼人のそばは半分以上残っている。けれどもう食べる気にはなれなかった。
「何の話してたの?」
「何が」
「こっちから見たら、灯太くん笑ってたから。面白い話?」
「……文学史の、教授の話」
依の話をする気になれず、隼人は適当に場を誤魔化した。まりかは興味がなかったようで、ふぅん、と簡素な相槌を打っただけだった。
「ね、まりかワンピ買いに行きたいの。原宿。付き合って?」
「服なんか山ほど持ってんじゃん」
「隼人はまりかがださいって笑われても、いいの?」
「ださくても、まりかが一番かわいいからいいよ」
微笑むと、まりかは、騙されないもん、と言いつつも、顔を綻ばせた。ファッション誌の読者モデルや美容院の宣伝モデルとして引っ張りだこになっているまりかは、実際かなりかわいいと隼人は思う。
照れているまりかを横目で見つつ、隼人はトレーを手に立ちあがった。まりかが隼人の後ろからついてきて、トレーを返却口に戻すとすぐに隼人のシャツの袖口をつんつんと引っ張る。小さく柔らかな手を取ると、まりかが満足げに微笑んだ。原宿、と行き先を心の中で反芻し、学食を出る。外は暑く、濃い光の匂いがした。
「ね、隼人、今日もうち泊まるでしょ?」
「え、あー……」
予定調和のこのやり取りは、もう何十回も繰り返して来たことなのに、ふと隼人は気乗りしなくなって、先を濁した。まりかが期待に満ちた上目づかいで隼人を見上げる。
「隼人?」
「うん……ごめん。今日は、やめとく」
一瞬、どうして、と聞きたそうに眉を顰めたまりかは、けれど何も言わなかった。どうして、と尋ねられても、隼人も困るだろう。理由がはっきりしないからだ。それに、今になってどうして依のことをさっさとまりかに話してしまわなかったのだろうという気になってきた。ただ、説明が面倒なだけだと思ったのだけれど、結果的に後味の悪い隠し事を抱えたような気分になった。
隼人が初めて彼女を作ったのは、中学三年生になったばかりの春だった。ひとつ年下の彼女は、校内でも評判の美少女で、また、そのわざとらしいぶりっこでも有名だった。彼女の言動が自分の容姿を最大限活用し、計算し尽くされたものであることはわかっていた。それでも隼人は彼女を選んだ。
異性としての自然な振舞いでなく、どこか虚像的な、作りこまれた女子像に隼人は安堵を覚える。女性というより女子の性質が強い異性を交際相手に選びがちだ。年下の彼女とは半年ほどで別れてしまったけれど、まりかも含めその後交際したのも皆同様に同性から嫌われるタイプの入念に性格を作られたぶりっこである。結婚や同棲をして本性を見せられない限りは、それが最も安らげる、と隼人は半ば本気で信じている。彼女たちの前では、あまりにも弱く子供な自分を忘れていられるからだ。
原宿で買い物の後、食事に行って、隼人はまりかを家まで送った。それから終電に乗り家路へと着いたけれど、日付が変わった直後という中途半端な時間に帰宅するのは、本当に久しぶりのことだった。
深夜の家は、いつもと少し違う匂いがした。湿気と、夜の匂いが混じり合った不思議な匂いだ、と隼人は内心でそれを形容した。物音を立てないよう玲子の部屋の前を通り過ぎ、L字の廊下を抜けてリビングに向かう。
ガラスのドアからは、淡い光が漏れ出していた。中に入ると、ソファに座っている依が視界に入る。おそらく玲子だろうと予想していた隼人は少し気分を重くし、目を合わせないままドアを閉めた。
「おかえりなさい」
「……どうも」
すぐに部屋に入ろうと思ったのだけれど、依と顔を合わせた途端に喉の渇きを感じ、隼人は仕方なくキッチンに入って冷蔵庫から缶ビールを取り出した。カシュ、と小気味いい音を立てた缶に口をつけると、冷たさと炭酸が胃を刺激して、それでいくらか感情の不均衡さはましになった。
「今日は、朝帰りじゃなかったね」
カウンターの向こうから、依が隼人に向けて声をかけた。無視をするのも感じが悪い。隼人が視線を依の方に向けると、依は屈託のない笑みを浮かべてみせた。今日はも何も、まだ依がここに来て一週間も経っていないのに。隼人は溜息混じりにカウンターを回り込み、リビングへと戻った。
「別に、いつもこんなもんだけど」
「そう?」
「何だよ」
「玲子さんが寂しがってた。いつも朝か、二、三日帰って来ないのもざらだって」
そんな話を依にしている玲子を内心で恨めしく思いつつ、隼人はふぅん、と相槌を打った。
