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第8話

数時間前にほんの三十分ほど降った夕立ちが、あちこちにその痕跡を残していた。辺りが暗くなって、雨の匂いが闇の濃度に誘発されるように濃くなっている。今日は朝からずっと冷えていて、半袖では寒いくらいの気温だ。 隼人たちが玲子の葬式を終え、ちょうど一週間が経った。この一週間、晴天と雨天とがちょうど正弦波を描くように繰り返され、それに同調するように隼人は少しずつ落ち着きを取り戻した。 死後の手続きを任されていた玲子の友人の弁護士は、初めて玲子からその話をされたのはもう十五年近く前のことだと隼人に教えてくれた。玲子が自分より先に死ぬことなど、隼人は考えたこともなかった。殺しても死にそうにないくらい、玲子はいつも生命力にみなぎっているように見えたからだ。 「隼人? 聞いてる?」 バルコニーから夜の一部となって揺れる緑の木々を眺め、ぼんやりと考え事をしていた隼人は、不安そうなまりかの声にはっとして垂れていた頭を上げた。 「あ、ごめん」 「うん……」 まりかは何を言えばいいかわからない、といった様子で口ごもった。 玲子の死後、まりかには事実を簡素なメールで伝えただけで、話すのは初めてのことだった。隼人は何度かまりかに電話をしようと思ったものの、うまく話せる自信がなく、結局できていなかった。 「本当、ごめん。大丈夫。あんまり気、遣うなって」 「そんなの、無理だもん」 声が不安定に震え、涙声になる。まりかを泣かせるのも嫌だった。 「まりかに出来ること、何でも言って?」 「うん……」 「隼人一人で大丈夫? お家、行こうか?」 「……平気。明日は大学行くし、会えるから」 「でも……ちゃんと、ご飯とか、食べてる? 一人で眠れる?」 「心配かけて、ごめん。でも大丈夫だから。もう寝ろよ」 「でも……」 「大丈夫だって。な?」 「…………うん。わかった」 「明日、大学着いたらメールする」 「うん……おやすみ」 「おやすみ」 まりかに先に通話を切らせた後で自分も電話を切ると、隼人は力が抜けて、バルコニーの手すりに背を預けて溜息を吐いた。手すりには雨粒が沢山付着していて、シャツ越しに背中を濡らしたけれど、隼人はそれを無視した。 まりかの前でだけは、本当の自分よりも少しは強くいられる。それが無理をして作ったものだとしても、隼人はそれで楽な気分になれた。隼人がまりかのようなタイプの彼女ばかりを選ぶのは、その理由が大きい。ただ、今は、心情を吐露してやれないことへの罪悪感もあった。 再び短い溜息を漏らすと、ガラス戸の開く音がして、依がビール二本を手に出てきた。目が合うと、少し気まずそうな表情を浮かべ、それからビールを隼人に差し出す。 「自殺でもしそうに見えたかよ」 ビールを受け取らずに隼人が言うと、依は驚いた顔をして首を振った。隼人が拒否したビールをバルコニーの手すりに置き、もう一方のプルトップを開ける。 「そんなこと、考えもしなかったよ。しないでしょ?」 「当たり前だろ」 「そもそも、この高さじゃ死ねないと思うけど」 依は小さく笑って、ビールを飲む。今の冗談は、趣味が悪かった。隼人はそれを自覚し、お詫びの代わりに一度は拒否したビールを手にした。それを見ながら、依がポケットから煙草とライターを取り出した。 「煙草やんの?」 「ううん。俺はあんまり。これは玲子さんの」 よく見ると、確かにそれは玲子が好んだ銘柄の煙草だった。封は切られており、中には何本も残っていないようだ。 「何で、そんなもん持ってんだよ」 「預かってたんだよ。ちょっと持ってて言われて、そのまま忘れてた。捨てられないし、いっそ、吸ってみようかと」 「無理すんなよ」 隼人は呆れて、依から煙草を取り去り、一本をくわえて火を点けた。メンソールが配合されニコチンの量も少ない煙草はやけに軽く、雨の匂いの方が濃く感じられるくらいだった。隼人が煙を吐くと、夜の空気が頼りなげに震えた。七月とは思えないくらい冷たい空気だ。 「ありがとう」 独り言のように依が呟く。隼人は返事の代わりに煙を吐いた。 葬式を済ませ、納骨も終わったというのに、隼人は未だに依にこれからどうするつもりでいるのかを聞けずにいる。