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第6話
眼前で空気が揺らぎ、隼人は浅い眠りから覚めた。ゆっくりと瞼を開きながら、記憶を引き寄せる。
玲子の電話を切った後、隼人はいつものように携帯電話の電源を切り、まりかと買い物に出かけた。そのまま新宿のホテルに入り、セックスをした後で眠ってしまったようだ。瞬きをすると、徐々に思考がクリアになる。顔の辺りで揺らいでいたのは、エアコンの風だった。
隣にいるまりかは、目を覚ます気配もなく、ぐっすりと眠っている。隼人はそっとベッドを出て、下着を穿いた。時刻は午前零時を回ろうかという頃だった。そろそろ終電もなくなる。
もうずっと色々なことから逃げている、と隼人は思う。玲子からも依からも、現在からも過去からも。そんな自分に嫌気が差すのに、立ち竦んだこの場所から前に進めない。灯太の言った通り、ただの子供でしかない。大人になんて、全くなれていない。
昼間の頑なな様子からして、玲子は相当怒っているだろう。冷蔵庫からビールを取り出し、それに口を付けながら、隼人は怒り狂う玲子の姿を想像した。家に帰っても、またつまらない喧嘩になってしまうに違いない。
部屋のテーブルに置いていた携帯電話がふと目につき、隼人は憂苦さを覚えながら、それを手に取った。電源を入れると、すぐに着信のマークがディスプレイに浮かび上がる。十五件。留守番電話も入っているようだ。隼人はうんざりして隼人は項垂れた。
こんな時間にまたかかってきて、口論になったら堪らない。そう思って隼人が再び電源を切ろうとすると、ちょうど着信が入った。
「っ……」
隼人は一瞬、切ってしまおうと思ったけれど、激怒する玲子のことを思い浮かべるとそれもできなくなって、仕方なく通話に切り替えた。幸いまりかはまだ起きそうにない。
「もしもし、玲子?」
第一声で怒鳴られると思っていたのに、予想に反して、電話の向こうは静まり返っていた。小川のせせらぎのような、かすかなノイズだけだ。
「もしもし? 何だよ」
「…………隼人くん?」
スピーカーから聞こえた消え入るような小さな声に、隼人は驚き肩を震わせた。それは玲子ではなく、依のものだった。電話越しでもわかる、細い、透明な糸のような声だ。それはひどく強張っていた。
「何……これ、玲子の携帯だよな」
「……何、してたの?」
「え?」
「何、してんの。俺っ……何度も電話……!」
「ちょ、落ち着けよ。何なんだよ。意味わかんねぇって」
「玲子さんがっ……事故で……車に撥ねられて……!」
「え……?」
「車に、撥ねられて……さっき、亡くなった」
シャッターが下ろされるように、目の前が真っ暗になったのがわかった。突然過ぎて、脳が何も処理できない。代わりに鼓動の音は大きくなって、それは、全ての雑音を掻き消しそうなほど強く響いた。
「日比谷総合病院にいる。すぐ、来て」
「あ……」
隼人の言葉を待たずに、依は電話を切った。隼人は電話を耳に当てたまま硬直したけれど、あの単調な電子音が響くと、すぐに服を身に着けて部屋を飛び出した。まりかを起こして事情を説明する余裕すらなかった。体中の酸素が一瞬で抜かれたような気分で、呼吸の仕方すら、衝撃に忘れてしまったようだった。
ホテルを飛び出した隼人は、必死でタクシーを捕まえて、依に教えられた病院に向かった。車中で聞いた留守番電話のメッセージは全て依からのもので、困惑、パニックから、徐々に落ち着きながらも、不安に苛む様子がはっきりとわかった。
永遠にも感じるような長い二十分間を経て病院に着くと、隼人は全速力で夜間救急の入り口に駆け込んだ。自動ドアをくぐると、すぐそばに設置された長椅子に座っていた依が隼人の方を見て、表情を歪めた。薄暗い廊下でもわかるほど顔は青ざめ、肩が震えている。
「隼人くん……」
「玲子は?」
「もう、地下の……安置所に……」
辛そうに俯いた依に、隼人は言葉を失い、その場に崩れた。玲子が死んだ。不味いパスタを食べて、安いホテルの悪趣味なベッドでセックスをしている間に。それはあまりにも信じ難く、悪い夢にしか思えなかった。
「隼人くん」
依が、床に手をついた隼人の肩に触れた。今は、電気も衝撃も走らない。感情が体の中で放射状に散っていて、どこにも収束しない。
「隼人くん、玲子さんに、会ってあげて」
放心したまま、隼人はふらふらと立ち上がり、歩き出した依の後に続いた。深夜の病院は静まり返り、鼓動の音を反響させる。毒が心臓から押し出されていると、隼人は思った。血管が焼けただれ、張り付いたそれのせいで、息も吸えない。
「……ここ」
奥まったところにあった階段を降りて、すぐのところに安置所はあった。ドアの開けられた入口から窺える部屋の中は暗く、床と平行に悲愴さが漂っていた。
隼人は感情を失ったまま部屋に入り、中央の台に横たえられた玲子の遺体と対峙した。よく、映画などで表現されているのと同じように、目を閉じた玲子の表情は穏やかで、本当にただ眠っているようにしか見えなかった。
「俺、外で待ってるよ」
玲子の遺体を前に立ち尽くす隼人に依がそう言って、立ち去ろうとするのを、咄嗟に隼人は腕を取って引き留めた。
「隼人くん?」
「……ん」
「え?」
「ごめん……」
「……」
依は息を呑み、傾けていた体を元に戻した。隼人は依の腕を掴んだまま、その場に鎖で繋がれたように動けなくなった。瞬きもできないし、涙も零れなかった。
玲子が母親でなくなることが、隼人にとって何よりの恐怖だった。破天荒でも、滅茶苦茶でも、自分勝手でも、隼人にとってはたった一人の家族だった。彼女と同じくらいの強さが欲しかったのに、隼人がそれを手にすることのないまま、彼女が先に死んでしまった。
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