「でも、残念。さっき寝るって言って部屋に戻っちゃった」
「別にいいだろ。いつでも会えるんだし」
隼人がそう言うと、依はどこか物悲しい表情を浮かべ、そうかな、と呟いた。亡くなった両親のことを思い出したのかもしれない。不用意な発言を隼人は自覚したけれど、今更撤回するのも気が引けて、沈黙を埋めるようにビールを飲んだ。
「当たり前のことが不変とは限らないよ」
「……それはそうだけど」
「ごめん。ただ、隼人くんが早く帰ってきて、喜ぶ玲子さんが見たかっただけ」
依の声で紡がれる名前が、鼓膜を優しく響かせ隼人はまたどきりとした。凪いだ海のようで、心地いい。胸がざわついて、隼人は慌ててそれをビールで掻き消した。
「随分慕ってんだな。会って何日も経ってないおばさんのこと、よくそんな風に言えるよな」
「ごめん。気、悪くした?」
「……別にそういうわけじゃないけど」
「俺、自分のこと話すのあんまり得意じゃないけど、玲子さんすごく聞き上手だから。話してるの、すごく楽しい」
「はぁ?」
「今日は、二人で遊園地に行ってきたんだ」
「遊園地?」
「玲子さんが、メリーゴーラウンドに乗りたいって」
そういえば、そんな条件でこの男は今、ここにいるのだった。隼人はビールを飲みながらそれを思い出し、メリーゴーラウンドに乗る若い男と中年のおばさんの構図を想像した。想像の中でスパンコールと花弁が散る。つまり、それほどに現実的でない。
隼人は脱力し、依から一定のスペースを空けてソファに腰を下ろした。くつくつと、可笑しそうに依が笑う。
「何」
「え、あぁ、ごめん。玲子さん、かわいかったなと思って」
「あんた、変わってんな」
「……そうかな? どうして?」
「普通嫌だろ。あんなおばさんと遊園地で、しかもメリーゴーラウンドって」
「でも玲子さんは綺麗だし、かわいいよ」
答えになっていない。隼人は追及を諦め、無言でビールを啜った。やっぱり、変な男だ。
「子供みたいにはしゃいでた。ジェットコースターの後は腰抜かして動けなくなって、だから、手、繋いだら、すごい照れてた。あと二十年若かったらって」
「……あの、馬鹿」
「でもその後すぐに、やっぱりそんなのはだめって笑った。二十年若くて、もし俺を好きになったりしたら、隼人くんが自分の子供じゃなかったかもしれないって。そんな人生は嫌ねって。いい母親だなって思ったよ。羨ましかった。俺も、ゲイじゃなかったら、玲子さんのこと好きだったかもしれない。玲子さんには、笑われたけど」
「……」
自分が養子であることを知った時の、思い出したくない記憶と共に、言葉にならない複雑な模様を描く感情が浮かび上がり、隼人は思わず息を吐いた。指に力が入り、手にしたアルミ缶の表面が頼りなく凹む。ビールが胃の中で揺れる感覚にも苛立った。
「……冗談だよ。そんな、怒らないでも」
「別に怒ってない。呆れてるだけ」
そう、となぜか嬉しそうに依は言った。沈黙に、遠い雨音が被さる。今日は朝から薄曇りの空で、一日中ぐずっていたけれど、今になってとうとう降り出したらしい。
隼人はもうこの場にいたくなくて、早く部屋に戻ろうと思ったのだけれど、ソファに体が張り付いて立ち上がることができなかった。たった数口のビールで、酔っ払っているはずもないのに。
「今度は、考えてって言われたんだ」
「……何を」
「デート。どこに行って、何をして、何を食べるか。全部任せるから、楽しませてねって。俺、女の人とデートなんてほとんどしたことないからどうしたらいいかわかんなくて」
「……ふぅん」
「しかも、今度の週末。来月は忙しいから、来月分なんだって。デートくらいいつだって、コーヒー一杯だって、付き合うのにな」
それは確かに、玲子らしくない下手な言い訳で、そんなことを本当にあの玲子が言ったのか、隼人も信じられないくらいだった。遊園地のデートが余程楽しかったのだろう。
体の内側を、ごつごつした岩が転がるような違和感がある。その不快感が、隼人の気持ちを乱した。
「まぁ、それでプランを練ろうとしてたら、隼人くんがちょうど帰ってきたわけなんだけど」
「……何だっていいんだろ、別に。水族館でも、動物園でも、適当で」
「何だって喜んでくれるだろうから、悩むんだよ。そういうものじゃないの?」
隼人は少し考えて、答えるのをためらった。これまで誰かとデートをするのに、そんな風に考えたことはあっただろうか。少なくとも、記憶にはない。