初めて会った時は冗談じゃない、と早く追い出そうとしたのに、今は彼といると安らぐ。親を亡くしたことへの共感と、交換する形になったお互いのペンダントのこともあり、顔を合わせる度に、隼人は何も言えなくなってしまっていた。 「俺さ」 自然と訪れていた沈黙を、依がふいに破った。 「何」 「うん、俺、煙草吸う女ってあんまり好きじゃなかったけど、玲子さんだけは特別だったなと思って」 「何で」 「わからないけど。玲子さんがこの匂いさせてるの、好きだったな」 依がそっと微笑む。玲子はへヴィスモーカーというわけではなかったけれど、きつい香水を嫌うせいか、柔らかなコロンの香りの隙間からよく煙草の匂いをさせていた。依の前で煙草を遠慮するような性格ではなかったから、家賃代わりのデートの時にも吸っていたのだろう。隼人はそう思って、それからふとまだあの暴言についてきちんと謝っていなかったことを思い出した。 「あの、さ」 「うん?」 「いや、あれ……悪かったと、思って」 「あれって?」 依は隼人が何のことを言っているのかわからない様子で首を傾げた。気まずさに、頭を掻きながら、煙草の灰を落とす。 「だから、あんたが……ゲイだから、女みたいなもんとか、別に、本気で思ったわけじゃない。ただの……八つ当たり」 依は意外なことを聞いたように細い目を瞬かせて、それからかぶりを振った。 「いいよ、しょうがない」 依の口調は、それ以上の謝罪の言葉が無意味であることを隼人に悟らせ、隼人は押し黙った。玲子の後押しがあったとはいえ、ほとんど初対面の隼人にすらあんなにあっさり打ち明けた事実だ。他にも話した人間は少なからずいるのだろう。それらの反応を知っているような口ぶりだった。きっと、嫌な思いも数多くしてきたのだろう。 「でも、今になって謝ったりするかな。忘れてると思ってた」 「……後味、悪かったんだよ。玲子も、あんたが元気ないって……言ってたし」 「真面目だなぁ」 表情を崩して、依が笑う。隼人は何となくむっとして、煙草の灰を落とした。 「別に、そんなんじゃない」 重い風がうねるように吹いている。少しの光も感じさせない、真っ黒な風だ。それなのに、触れると心の中が凪いでいくのは、どうしてだろう。 「ごめんごめん。あ、そういえば、明日は大学行くの?」 「え、ああ、まぁ」 「そう。よかった」 「いい加減彼女も心配してるし……あんたは」 「俺も、そろそろ出ないとかな」 「……悪かったな。巻き込んで」 「そんな風に思ってないよ。確かに短い間だったけど、それでも玲子さんは俺にとってすごく大事な人だよ」 話がこの曖昧な生活の終わりに向いたことに気付き、隼人は内心で慌てた。どうすればいいかわからず、言葉を探す。その思考自体がおかしいものだと、隼人は気付かなかった。 依がゆっくりとビールを口に含み、風に靡く髪を押さえた。 「あ……」 「うん?」 「う、いや……」 「俺、そろそろ部屋戻るよ。それ、飲んでくれてありがとう」 隼人が手にしたビールを目で指して、依は微笑んだ。安堵が小さな波紋となり、隼人の体の中心から、同心円状に拡がっていく。 「あんまり遅くまでいて、風邪、ひかないように」 「……子供じゃねぇんだよ」 「うん。じゃあ、おやすみ」 「ん」 「……あのさ」 一旦は隼人に背を向けた依が振り返る。視線がぶつかると、依はためらうように目を逸らし、それから首を横に振った。 「いや、うん。何でもない」 隼人が眉根を寄せると、依はすぐに前を向き直り、バルコニーを出て行ってしまった。やっぱり聞くことができない。足が竦むように、隼人は何も言葉を発せなかった。 隼人は雨の残る手すりに肘をつき、再び闇の向こうをぼんやりと眺め始めた。 空気も、感情も、揺らいでいると隼人は思う。まりかに大丈夫だということしかできなかった自分も、依にこれからのことを聞けない自分も、ペンダントを手に出来ない自分も。 深まる思考を他人事のように追いかけながら、隼人は重く息を吐いた。依がいなくなり、漆黒の夜は、また少し、雨の匂いを濃くした。

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