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第4話
ひとたび封印していた記憶が呼び戻されると、それに付随していくつもの記憶が浮かび上がる。それらはどれも今となっては思い出したくない過去ばかりで、自責の念から逃れるように、隼人はしばらく家に帰らなかった。依にも玲子にも顔を合わせたくなかったからだ。特に依といると、幼い頃の自分を思い出して苦しくなる。それで苛立って、依を傷つけ、結局それはより強いフラストレーションとなって隼人の元に戻った。顔を見なければ少しは冷静になれるかと思ったのだけれど、期待に反して歪みはひどくなった。
まりかと友達の家を交互に行き来していたものの、一週間が経つと隼人はとうとう一人で眠りたくなって、平日の昼間なら二人とも不在にしているだろうという予想のもとマンションへ帰った。子供じみていることは重々自覚しているけれど、対面してまた鬱屈した感情をぶつけてしまうよりはいくらかましだろうと思ったのだ。
家に入ると、隼人は息を殺して自分の部屋へと向かった。リビングを抜け、ドアに手をかける。ようやくまともに眠れる。そう思ったところで、リビングのドアが開く音がした。
「おかえり」
隼人が振り返ると、入口に立った玲子が怒りを殺したような佇まいで首を傾むけ、息を吐いた。普段彼女は平日のこの時間にはオフィスにいるのだけれど、今日はオフだったらしい。玲子はパステルグリーンのVネックのニットに白いクロップドパンツ、胸元にはいつものペンダントというラフな出で立ちだった。
「玲子……」
「今日は随分早いじゃないの」
溜息のような声で言いながら、玲子は隼人に近付き、腕を組んだ仁王立ち姿で立ち止まった。
「何だよ」
「あんた、依くんに何言ったの?」
一週間近く帰らなかったことを咎められるものとばかり思っていた隼人は、予想外のアプローチに口を閉ざした。玲子は再び溜息をついて、長い髪を掻きあげる。
「何かひどいこと言ったのかって、聞いてるの。答えなさい」
「何かって、別に、何も」
「このところ元気ないのよ。昨日はせっかくのデートだったのに、上の空。あんた、何か言ったんでしょう」
「デー……ト……」
「そうよ。美術館。あんたは興味ないでしょうけどね。それからスペイン料理に連れて行ってくれたわ。でも、ずっと様子が変だった」
依とのやり取りを思い出し、隼人はばつが悪くなって俯いた。水族館にもイタリアンレストランにも行かなかったらしい。確かに、余計なことを言ったと自覚している。けれど、隼人にも余裕がなかった。
「隼人」
玲子が急かすように声を大きくした。隼人は目を逸らしたまま、小さく首を横に振った。
「何もないって言ってるだろ。俺は関係ない」
「じゃあ、何で依くんあんたのこと気にしてるの?」
「知るかよ」
隼人は語気を強め、玲子を睨みつけた。しばらくお互いが譲らずに睨み合っていたけれど、やがて玲子の方が先に息を吐いた。
「何なのよ、もう。あんた、本当可愛げなくなったわね」
「あ?」
「子供の頃はあんなに可愛かったのに。評判だったんだから。目がくりくりで、色が白くて、いつもにこにこして大人しくて。お人形さんみたいね、まるで天使ねって。どうしてこんなことになっちゃったのかしら」
胸の中で空気が膨張し、内壁を押したのがわかった。
隼人がたまに親戚や幼い頃を知る人間に会うと、皆一様に目を丸くし、苦笑を漏らす。きっと本当に今では考えられないほど、愛らしい子供だったのだろう。けれど、もう天使だった頃の面影など一片も残っていない。玲子を守りたいと無垢に誓った自分はいない。
「悪かったな」
「本当。悪いわよ」
「ふざけんな」
隼人は再び玲子を睨み、自分の部屋に飛び込んだ。鍵をかけて、苛立ちをぶつけるように鞄を床に投げつける。ベッドに体を投げ出すと、衝撃のせいか、気重さの分か、いつもより深くシーツが沈んだ。
中学二年生まではまだ順調だったと、隼人は思う。整った容姿だけでなく、成績は学年でもいつも上位だったし、運動も得意だった。クラスメイトたちの強い後押しを受け、クラス委員を務めたこともある。玲子との関係も悪くなかった。あの頃もまだ、天使とまではいかずとも、品行方正な優等生だった。
歯車を狂わす事件が起きたのは、二年生も終わりに近づいた二月のある金曜日だった。朝からどしゃぶりの雨に見舞われて、凍えるような寒さだったことを隼人は覚えている。授業を終えて帰宅の途に着いた隼人の前に、突然見知らぬ女性が現れた。厳寒の空の下で上品な色遣いの花柄の傘を優雅に差していた。それを見た隼人はまず一番に、玲子なら絶対こんな傘は差さないと、そう思った。
――隼人、くん?
