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第7話
鈴が鳴るような、からからという涼やかな音に、指を組んで項垂れていた隼人は、ふと顔を上げた。煩わしい蝉の鳴き声と、焼け付くような夏の暑さ。からからと、また音がする。音の元を振り返ろうとしたところで、目の前に茶色い液体の注がれたグラスが差し出された。目線を上げると、スーツを着崩した依が、かすかに目を細める。いつの間にか席を立っていたようだ。
「喉、渇かない?」
「え」
「水分摂った方がいいよ。食べられそうなら、何か買ってくるけど」
隼人は何も答えられず、差し出されたグラスを受け取りそれに口をつけた。茶色い液体は烏龍茶だった。一口飲んで、とても喉が渇いていたということに気付き、それを飲み干す。依が自分のグラスを持って、隣に座る。凛とした氷の音のせいか、一気に夏の気配が薄まったような気がした。耳に栓をしたように、音が遠い。痛みは鎮まることもなく、ずっと隼人の心臓を圧迫している。
玲子は生前、自分の死後のことを彼女の友人の弁護士に頼んでいた。そのお陰でいくつもある手続きや、通夜、葬式の手配は隼人がほとんど何もしなくてもスムーズに運び、先ほどごく内輪による葬式と火葬を終えたばかりだった。玲子の遺骨は彼女が購入済みの墓に、四十九日を待たずに納骨される。納骨式は不要というのが玲子の遺言だと、弁護士は隼人に告げた。
ばたばたと慌ただしかった数日が過ぎ、時が止まるような静寂が訪れた時、隼人はようやく玲子が死んだのだということを理解した。でも、言葉だけが上滑りしているようで、受け入れることは到底できそうになかった。
依が警察から聞いた話では、玲子は信号無視で乗用車に撥ねられたのだという。きっと自分のことを考えて、苛立っていたのだろう。隼人はそう決めつけ、罪の意識を深くした。玲子の死に関する全ての情報が、隼人を責めていた。
「隼人くん」
頭の重みに俯いていると、依の澄んだ声が隼人の鼓膜を撫でた。音が遠のいた耳でも、はっきりとわかる。依にもはっきりと謝ることができないまま、逃げ続けたまま、こんなことになってしまった。
「……隼人、くん?」
反応できない隼人を、依がためらいいがちにもう一度呼んだ。隼人はゆっくりと、震えながら息を吐き出す。
「……何」
「うん……これ」
依は態度に迷いを見せながら、スーツのポケットからチェーンを取り出し、隼人に差し出した。それは、玲子のペンダントだった。隼人が知る限り、彼女が常に身に付けていたあのプラチナペンダントだ。
「玲子の……」
「病院の人がくれたんだ。落ち着いたら、渡そうって思ってたんだけど……」
込み上げる不安定で不快な感情に、隼人は咄嗟にペンダントから目を逸らした。
「隼人くん……」
依が手にしたペンダントに、隼人はどうしても手を伸ばせなかった。依が両親の形見を捨てようとした時、自分が持ち帰ってまで隼人はそれを止めようとした。それなのに、いざ自分が同じものを手にしなければならない時が来ると、とても耐えられない。今この場で窓から投げ捨ててしまうことの方が簡単にすら思えた。
なぜだろう。隼人はぼんやりと考える。玲子が自分の本当の母親でないことを知っているからだろうか。それを最後まで、彼女に話せなかったからだろうか。だから、手にすることができないのだろうか。
「っ……」
声も出せないほどの痛みが心臓を貫き、隼人は胸を押さえた。違う。ただ、隼人は玲子が死んだという事実から少しでも目を背けたいだけだ。彼女がもういなくなった証を、どうして身に着けられるだろう。
隼人は唇を噛み締め、首を横に振った。依は少し迷ったようだけれど、やがて、ペンダントを再びポケットにしまった。
「辛ければ、しばらく俺が預かるよ。もし隼人くんが気にしなければ、だけど」
化膿し、熱を生む心臓に、一筋の冷たい水が注がれたような気がした。隼人は驚き、依を見た。依は嫌な顔もせず、微笑んだ。
「俺のペンダント、持っててくれるって、言ったから」
「あ……」
「あんなこと言って貰えると思わなかった。嬉しかったんだ」
ペンダントは、しまった時から一度も動かさず、デスクの抽斗の中だ。視界に入るたびに気を重くしていたことを思い出し、隼人は視線を落とした。今なら、彼の気持ちが理解できる。
「気持ちがわかるんだ。わかる。だから、今、無理に渡そうなんて、思えないよ。よかったら俺に預からせて」
依は耳心地のいい声でそう言い、烏龍茶を一口飲んだ。依は、ただの居候で、本当なら通夜も葬式も手伝う義務などないし、隼人をフォローする必要もなかったのに、この数日、彼は隼人よりもずっと忙しなく動いていた。そんなことをさせるべきではないと思いつつも、隼人はそれに甘えてしまった。
胸が苦しいのに少しだけ可笑しくて、隼人は小さく笑いを零した。まるで生まれて初めて笑ったような気分で、笑い声は随分強張っていた。
「……変わってる」
「そうかな」
「そうだよ」
引き寄せられるようにこめかみが依の肩にぶつかる。夏の音が再び世界に戻ってきて、隼人はゆっくりと息を吸い込んだ。太陽の匂いが揺らぐ。嫌悪も違和感もなかった。ただ、自然とそうしてしまっていた。
「玲子、本当の母親じゃないんだよ」
気付いた時には言葉にしていた。依は驚いた様子で息を呑んだけれど、何も言わなかった。力が抜け、隼人は目を閉じる。
「少しでいいから、貸して。頼む」
「……いいよ。構わない」
綺麗な声と、蝉時雨が、隼人の脆く空っぽの体に響く。
「これ、ちゃんとしまっておくよ。だから、落ち着いたら言って」
依の優しさが堪らなくなって、隼人は目を閉じたまま依の肩に触れる面積を拡げた。視界が歪む。頭の奥の方ではおかしいし勝手だと思うのに、隼人は今、依の存在に救われていた。
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