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第12話

例年よりも四日ほど遅く、梅雨明け宣言が出されたのは昨日のことだった。 大学に顔を出し始めた隼人が早々にぶつかったのは、前期末のテストという壁だった。周囲はもう、テストに向けた準備を始めていて、隼人はすっかり取り残されてしまっていた。母親を亡くしたからといって葬式がテストにぶつかりでもしない限りは特別扱いを受けるわけにもいかない。 ようやく講義に出始めた隼人は、早速過去問やレポート、ノートの収集に追われている。今も、空き時間を使って友人たちがくれた過去問の整理をしているところだった。もうそろそろ、灯太が一般教養の過去問を持ってきてくれるはずだ。 ちょうどテスト期間を迎え忙しくなったのは、きっといいことなのだろうと隼人を思う。毎朝依と朝食を摂ることが自分の中で当たり前になっていって、その不自然さを別の事象に集中することで紛らわせた。依がまだ家にいてくれてよかったし、助かった。 「隼人」 プリントを年ごとに集め、揃えていた手はいつの間にか止まってしまっていた。真っ直ぐに響く声が食堂のざわめきを破り、隼人ははっとして頭を上げた。振り返ると、ぶ厚いプリントの束を持った灯太が困ったように眉を下げた。 「過去問、持ってきた」 「あ……サンキュ」 「久しぶりだな」 散らかるテーブルの上の空いたスペースにプリントを置き、灯太は向かいの席に腰を下ろした。灯太の言うとおり、顔を合わせるのは久しぶりだった。玲子が死ぬ前に電話をしてきた、あの時以来だ。 「ああ……」 「大変だったな」 「まぁな」 ホチキスでプリントを綴じ、隼人は曖昧に頷く。灯太が慎重に言葉を選ぼうとしているのが伝わってきて、少し居心地が悪かった。 「あー……」 「いいよ、大丈夫。気、遣うなよ」 「悪い。何て言えばいいか、わかんなくて……」 「気持ちだけで十分。大丈夫だから」 さすがに笑うことはできなかったものの、随分冷静な声で言えたと隼人は内心で自分を褒めた。灯太は苦笑を漏らして、持参したプリントを隼人のホチキスで綴じ始めた。 「年ごとでいい?」 「悪い」 「いいって。俺、もう教養の過去問ばっちり集めたから。楽勝」 灯太は笑ったけれど、それが嘘であることは明白だった。建築学科は忙しいと評判の理工学部の中でも地獄に数えられる学科のひとつだ。けれどそれを指摘するのは気が引けて、隼人は素直に灯太の気遣いに甘えることにした。 「本当、悪いな」 「ついでだし気にすんな。あ、でも、社会学の過去問だけ手に入んなかったんだけど」 「あー……いい。それもう持ってる」 「え、マジ? あんなマイナーな講義のよく手に入ったな」 「あいつが、くれたから」 「あいつって?」 「朝永」 灯太は驚いた様子で目を瞠った。二日前の朝食の時に社会学の過去問のあてがないと漏らした隼人に、依が自分が持っているから大丈夫だと言った。化学科は一般教養でその講義を取るのがスケジュール的に都合がいいらしい。他にも同じ講義を取っている学生を知っているから、と依は言い、次の日には過去五年分に遡った過去問集を隼人にくれた。 「朝永さん、まだ隼人ん家いんの?」 「いるよ」 「何で?」 隼人と依の関係は玲子ありきのもので、その玲子がいなくなってもう半月近く経った。隼人は元々依の居候に反対だったし、灯太の疑問は当然だ。 「何でって……玲子が死んだからじゃあさよならってわけにもいかないし」 「そりゃまぁ……でも、朝永さんだって居づらいだろ」 「俺がいいって言ったんだよ」 「そうなの? 何で?」 「葬式とか、手伝って貰ったし……」 自分の都合のいいようにしかしていない自覚がある隼人は、歯切れの悪い言い方で先を濁した。 灯太はなかなか驚きを失くせないようでしばらく瞬きを繰り返していたけれど、やがてほっとしたように笑った。 「何だ、そっか」 「何だよ」 「いや、俺、これでも心配してたんだぞ。お前一人で、どうなっちゃうかと思ってさ」 「どうもなんない」 「そうじゃなくて。隼人、まりかちゃんの前だったら、弱ってるとこ絶対見せないように無理するだろ?」 唐突に図星をつかれ、隼人は閉口した。過去問の山はあと少しで綴じ終わる。灯太の手はもう止まっていた。 「だから、朝永さんいてくれてよかったじゃん。朝永さんの前でかっこつける理由なんかないし。お前もそう思ったんじゃないの?」 「別に平気だった」 「そんなわけないだろ」 灯太はいつになく真剣な表情になって、隼人は本当に灯太が心配していたのだということを実感した。面倒見がいいということは知っていたものの、情にも厚いらしい。 「……悪い」 隼人が俯くと、灯太が小さく息を吐いた。遠く、蝉の声が聞こえる。この音を聞くと、自然と玲子が死んだ日のことを思い出すようになった。同時にあのペンダントのことも思い出す。 「まぁ、とにかく、大学出て来られるようになってよかったよ。まりかちゃんもう会った?」 「会ったよ」 「すげぇ心配してたぞ」 「わかってる」 「っていうか、お前さ、まりかちゃんに朝永さんのこと、言ってないの?」 灯太が少し言い辛そうに口を開いた。 「言ってない。まりかに言った?」 「言ってねぇ。っていうか、俺も今の今までもういないんだろうと思ってたんだよ。まりかちゃん、隼人が一人で困ってるんじゃないかって心配してたし」 「じゃ、言うなよ」 「俺は言わないけど。お前が言えよ。何で言わないわけ?」 「……言うよ。そのうち」 「何で今言えねぇんだよ」 「いいだろ、別に」 隼人の逃げ腰の発言に、灯太は訝しそうにした。食堂のざわめきが急に大きくなる。どうやら前の時間の講義が終わったらしい。 「隼人……お前、まさかと思うけど、朝永さんのこと好きになったとか、言わないだろうな? 男だぞ、あの人は」 「わかってるよ。そんなんじゃない」 だよなぁ、と言いながらも、よくわからないといった様子で灯太は首を捻った。言葉で否定するのは簡単なのに、もう、心音のテンポが変わっている。 最後の過去問を綴じた手にがち、と衝撃が走った。失敗してしまった。隼人は舌打ちをして、もう一度綴じ直す。歪んだホチキスの芯から、世界がぐにゃりと曲がり出すようだった。

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