隼人の前に立ったその女性は、ためらいがちに、雨音に掻き消されそうな小さな声で隼人を呼んだ。ぞわりと背筋が凍り、隼人は直感的に危険を察知した。傘から覗いた彼女の瞳が嵐の後の沼のように淀み、明らかに普通でないことを物語っていたからだ。逃げろ、と脳が警鐘を鳴らしたけれど、あまりの気味の悪さに足が竦み、動くことができなかった。
――ごめんなさい、突然。でもどうしても一目、会いたくて。ごめんね
――どちら様、ですか
強張った体と、震える声で、隼人はそれだけを言った。彼女はまた迷うように目を伏せ、それから唇を結んだ。振り絞るように指に力を入れると、ようやくわずかに体が動き、隼人は後ずさりした。
――あの、すみませんが、母が心配しますので、僕は……
――待って
――っ……
――待って。違うの。私が、あなたの本当の母親なの
一瞬で、目の前が真っ暗になるのがわかった。女性が何を言ったのかよくわからないと思ったのに、ショックを受けた。鼓動は大きくなり、音は遠のいた。驚きに何も言えない隼人に、女性は近付き、隼人の腕に触れた。瞬間、ひどい嫌悪感に襲われ、隼人は女性の手を振り払い逃げ出した。
途中で傘を落とし、ずぶ濡れになりながらも、隼人は家に帰ることができず、ふらふらと朝まで街を彷徨った。あれが、人生で初めての朝帰りだった。
女性に言われたことをそのまま信じたわけではなかった。ただの頭のおかしいストーカーなのかもしれないし、人違いかもしれない。けれど、何も聞かなかったことにすることも、できなかった。十四歳の隼人には到底処理できない複雑な濃い靄が心にかかり、どうしても、その夜は家に帰ることができなかった。
帰らなかったのは一晩だけで、その後家に帰った隼人は、そのまま発熱で倒れた。四十度を越える高熱で、肺炎まで併発しかかるような騒動となり、隼人の初めての朝帰りは結局うやむやとなった。玲子は理由を聞くことも、咎めることもせず、隼人もまた、彼女に何も言うことができなかった。何も、聞けなかった。
区役所に出向き戸籍を確かめたのはそれから二週間後のことで、隼人の名前の下には確かに、養子の二文字があった。その時にはもう、ショックも、怒りも感じなかった。ただ、不安だった。今日か明日か、一年後かもしれない。玲子が突然本当のことを話し、自分たちは親子でも何でもない赤の他人になる。それが怖くて仕方がなかった。
畏怖を払拭するように、隼人は真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪を茶色く染め、パーマをかけた。酒と煙草を覚えたし、女も抱いた。周囲の大人たちを馬鹿にして、精一杯のシニカルな態度を取った。早く大人になりたいと思ったのだ。大人になれば、不安から逃れられると、根拠のない確信を持っていた。でも結局逃げているだけで、何も変わらない。
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