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第10話

隼人が大学に着いたのは、一限目の講義が始まったばかりの時間だった。まりかに到着をメールで報告すると、すぐに講義を抜けるという返信があった。外はうだるような暑さで、隼人はカフェテリアに入り、そこで彼女を待った。天井の一部がガラス製になっているカフェテリアは、エアコンが効いているものの、中央に日光が柱状に注がれていて、乾いた空気に触れると熱い。パステルカラーの椅子が並んだ白い空間から見る外の景色はとても眩しかった。 「隼人っ!」 隼人がカフェテリアの入り口を振り向くと、光の中からまりかが現れた。明るいブラウンのロングヘアが陽に透けて、まるで映画のワンシーンのようだ。小走りで隼人に駆け寄ったたまりかは、その勢いのまま、隼人を抱き締めた。まりかの細い腕と、柔らかな髪の感触、この世の全ての蜜を凝縮させたような甘い香水の匂いが、隼人の中にぽつりと罪悪感を生んだ。 「超心配したんだよ?」 「うん……ごめん」 周囲でいくつかのグループが談笑していたので、あまり大袈裟にするのも気が引けて、隼人はまりかの腕を軽く叩いた。まりかはわずかに体を離し、今にも泣き出しそうな声を漏らした。 「ごめんね……辛いの、隼人の方なのに」 隼人は言葉を探したけれど、大丈夫だという言葉以外、口にできそうになかった。 「いいよ、大丈夫だから。そんな悲しそうな顔すんなよ」 「だって……」 「もう平気。なぁ、どうしたらいいかわかんなくなるから、泣くなって」 まりかを隣の席に座らせて、隼人は頭を撫でてやった。隼人の方にこだわりがあるとはいえ、どちらがどちらを慰めているのか、全くわからない状態だ。 「だって……隼人が心配で」 「俺は、でも、心配かけたくなかったんだよ」 まりかが涙声でしゃくりあげる。心配をかけたくなかったというより、頼ってやれなかった。これまで意識しなかった問題が急に露呈して、罪悪感が深まる。 「まりかにできること、何でもするからね」 「……うん」 まりかは涙を拭いながら、隼人の手のひらを取った。小さな手のひらは、水分を含んで柔らかく温かい。あの時触れた依の腕は、冷たく、固かった。 「……」 「隼人?」 「あ、え?」 ブレーカーを上げるように、隼人は現実に戻った。たった今何を考えていたのか、もう思い出せない。心配そうに瞳を翳らせるまりかに、隼人は笑みを作った。 「ごめん。でも本当、大丈夫だから」 「本当に……?」 「ん」 まりかは逡巡の後、微笑んだ。 「今日は講義出るんでしょ? 二限から?」 そのつもりで来たのだけれど、隼人は既に一日分のエネルギーの多くを使ってしまったような気分で、どうしようか、と悩んだ。 「昨日、山崎くんに会ったら、隼人の分代返してくれてるって言ってたよ」 まりかが思い出したように言う。山崎は隼人と同じ経済学科の同級生で、ほとんど同じ講義を取っている。以前山崎がインフルエンザで一週間寝込んだ時には、隼人が代返をしていたので、その時の借りを返してくれたらしい。 「じゃあ、出んのやめる」 「どこか行く?」 「ん……」 「まりかも、一緒にいていい?」 少しの間を置いて、隼人は頷いた。一週間以上もほとんど連絡を入れずにまりかを泣かせてしまった後ろめたさからだった。 まりかと一緒にカフェテリアを出ると、来た時よりも更に強くなった日差しが容赦なく隼人の気力を奪った。まりかは行きたいところに付き合う、と言ったけれど、隼人は特にどこも思い浮かばず、二人はとりあえず大学を出ることにした。門を抜けた先のキャンパスに沿った並木道は、濃い緑の影が揺れていた。 「すっごい長い間会ってなかった気がするね」 指を絡めると、吸いつくような柔らかさに胸が痛んだ。濃い夏の匂いが思考を遅らせている。 「ね、隼人、どこに行くの?」 