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第5話

隼人が二年生に上がった時にキャンパス内の喫煙の取り締まりがやけに厳しくなり、それまでどこのベンチにも設置されていた灰皿が極端に減った。講義棟の近くにある喫煙所はいつも混んでいるので、煙草を吸いたくなった時にはいつもキャンパスの外れにある喫煙スペースを選ぶ。講義と講義の合間だと時間が足りなくなるけれど、十分程度の遅刻と、講義のストレスを煙草で落ち着ける時間とどちらが大事かといえば、隼人にとっては断然後者である。 木製のベンチは真上の木々を通して落ちた雨を含み、いつもより少し柔らかかった。昨夜は雨が降っていたものの、明け方には止んで、今はもうその気配すら感じさせないほどの強い日差しが射し込んでいる。蝉の声の大きさも日に日にヒートアップしている。頭上を緑が覆っていなければ、とても一服という気分にはなれなかったかもしれない。煙草に火を点けながら、隼人はそんなことを思った。今年の梅雨は雨の少ないまま、もう終盤に差し掛かろうとしている。 寝不足が続いている頭に、煙草の煙はよく染みた。隼人はたっぷりの煙を、溜息とともにゆるゆると吐き出した。 玲子と言い合いをしてから、隼人の家に帰る頻度はまた減った。昼間にこっそり荷物を取りに戻るだけで、この一週間は一度も部屋で眠っていない。 「隼人」 ぼんやりと煙草を吸っていると、不意に名前を呼ばれ、隼人は顔を上げた。灯太がベンチに座った隼人のすぐ前に立っている。足音にも気付かなかったらしい。 「……ああ」 隼人はベンチの真ん中から端に移って、灯太の分のスペースを空けた。灯太もこちらのキャンパスでの講義の後は大抵ここで煙草を吸うので、週に何度かは必ずここで顔を合わせる。 「お前、この暑いのによくこんなとこ来れるな」 自分のことを棚に上げて、降り注ぐ日光に目を細めながら灯太が言った。 「お前もだろ」 「そうなんだけどさ」 灯太は笑いながら隣に座り、煙草に火を点けた。癖のない銘柄の煙草は、いかにも灯太らしい。 「何。何か疲れてない? どうしたんだよ」 「いや……まぁ、ちょっと」 「何で。レポートきついとか?」 「そんなことないけど」 「じゃ、何。喧嘩でもしてんの?」 「え?」 「まりかちゃん」 一瞬依のことを言われたのではないかと動揺した隼人は、まりかの名前を聞いて安堵し、煙を吐いた。 「別に喧嘩なんかしてない」 「ふぅん。じゃあ、朝永さん?」 ぎくりと隼人の心臓が震える。乗り切ったとほっとした直後なだけに、動揺は大きかった。時間が経つほどに、罪悪感は募る。 「……何で」 「違う?」 「違う。別に、関係ない」 「へぇ、そう?」 「何だよ。言いたいことあるならはっきり言えよ」 「いや、実際どうかなと思って。家に朝永さん」 まるで家に猫型ロボット、と同じようなニュアンスで灯太が言う。何だそれは、と隼人が顔を顰めると、いや、だって、と灯太が続けた。 「やっぱり、理工の有名人だからさ、あの人。芸能人のゴシップが気になるのと同じ感じかな」 「はぁ……?」 「お前そんな反応で……あの人のファンが聞いたら怒るぞ。もったいないって」 「ファン?」 「結構いるらしい」 「ファン、ねぇ……」 依がゲイで、今は子持ちのおばさんとのデートに勤しんでいると知ったら、そのファンとやらは何を思うだろう。隼人はそんなどうでもいいことを考えながら、煙草を灰皿に押し込んだ。代わりに、緑の匂いを吸い込む。 「まぁ、上手くやれないのも無理ねぇなって気もするけどな。お前らって何か、ジャンル違うし」 「関係ないって、言っただろ」 「そう? でもさ、実際結構気になってんじゃないの?」 「はぁ? 何が。何で」 「正反対の人種ってやつ。だってちょっと動揺しただろ。今、俺が朝永さんの話した時」 にやりと灯太が笑う。サークルでも面倒見がよく、後輩思いで評判のこの男は、なぜ自分には気を遣ってくれないのか。