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第13話

八月に入ると、陽の熱さと空の青の濃さは日ごと顕著になった。友人たちが集めてくれた過去問とノートのお陰でどうにか前期の試験を乗り切り夏休みを迎えると、隼人が感じる時間の経過は一気に遅くなった。 簡単な夕食を終え、暇つぶしにと点けたテレビでは、この時間、流行りの恋愛ドラマを映していた。隼人はソファに沈み、ぼんやりとそれを眺め始めた。 雨の中でわざとらしく髪を濡らした俳優が下手な演技で愛を説いている。その俳優の名前を脳みそから引っ張り出して、隼人はふとまりかが夢中になっているドラマがあると言っていたことを思い出した。確かこの俳優の名前を聞いた気がする。初めて見る上にほんの数十秒の情報しかないけれど、それだけでくだらないドラマであることが窺えた。とはいえ、それは男の目線だからそう感じるというだけで、女は大抵、口で何と言おうともこの手のドラマが好きだということを隼人は理解している。あの玲子ですら、とある恋愛ドラマに夢中になった時には放映日の帰りがやけに早かった。裏番組のサッカー中継が観たい自分とよく喧嘩になったことを隼人は思い出す。テレビは二台あったのに、どうしてチャンネル争いになったのかよくわからない。おそらくあの頃は、そういうバランスが必要だったのだろう。隼人がちょうど玲子が実の母親でないことを知ってしまった頃だった。 過去のことを思い出す時、隼人はたまに玲子が死んだのだということを忘れる。その後で玲子はもういないのだったと気付き、そういう時は決まって明かりが数段暗くなったような、そんな感覚に見舞われた。 未だに、玲子の死をうまく受け入れられない。そしてそれを可能にしているのは、依があのペンダントを預かってくれているからに違いなかった。もし隼人が形見を自分の手にしていたら、今も一日中部屋に籠って自分を責め続けていただろう。 「隼人くん?」 考え事をしながらテレビの画面をじっと見ていた隼人は、声に気付き思考を解いた。リビングに入ってきた風呂上がりの依を確認し、再びテレビに視線を戻す。 「風呂、空いたよ」 「あー……や、俺、後でいい」 「そう。ビール飲む?」 「うん」 わかった、と依はキッチンに入り、缶ビールを持って戻ってきた。数日に一回のペースで、家でビールを飲む。最近は大体依が一緒だった。 「はい」 「サンキュ」 依は隼人との間に確かな距離を置き、ソファに腰を下ろした。シャンプーの清潔な匂いが揺らぎ、隼人は思わずどきりとして依の方を見る。 濡れた髪の先に水滴が溜まり、首にかけたタオルに重そうに落ちた。タオルの体積が大きいのか、依の首筋はいつも以上に華奢に見えた。風呂に入るのは大体隼人が先で、そのまま部屋に入ってしまうことが多いので、風呂上りの依の姿をまじまじと見つめたことなんてなかったけれど、匂いのせいもあるのか、いつもと雰囲気が違って見える。 伏せた目から、真っ黒な睫毛がのびる。意外と睫毛が長い。 「……何か……つい、てる?」 隼人の視線に気づいた依が首を傾げた。隼人は慌てて目を逸らし、缶のプルトップに手をかける。 「髪、ちゃんと拭けよ。ぼたぼた垂れてんだよ」 「あ、ごめん」 片手でタオルを持ってぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜる。ひとつひとつのパーツは小さく地味だけれど、額から顎までのラインはまるで彫刻のように整っている。かすかに上気した頬と、薄く血色のよくなった唇だけが色彩の顔は、まるで人形かマネキンのそれのようだった。 隼人は思わず見惚れたけれど、すぐにはっとしてビールを呷った。石鹸の匂いが、まるで麻薬のように鼻と脳を刺激している。 「ドラマ?」 「っえ?」 「これ。珍しいね」 熱に浮かびあがる鼓動を誤魔化すようにビールを飲んで、隼人はソファに座り直した。 「点けたらやってた。なんか、まりかがハマってるって言ってたし」 「まりか?」 「……彼女」 ああ、と依は頷いて、髪を拭く手を止め缶を開けた。 「俺、これ一回見たことあるけど、確かに若い女の子が好きそうな筋かも」 「どんな」 「OLとフォトグラファーの話。男の方が、ちょっと現実にいなそうなくらい、人間がよくできてるんだよね。女の子の方は等身大って感じでさ」 「ああ……」 「俺、思うんだけど、どうしてゲイが主役のドラマってないのかな」 「……そりゃ、まぁ、無理じゃねぇの」 「でも、バラエティーとかだと、今いっぱい出てくるでしょ? バラエティーはよくて、ドラマにはならないのって、何でかな」 バラエティー番組でよく見かける派手なドラァグクイーンたちと、彼女たちを題材にしたドラマを想像し、隼人は背筋を凍らせた。 「あれは、ゲイっつーか、オカマなんじゃないの? ドラァグクイーン?」 「うーん」 倫理的な観点以上に、需要の問題ではないかと隼人は思い、頭を掻いた。 「女が自分を投影できるようなのじゃないと困るんだろ」 「男だって自分を投影してみたい」 「それなら俺は燃えよドラゴンがいい」 「それは絶対、映画の方がいいと思うよ」 依が可笑しそうに笑った。衣服とタオルの隙間から覗く鎖骨が震える。隼人は自然と依の方に向いていた視線をそっとテレビに戻した。ドラマは、下手なSFなんかよりよっぽど奇怪な展開を見せている。 「っつーか、あんたの境遇ってそのままドラマとかになりそう」 「俺?」 「アパート火事になって、知らないおばさんの家に転がり込んで、そのおばさんが死んで、ろくにしゃべったこともないような息子と同居」 喉が渇いていたのか、隼人のビールはみるみる軽くなっていった。平衡が崩れ出している。依が小さく笑う。 「それで、俺がもし女の子だったら、その息子との恋愛ものになる?」 ふわり、とまた石鹸の匂いが揺らいだ。 その通りなのかもしれない。隼人は思う。きっと、依が女だったら、まりかに状況を説明できないことも、今のこの家の居心地がいいと思うことも、正当化することは簡単だった。でも依は男だ。それなのに、隼人は依を追い出そうと思えない。 「……なるかもな」 他に答えようがなく、隼人はそう言ったけれど、依は笑って、ならないよ、とかぶりを振った。隼人はその言葉に、胸の奥に棘が刺さる感覚を覚える。 「っていうか、怒っていいよ。女じゃないとか偉そうなこと言って、何だ今のって」 「あれは悪かったと思ってるって、言っただろ」 「いや、掘り起こそうとしたわけじゃ……ごめん」 「別に……」 隼人が口ごもると、依が溜息混じりに笑った。 「隼人くんは本当、真面目だな。優しいっていうか。本当、人って見かけによらない」 いつの間にか肩に入っていた力がふ、と抜けて、隼人は俯いた。 隼人は別に真面目になりたかったわけでも、優しくなりたかったわけでもなかった。ただ、強くなりたかった。画面の中のヒーローのような揺るぎのない強さが欲しかっただけ。 それなのに、依の言葉は、皮膚からゆっくりと染み、隼人の胸の辺りの頑なな感情を少しずつ溶かしていってしまう。

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