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第14話

隼人が今になって思うのは、朝、起きた時からおかしかったということだ。妙に脳の働きが鈍かったし、熱いし、寒かった。食欲もまるで感じられず、目の前が歪んで見えた。 それが風邪であると隼人が自覚したのは午後に入ってからだった。鈍感なわけではなく、風邪をひくのは随分久々な上に、近頃はずっと眠りが浅く上の空で、変化がわからなかった。 先に異変に気付いたのは隼人でなく依だった。顔を合わせてすぐに様子がおかしいことに気付いた依は、寝て、と一言、隼人を部屋に押し込んだ。そのままコンビニに行くと言って家を出て行ってしまった。十五分ほど前のことである。そろそろ帰ってくる頃だろう。ベッドに入ったまま時刻を確認した隼人は、熱の篭った息を吐いた。 ぜんまい仕掛けのブリキのおもちゃのように隼人の頭の中はがちゃがちゃと忙しなく動いている。答えを持って臨むつもりでいた依への気持ちに、なかなか整理がつかない。思考と感情を何度も何度も繰り返し粘土のようにこねている。十九にもなって知恵熱を出すとは、情けない。 「隼人くん――寝てる?」 ノックの後でドアの開く音と遠慮がちな依の声が聞こえた。隼人はわけもなく慌てて目を閉じ、結果的に狸寝入りをする格好になった。意識して、寝息と思われるような呼吸を繰り返す。しばらくして、依が部屋に入る気配があった。 目を開けるタイミングを掴めずに、隼人は鼓動の音が聞こえてしまわないようにと、胸を隠すように寝返りを打った。 ビニールと紙の音、少しして、額に乾いた指が触れた。隼人は体が震えだしそうになるのを必死で堪えた。混乱が渦を巻き、心臓が口から飛び出しそうなほど主張を大きくする。目を開けていれば普通に受け入れられたことかもしれないけれど、何も見えず、高熱に浮かされた状況では、体が必要以上に反応してしまう。 「ん……」 隼人はとうとう耐えられなくなり、触れられたことで目が覚めたよう装い、瞼を開けた。 「あ、ごめん。起こした?」 「……平気」 依の指はもう離れ、彼は手にした冷却ジェルシートのパッケージを破った。 「これ、買ってきたから。貼っていい?」 「悪い」 「いいよ」 ぴり、という音の後、額に冷たいものが触れた。狸寝入りの状態で貼られていたら、到底誤魔化し続けることはできなかっただろう。 「熱、相当あるよ」 「……気付かなかった」 「どうかしてる。それ」 依は笑って、ペットボトルのスポーツドリンクのキャップを開け、隼人に差し出した。体を起こしてそれを受け取り、口に含む。液体が体の中心を通り過ぎて行く感覚がリアルだった。 「大丈夫?」 気温差に水滴を垂らすペットボトルを取り去り、依はごめん、と断った後で隼人のこめかみに触れた。再び、鼓動が大きくなる。全てを熱のせいにすることもできないくらい、隼人は動揺していた。 「ほら、やっぱり熱いよ」 触れた手のひらが引いていくのを、もどかしく思っている。風呂上りの依の姿に心臓が跳ねてから、このままだといずれ確実に渦に呑まれてしまうという危惧があるのに、それがほんの少し待ち遠しいと思っている自分もいて、隼人は困惑した。 依の手が完全に引くと、隼人は溜息をついてベッドに再び体を沈めた。 「意外と鈍感?」 「……何年もひいてなかったから、わかんなかっただけ」 「へぇ?」 「本当だよ」 わかった、と依は頷き、引き下がった。呼吸は浅く、意識が朦朧とする。風邪をひくのは本当に久しぶりで、少し懐かしくすらあった。 隼人は前に発熱で寝込んだ時のことを思い出すと、寝返りを打って、依の方を向いた。目が合うと、隼人の力のある瞳に依が身構えるように表情を強張らせた。 「あ、何か、食べられる?」 「いらね」 「そう?」 「ん」 「じゃあ、俺、部屋戻るから……」 ペットボトルをサイドテーブルに置いて立ち去ろうとする依の手のひらを、隼人はしっかりと掴んだ。考えるより先にそうしてしまっていた。 「え……?」 掴んだ手を引いて、当惑している依をベッドに座らせる。依の手のひらは骨ばって、薄く、冷たかった。隼人の手が熱いせいかもしれない。 「……どうかした?」 依の温度と自分のそれが混ざり合うのを感じると、隼人の頭の中では波が寄せるように記憶が蘇った。 「五年ぶり」 「え、何が?」 「風邪。前ひいたの、中学ん時」 「嘘、本当に?」 頑丈だ、と依が笑った。繋いだ手の感触が馴染み、境界がわからなくなっていく。水分を摂ったからか、安心したのか、眠気が少しずつ訪れていた。 「すげぇ、熱で。食っても吐くし、頭も喉も痛くて、寝てるだけでも苦しくて、最悪だった」 「真冬の海で泳いだとか?」 「雨。大雨の中、一晩中歩いてた」 「何でまた」 「家、帰れなかったんだよ」 頭の中の記憶が、熱に隔離される。依が、帰れなかった、と隼人の言葉を繰り返した。 「本当の母親って女に、会った」 「え?」 「自称だったけど。でも怖くて、ショックで、帰れなかった。その後で、本当に養子だったってわかったけど」 「……」 「ガキだったし、行くとこないし。朝になってから帰ったけど、結局帰った途端に熱でぶっ倒れた。玲子、何も言わないでずっとそうやってベッドに座って看病してくれた……中学生の男相手に。馬鹿みたいだろ」 隼人は笑ったつもりだったけれど、本当に笑えていたのかはわからない。もう、感情も切り離されてしまっていた。 