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第9話

纏わりつく暑さに、隼人は目を覚ました。もはや慢性的になりつつある浅い眠りのせいもあり、爽快感は覚えなかった。時間をかけて脳に覚醒を呼び掛ける。 カーテン越しにも、今日の晴天が嫌というほどにわかる朝だ。昨日隼人がニュースで確認した時は、今日以降の天気予報からは雨のマークが消えていた。数日中に梅雨明けが宣言されるだろう。 体を起こすと、正面にあったデスクが目に留まり、隼人はまだクリアにはならない思考で依のペンダントのことを考えた。依のペンダントを自分が持ち、隼人のものを依が持つ。まるで中学生のカップルが浮かれて買うペアリングくらい、意味のない行為だと思う。そんなことをしたところで現実が遠のくはずもないと、わかっているのに。 でも、どうしても、玲子のペンダントを自分で手にする日が来ると、今の隼人には思えなかった。だからあの時、依が預かっておくと言ったことに、とても安堵した。 「……何してんだか」 力が抜けて、隼人は独り言を漏らしながら後頭部を壁にぶつけた。寝不足で反応の鈍い脳がのろのろと痛みを伝達する。カーテンの隙間から刺す太陽の強烈な光が、覚醒を助長した。 溜息をつくと、隼人はふと太陽の匂いに混じって香ばしい匂いがゆらゆらと漂っていることに気付いた。少し焦げくさいとも思えるそれをしばらく不審に思っていたけれど、やがて隼人ははっと気づいてドアに目をやった。 焦げくさい。 隼人は慌てて、部屋から飛び出る。リビングに入ると異臭は強くなった。 「っ……!」 匂いの発信源はキッチンで、灰色の煙を巻くフライパンを前に依が立ち尽くしていた。ばちばちという悲鳴のような音を立てて、強火にかけられたフライパンの中で卵が弾けている。案の定、白身がひどく焦げついていた。そのくせ、黄身は生だ。 「っあ……んたなぁ!」 「え」 そばにあった計量カップに水を汲み、焦げた白身とその隣でほとんど炭になろうかというベーコンの周囲に注ぎ蓋をする。卵の悲鳴が篭り、依が驚いたように隼人を見た。驚いたのはこちらの方だ、と内心で毒づき、頭を掻くと、ややあって、ごめん、という声が依から漏れた。 「……何なんだよ、急に」 一カ月同じ屋根の下に暮らしていても、隼人はほとんど依と一緒に食事を摂ったことはなかった。もちろん、依が料理をしているところも見たことがない。ただのベーコンエッグを果たして料理に分類すべきかどうかという問題は置いておいて。 火を弱めて、どうにか平穏な音を立て始めたフライパンと隼人の顔を交互に見やって、依は困ったように眉を下げて笑った。 「何か、眠れなくて……ちょっと早いけど、朝ご飯、食べようかと」 「下手過ぎるだろ」 「黄身に、火が通らないなぁって」 「火、強すぎ。それか蒸せよ」 「そうなの?」 隼人は依を無視して蓋を取り去り、中心部分だけはどうにか事なきを得たベーコンエッグを用意されていたプレートに移す。依に差し出すと、彼はありがとう、と言った。 「朝飯、それだけ?」 「パン、焼こうと思ってた。あと、コーヒー」 「わかった」 「え?」 食パンを二枚引っ張り出してトースターに押し込み、隼人が顎でコーヒーメーカーを指すと、依は苦笑を漏らしつつ頷いた。 隼人は冷蔵庫からバターと卵、ベーコンを改めて取り出す。隼人は買い物に出ていないので、依が買ってきたものだろう。 隼人も特別料理に自信があるわけではなかったけれど、目玉焼きや味噌汁、カレーなどの簡単なものは中学に上がるまでに玲子に教えられ、作れるようになった。それも自分がある日突然いなくなった時に隼人が困らないようにという玲子の配慮だったのかもしれない。隼人はそんなことを考えながら、軽く洗ったフライパンを火にかけた。 熱したフライパンでバターの欠片を溶かし、ベーコン、卵を順に落とす。玲子がよくコレステロール過多だと文句を言っていたベーコンエッグだ。でも自分はバターの味がした方が好きだからと、隼人が彼女とそんな言い合いをしたのは、もう十年近く前のことだろう。 コーヒーメーカーが音を立てながらその仕事を遂行し、トースターが完了のベルを鳴らす。トーストを別のプレートに移し依に手渡すと、彼が二人分のコーヒーと共にダイニングテーブルにそれらを運んだ。依が先に席につき、隼人はあるべき姿で完成されたベーコンエッグを持っていく。 シンプルな朝食のメニューの中で、依の作った焦げたベーコンエッグだけが浮いていた。依のプレートを自分のものと取り換えてから、向かいの席につくと、依は隼人を見上げ、戸惑いの表情を浮かべた。 「それ食って正しいベーコンエッグを学べ」 ふわりと浮くような依の笑いで、朝の色に染まる空間に小さなひびが入った。調理の音がするキッチンの中とは、また別の音の響き方だ。うん、そうだね、と依は笑い、それから、どうもありがとう、と言った。 隼人はブラックのコーヒーを一口啜り、それからベーコンエッグに塩と胡椒を振って、格闘を開始する。消し炭とまではいかないけれど、いい塩梅はとっくに過ぎたベーコンはかなり固かった。 「あの、ごめん」 隼人の作ったベーコンエッグに、キッチンから持ってきた醤油とラー油をかけながら、依は申し訳なさそうに言った。目玉焼きにラー油。それも、朝から。味覚まで変だとは知らなかった。隼人はせっかく美しく作ったベーコンエッグがラー油まみれになるのを呆然と眺めながら、そんなことを思った。 「まぁ……いいけど、別に」 「でも」 「食えるから、いいって」 「そう、かな」 「かろうじて」 依がただのベーコンエッグをここまで焦がしたのは、単に料理が下手だからという理由によるものだけではないだろう。隼人は空いている席を一瞥し、内心で嘆息する。 「おいしい」 感心したように依が目を丸くする。今時、ベーコンエッグくらい、小学生だってまともに作れるだろう。 「普通だろ」 「でも……、そうかな」 依は何かを言いかけて、思い直したようだった。朝食が進むほどに、ぎくしゃくと空気が強張りだす。それはお互いが日常を取り戻しつつある証拠でもある。 依は、隼人からこれからのことを聞いてくれるのを待っている。隼人はそれを自覚しているのに、未だに何も言えない。不自然だと、おかしいとわかっていながらも、先延ばしにしている。 「講義、一限から?」 「二限。でも、早く行って、彼女と会うから」 「そっか」 「……ん」 隼人は頷き、食事を進める。ベーコンエッグ以外はまともな朝食だけれど、目の前に依がいるというだけで空気は歪んだただ一人でいたくないだけかもしれない。けれど、それがまりかでなく依であることが、隼人の違和感を膨らませた。

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