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第11話

シーツに沈んだままなかなか浮き上がらない体を奮い立たせてシャワーを浴び、髪も乾かさないまま、隼人は眠ってしまった。久々に外を歩き、かなり疲れていたらしい。それでも眠りは浅く、目を覚ました時、眠る前よりも疲れているような気がしたほどだった。 隼人は布団を被ったままベッドサイドに手を伸ばし、目覚まし時計を引き寄せた。午前五時を回ろうかというところで、ゆうに十時間は眠っていたことになる。こんなに長い時間ベッドから出なかったのは、子供の頃以来だ。 喉の渇きと空腹を感じ、隼人はふらふらと起き出して部屋を出た。まだかすかに残っていた海の匂いが、リビングに漂う香ばしい匂いに掻き消される。じゅう、という音に気付くと、隼人は昨日の惨事を咄嗟に思い出し、一気に覚醒した。 カウンターの中にいた依が隼人に気付き、笑みを浮かべた。口も動いたけれど、何と言ったのかは隼人には聞きとれなかった。おそらく、おはよう、とか、そんなことだろう。 香ばしくはあっても異臭ではないことを確認して、隼人はカウンターに寄り、レンジを覗いた。フライパンの中では、随分とまともなベーコンエッグがじりじりと食べ頃に向かっていた。 「昨日のは何だったわけ?」 え、と依は一瞬困惑した表情を浮かべ、それからベーコンエッグを見て、あぁ、と笑った。バターの香りが、優しく揺らめきだす。 「なんか、料理ってずっと苦手だったんだけど。考えてみたら、料理っていったって、要は有機合成なわけだから」 「はぁ?」 「大事なのは出発物質とプロセス」 水を注して蓋をしながら、依は自信満々に頷いた。料理だとできなくて有機合成ならばできるという理屈はまるで理解できなかったけれど、何の疑問もないような依の表情が可笑しくなって、隼人は思わず吹き出した。 「化学科ってあんたみたいな奴ばっか?」 「どうかな」 「まぁいいや。俺の分も焼いて」 隼人が言うと、依は微笑み頷いた。パンとコーヒーの準備をするためにカウンターを回り込んでキッチンに入る。昨日とは逆の役回りだ。 「今日、昼から雨降るって」 二枚目のベーコンエッグを焼きながら、依がふと思い出したように言った。もしそれが本当なら、梅雨明けは何日か延びるのかもしれない。隼人はキッチンから外を見やったけれど、これから雨模様に染められるなんて信じられないほど、世界は濃い光に満ちていた。 「いい天気だけど」 「午前中のうちに曇り出すって、さっきニュースで言ってた」 「……ふぅん」 トースターから飛び出したパンをプレートに載せ、マグカップにコーヒーを注ぐ。そういえば、依専用のカップは、いつからあったのだろう。隼人は思い出そうとしてみたけれど、記憶にはなかった。 「運んでいい?」 「あ、うん」 依がベーコンエッグと調味料、隼人がパンとコーヒーを運び、二人で席に着いた。依の手にはやっぱりラー油が握られていた。 「じゃあ、いただきます」 丁寧に頭まで下げて、依が先に食事に手をつけた、二人分の至極まともなベーコンエッグ以外は、昨日とまるで同じシーンを再生しているようだと隼人は思った。けれど、違和感は減衰していっている。たとえば、目玉焼きに醤油とラー油だって、昨日よりは驚かない。それでも、依がここを出て行けばまた新しい非日常がある。隼人は思わず溜息を漏らし、それが半熟の黄身を撫でた。 「隼人くん……あのさ」 食事を進めていた依が、隼人の溜息にぴくりと肩を震わせ、フォークを置いた。 「何?」 「うん……ごめん」 隼人が眉を顰めると、依はテーブルの上に無造作に置かれたファイルに視線を向けた。無地の濃いブルーのファイルから、紙の端が飛び出ている。ちらしのような紙で、かろうじて一文字目の竹冠だけが確認できるものの、何について書かれたものなのかはわからない。隼人はもどかしくなり、その紙を引っ張り出した。 「……」 竹冠は築という文字の一部だった。四十年と続いている。四十年って、住めるのだろうか。動揺の中で、隼人はそんなことを考えた。 「ごめん……すぐ、出てくつもりだったんだ」 消え入りそうな小さな依の声とは対照的に、隼人の心音はまるで警鐘を鳴らすように大きくなった。艶やかな卵の黄身が唯一の色彩に思えるほど、衝撃を受けている。玲子が死んで、依がこの家から出て行くのは当然のことだし、隼人だってずっとそのことを考えていた。それなのに、揺さぶられている。 「何でだよ」 「何で、も、何も……」 依が言葉を濁す。隼人はフォークを手にしたまま、必死になって理由を探した。 「何で。だって、困ってるんだろ。他に行くとこないって」 「いや、でも」 「だって玲子に払っただろ。二カ月分」 依は隼人の言葉に当惑した様子で目を瞬かせた。それから俯く。 「お金、払うつもりだった。やっぱりデートでなんて、そんなわけにいかないと思ったし」 「あいつが受け取るわけないし」 「お金渡して、すぐ出てくつもりだった。本当に」 「だから、いいって、別に。それともマジでここに住みたいと思ってるわけ?」 築四十年、風呂なし、トイレ共同。家賃は確かに安いけれど、目で追っていくほどに、到底この家よりいい条件とは思えない。 「……どうして」 「何が」 「反対してたんじゃないの?」 隼人は間を置くように息を吸い、言い訳を考えた。 「……この家、玲子が買ったもんだし。俺に気、遣って出てくことないって、思うだけ」 自分でもいまいち説得力の弱い言い分であることはわかっていた。依が納得したとは思えない。依は長く沈黙し、やがてごめん、と呟いた。 「貯金、ほとんど必需品の買い物に使っちゃって……正直、厳しくて。だから、そんなこと言われると甘えたくなる……」 「だからいいって、言ってるだろ。それに、あれのことも、あるし……」 指示語だけの抽象的な言い回しでも、依はそれがお互いのペンダントの事を示していると気付いたようだった。再びの無言があり、その後で依は、今度は笑って見せた。 「せっかく追い出すチャンスだったのに」 隼人は何も言わずに朝食を食べ進めた。 言葉で表現できないような心地よさが確かにある。それを失いたくないと思うから、隼人は依を追い出すことなどできない。

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