隼人は内心で苦虫を噛み潰しながら、かぶりを振った。 「動揺なんかしてない。そもそも、家にいるのだって玲子が勝手に決めたことだし、俺は関係ないんだよ」 言いながら、隼人はまたあのペンダントのことを思い出していた。火事現場に付き添ってからもう三週間近くが経過するのに、未だに依は返却を求めて来ない。ここ最近については隼人が依を無意識に避けていたせいかもしれないけれど、早く取りに来て貰わないと困る。あれのせいで、いっそう家に帰りたくない。 「ふぅん。俺なら、色々話してみたいと思うけどなぁ。朝永さんって、何か面白そう」 「俺は灯太みたいに社交的じゃないんだよ」 「そういうもんかなぁ」 妙に食い下がる灯太に、どうやって話題を逸らそうかと考えていると、天からの助け船とばかりにバッグの中の携帯電話が震えた。隼人は助かった、とディスプレイも確認せずに電話を取る。細やかな電波ノイズは、蝉の声が煩い中でもちゃんと聞こえた。 「もしもし?」 「隼人? よかった。つかまったわね」 「玲子?」 昼間に玲子から電話があるのは珍しく、隼人は驚いて何事かとしかめ面になった。隣の灯太を気にしたけれど、灯太の方は何も気にしていない様子で煙草をふかしている。 「何か用?」 「用がなきゃかけない。今晩、三人でご飯食べるからね」 「三人?」 「決まってるじゃない。依くんと三人よ。お寿司屋さんを予約するわ」 「……俺はいい」 「だめ」 全てが溶けだしそうなくらいの熱を持った空気の中でも、はっきり聞きとれるほど、毅然とした声で玲子は言った。 「今日は無理……彼女と、デートの約束してんだよ」 本当はそんな予定はなかったのだけれど、隼人は嘘を吐いた。三人で食事なんて、冗談じゃない。また惨めな気分になるに決まっている。 「延期しなさい」 「は? 何でだよ?」 「何でも」 「理由になってない」 「あんたね、いつまで依くんとぎくしゃくして家に帰らないつもりなのよ。本当に何があったの?」 質問をしたのは隼人だったのに、質問を返され、おまけに隼人はそれに答えることができなかった。依が来てからおかしいのは隼人だけでなく、玲子もまた、変だ。 「何もないって言ってるだろ。しつこいな。余計な気、回すなよ」 電話の向こうで玲子が大きく溜息を吐いた。失望した。余韻がそう語っていた。 「……とにかく、銀座に七時よ。いい? 絶対に来なさい」 「銀座……って、だから、行かないって言ってるだろ!」 「隼人っ……!」 玲子の言葉を遮り、隼人は一方的に電話を切った。子供じみた態度を馬鹿にするような単調な電子音が暑さにふやける脳を貫き、隼人は苛立ちを募らせる。 「……吸う?」 舌打ちをすると、目の前に煙草が差し出され、隼人ははっとして隣を振り返った。灯太が隣にいることも忘れていた。嫌なところを見られてしまった。 「…………いらない」 隼人は不機嫌さを露わにした声でそう言って、自分の煙草に火を点けた。煙草に含まれたわずかなバニラの匂いが、棘立つ胸に染みる。 「なんか、色々大変そうだな」 灯太を無視して煙草の煙を吸い込むと、また携帯電話が震える。今度はメールだ。苛々しながら受信ボックスを開くと、それは玲子からではなくまりかからのメールだった。今どこ、という文に、文字と同じ数の絵文字が付随している。隼人はそのメールにとても救われた気分になった。まだほとんど残っている煙草を灰皿に押し込み立ち上がる。 「俺、行くわ」 「銀座?」 「まりかのとこ。銀座は行かないってちゃんと言った」 ふぅん、と特に興味もない様子で灯太は言って、煙草の先端の灰を人差し指で落とした。 「まるで子供だな」 予期しないタイミングで痛いところを突かれ、隼人は灯太を睨みつける。灯太はに、と口角を上げ、まりかちゃんによろしく、とだけ言った。反論を諦め、空を仰ぐ。緑の隙間から射す光が、隼人を責めるように力強く輝いた。

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