「んー……」 どうしようかと考えながら何気なく道路の向こう側を見やった隼人は、そのまま立ち止まった。並木道に並ぶガラス張りの店たちの一つの中に入る、見覚えのある後ろ姿を見つけたからだ。 「……」 猫背の華奢な体と伸ばしっ放しのぼさぼさの黒髪は、間違いなく依のものだった。ドアの上の不動産、という大きな文字に気付いた隼人は、胸の辺りに圧し掛かる重みに息を止めた。思考が止まり、すぐに焦りが顔を出す。 「隼人? どうしたの?」 まりかの声で、あやふやになっていた色彩が視界に戻る。隼人は思った以上のショックの大きさに、自分でも驚きながらまりかを見た。まりかが不思議そうに首を傾げる。 「隼人?」 「あ……悪い。暑くて、さ」 乾いた笑いで平静を必死に呼び戻す。一瞬のひどい痛みの後で、苛立ちの波が寄せる。依の背中が目に焼き付いて離れない。 「じゃあ、プール、行く?」 「え?」 「あ、でも、水着もないし……じゃあ、海にしよ。ね、きっと気持ちいいよ」 まりかは隼人が立ち止まり放心した理由を懸命に察そうといてくれているらしかった。隼人は何も考えられないまま、それを承諾した。もう一度道路の向こう側を見る暇もなく、まりかが急かすように隼人の腕を引っ張る。 痛みは徐々に引いてはいったものの、なくなることはなかった。 少し遠出して海を見て、その後まりかを家まで送ると、辺りはもう夕闇に包まれる頃だった。寝不足のせいもあって体が妙に重い。早く帰ってベッドに入りたいと思う一方で、依には会い辛かった。 隼人は疲弊した体を引き摺ってマンションへと入った。膨張していた空気が一瞬で収縮して体積を失うような、そんな奇妙な感覚がある。今日は暑過ぎた。人気のないエントランスのしんとした静けさに包まれると、自分がひどく磯臭いということにも気付く。髪にも細かい砂が絡まっていて気持ち悪かった。 家の中は、エントランス以上に静謐で、隼人はますます居心地の悪さを強くした。玄関に依の靴が揃えられているのを見てしまったせいかもしれない。 「あ……おかえり」 リビングに入ると、ちょうどグラスを持ってキッチンから出てくるところだった依が、少し驚いた様子で隼人を見た。 「……ん」 隼人を見た途端に依が発した緊張の波が、あっという間に隼人にも伝染した。 「海?」 「え?」 「磯の匂い」 「あー……うん。海」 「泳いだの?」 「いや、なんか、遊泳禁止」 「何それ」 思わず、といった風に依が笑った。水着も持っていなかったし、どのみち泳げはしなかった。 笑いの余韻はすぐに消え、沈黙が訪れる。玲子の死後、時間が経過するほどに、この瞬間を迎える回数が増えている。隼人はそれが嫌で、無理矢理口を開いた。 「飯、食った?」 「あ……うん。食べてきた。隼人くんは?」 「俺も、食ってきた」 空気が不自然に震える。それは、まるで子供の頃に作ったブロックの城のようだったと隼人は思った。落としたら簡単に崩れてばらばらになってしまう。 「あの……隼人くん」 依が空気を更に重くしたのも、何を言おうとしているのかも、隼人はすぐにわかった。隼人は遮るように、潮風でべたつく頭を掻いた。 「俺、シャワー浴びてすぐ寝たいんだけど」 依の細い目は、感情を読み取りづらい。それでも、彼の迷いは伝わった。隼人は目を逸らし、短く息を吐いた。 「あ……そっか。うん、俺も……レポート、やんなきゃ」 「そ。じゃ」 今でなくともすぐにまた対峙しなければならなくなる問題なのに、つい先延ばしにしてしまった。隼人は安堵と後悔を同時に感じながら、早足で部屋に閉じこもった。 ベッドに身を投げ、海の匂いを感じながら、隼人は依の骨ばった肩と、ゆっくりと伝わる熱を思い出た。目の端でデスクを捉える。心臓に熱の膜が張っている。

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