「俺、本当のこと知ってるって、最後まで玲子に言えなかったよ。もっと大人になって、強くなったら、言おうと思ってた。俺は知ってるって。それで赤の他人になっても、強くさえいれば、大丈夫だと思ったんだ……」 「隼人くん……」 「本当、馬鹿だよな。こんなことになるなら、もっと早く言っておけばよかったのに」 隼人の手を依が強く握った。何を言っているのだろう、と隼人は思う。こんな話、依に言ったところで、玲子が戻ってくるわけではないのに。でも、依に聞いて欲しいと思った。依ならわかってくれるのではないかと、根拠のはっきりしない期待を抱いた。 依は何も言わなかった。黙って隼人の手を握り、空いた手で、髪を撫でた。その優しい触れ方が、眠れ、と隼人に伝えていた。それがとても気持ちよくて、隼人はゆっくりと目を閉じた。すぐに眠りの縁を掴む。光と闇の境界を行ったり来たりしながら、隼人はずっと、依のことを考えていた。 久しぶりの深い眠りだった。全身に汗を掻いているのに不思議と心地いい。意識の浮上に合わせて目を開いた隼人は、ゆっくりと息を吸った。目覚めは悪くない。時計は見えないけれど、頼りになるのはカーテン越しの月明かりだけで、まだ夜の時間帯のようだ。息遣いがクリアに聞こえるほどの静けさに包まれている。 ひとつひとつ感覚を追って、右手がまだ依と繋がっていることに気付く。彼は手を握ったまま、ベッドに伏せて眠っているようだった。少しずつ記憶が鮮明になる。玲子が養母であることを隼人が誰かに話したのは依だけだった。まりかや灯太、玲子には見せたくなかった弱い面を、なぜか依には見せられる。彼は繕った強さの無意味さを隼人に教える。隼人は時にそれに苛立ち、時に安らかになる。そして今は、まだ依が手を握っていてくれたことに感謝の気持ちを持っている。不自然さが、胸の中で熱になる。 覚醒が進むほどに、依の穏やかな寝息と、冷たい手のひらの感触がはっきりとする。そうすると隼人はふと、もっと距離を縮めてみたいという気になった。 繋がった手をシーツの上で滑らせ、顔を近付ける。大きくなる鼓動と、夏の夜の匂いが背徳感を煽った。まだ、熱が下がっていないのかもしれない。そう思っても、体は引かない。心音は大きさだけでなくそのテンポも増し、どこまでいくのだろうという興味もあった。 「ん……」 呼吸が干渉し合うほど近接し、鼻の頭が軽くぶつかると、依がようやくくぐもった声を漏らした。吐息が、隼人の唇を撫でる。隼人は息を呑み、体の動きを止めた。 「う……ん……?」 依の意識が、目覚めに近付く。隼人は仕方なく、そっと体を離した。 「あ、れ……はやと……くん?」 寝惚けた声を上げながら、依は深く息を吸い、それを吐いた。隼人もまた、深呼吸をする。もし、依が起きなかったら、触れていた。あの瞬間、それでも構わなかった。 「ん……ごめ、寝ちゃった……」 さりげなく繋がりを解くと、依ははぁ、と息を吐き、目を擦りながら体を起こす。隼人は空いた手で、ルームランプのスイッチを入れた。 「っ……」 急に訪れた光に、依が目を細める。隼人にとってもその光は眩しく感じられ、瞬きをする。 「……わり」 「ん……平気。ごめん」 目が慣れると、隼人はすぐに時刻を確認する。午後九時過ぎだ。随分長いこと眠っていた。 「……九時か。随分寝ちゃったな」 首を鳴らし、両腕を伸ばしながら依は言った。おそらく、手に痺れが残っているだろう。隼人の手にもまだはっきりと感触が残っている。けれど、依は何も言わなかった。 「具合は? どう?」 「いい。だいぶ」 「よかった」 依が微笑む。隼人はそっと目を逸らした。 「お腹空いた……隼人くんは?」 「……少し」 「ゼリーは? プリンと、グレープフルーツもあるけど」 「……ゼリー」 「待ってて」 立ち上がり、依はメインライトを点けながら一度部屋を出た。より明るい光が射して、乱反射を起こす。眉の辺りの痛みを、隼人は両手で解した。 初めて彼女ができた時、キスをした時、セックスをした時。緊張したし、不安だった。でも越えてしまえばどうということはなかった。すぐに慣れた。 でも、もし依と、と考えた時、それらは決して簡単なことではない。感情の加速を実感するほどに、その困難さが増すような気がした。もどかしく思えても、不安はなくならない。 しばらくして、ノックと共に部屋に戻ってきた依は、隼人に二種類のカップゼリーを差し出した。 「ミックスか、白桃。どっち」 「……白桃」 「食べさせようか?」 ゼリーの一方を受け取った隼人は、動揺してずっしりとした重みのゼリーをシーツの上に落とした。気まずい沈黙が流れる。依が慌てた様子で胸の辺りで自分の行動を否定するように手を振った。 「あの……冗談だよ。ごめん」 「…………」 隼人は気を落ち着けて、ゼリーを持ち直し、ビニールを剥がした。 「スプーン」 「……サンキュ」 スプーンと引き換えにビニールの蓋を受け取り、依は手持無沙汰にそれを折った。 「俺、リビングにいるから。何かあったら、言って」 「ん……」 今度は隼人も引き止めなかった。依が出て行って部屋に一人になると、隼人は痺れの残る手で少しずつゼリーを食べた。額に張られたジェルシートは熱の吸収を飽和させていて、新たに生まれる熱は、行き所をなくし隼人の体内を彷徨っていた。

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