ビールを口に含むと、隼人の中で薄く、熱が揺らめき、苛立ちと重なり干渉し合った。
「何か、アドバイスある?」
「あ?」
「イタリアンが好きとか、タイ料理がいいとか、そういうの」
「あんたが聞けば早いだろ」
「だって、考えてって言われてるんだよ。でも、やっぱり喜んで欲しいから」
「……イタリアンは、好きだよ。多分」
「じゃあ水族館に行って、イタリアン、とか?」
考えると言った割にはよくあるデートコースだ。それはさすがの依もわかっているようで、思案顔で唸り声を上げている。それはとても楽しそうで、幸福そうで、隼人はそれをとても悔しく思った。感情の波が発振し、沈黙が怖くなる。
「もう、いいだろ。何でも」
「だから…………、やっぱり怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ、何。妬いてるとか?」
依の言葉にはっきりとした怒りが湧きあがり、隼人は依を鋭く睨みつけた。
「違う。ふざけんな」
「……どうしたの?」
「あんたが、聞きたくもない話つらつら聞かせるからだよ。ゲイなんて女みたいなもんだから女の気持ちくらい、わかるだろ。いちいち俺に聞くなよ」
隼人の声は自覚以上の棘を携え、辺りに響いた。すぐに余計なことを言ったと自覚したけれど、もう遅かった。依は驚いたように目を瞠り、それから肩の力を抜いて自嘲気味に笑った。
「俺は確かに男が好きだけど、女なわけじゃないよ」
瀕死の小鳥が喘ぐような、悲しげな声だと隼人は思った。胸に染み、隼人を追い詰める。
「それとも、俺が今、君に迫ったら、女だと思って俺を抱けるの?」
隼人が言葉につまり体を引くと、依はほらね、と言って立ち上がった。秘めた怒りが滲み出る所作だった。
謝る暇も与えず、依はおやすみ、と言って部屋に入ってしまった。あてがわれた依の部屋は、隼人の部屋の隣の六畳間だ。ドアが閉まる音の後、ソファに張り付いていた体がようやく自由になった。隼人はひどい自己嫌悪に陥り、ビールを一気に飲み干すと、空になった缶を握り潰し、もう何の拘束力も発揮しないソファに体を押しつけた。
まだ小学生だった頃、隼人も一度、玲子と二人で遊園地に行ったことがある。大手の化粧品メーカーでマーケティングの仕事をしていた玲子は独立して会社を起こしてからまだ間もなく、ほとんど寝る暇もなく働いていた頃だった。
ある朝、隼人は玲子に叩き起こされた。平日で、学校に行くのも早すぎるような時間帯だった。寝惚けて状況が掴めない隼人に一言、遊びに行くわよ、と玲子は言った。メイクの縒れた目元には濃い隈を作り、髪はぼさぼさの、服はスーツ姿のまま、そう言って笑った。その一言を聞いた隼人は眠気も吹き飛び、飛び上がって喜んだ。まだ子供で、玲子があの日一日の休みを作るためにどれだけ無理をしたのかということもわかっていなかった。ただ、今日こそ玲子を一人占めできる。その喜びだけだった。
玲子は隼人を遊園地に連れて行ってくれた。彼女は疲れも見せず、隼人の催促や我儘全てに応じ、一日中一緒にいてくれたけれど、夜になって帰宅した後で、ふつ、と糸が切れたように意識を失い倒れてしまった。隼人が慌てて救急車を呼び、病院に運ばれた玲子は過労と診断され、三日間の入院を余儀なくされた。あの時、隼人は一晩中玲子のベッドから離れずに泣いた。そして玲子のことは自分が守ろうと、固く心に誓った。そのはずだった。
隼人が依に対してあんなに業を煮やしたのは、彼にあの頃の自分を見たからだ。今はもう、玲子を純粋に好きだった自分はなくなり、弱い自分を守るために目を回している自分をいつももどかしく感じている。もう戻れない自分を見て、苛立ち、腹を立てずにはいられなかった。境遇もゲイであることも何ら関係なく、ただの八つ当たりで、言い過ぎだった。
早く大人になれば、早く強くなれると隼人は信じていた。玲子にいらないと言われても、一人で立って歩いて行けるはずだったのに、現実は何もうまくいかない。
隼人はむしゃくしゃして自室に逃げ込んだ。けれど、部屋に入った途端にデスクに目が向いて、抽斗に仕舞った依のペンダントのことを思い出してしまい気鬱になった。目を閉じてさっさと眠ってしまおうと思ったものの、その夜、隼人に穏やかなな眠りの波は訪れなかった。
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