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第15話
午後三時を過ぎた頃のカフェは、ひどく混み合っていた。大きな規模のチェーン店であるこの店のコーヒーを特に美味しいとも思わなかったけれど、まりかはこの店が好きで、デートの時には必ずといっていいほど訪れる。
テストが終わってから、まりかは雑誌の撮影に忙しく、会うのは久しぶりのことだった。ずっと依のことばかりを考えていたせいで、会わずにいた時間を長く感じた。
見ただけで吐き気を覚えそうな大量のクリームとたっぷりのキャラメルソースがかかったコーヒーのようなもの、を、まりかは幸せそうに飲んでいる。隼人は特にまずいとわかっているブラックのアイスコーヒーをちびちび飲みながら、時折現実から逃げるようにして窓の向こうを見やった。繁華街の大通りは、夏休みということもあって人も多く、逃避にはいささか煩すぎる風景だった。
「ねぇ、隼人、聞いてる?」
家の窓から見る景色が懐かしくなって嘆息すると、まりかが不満げに隼人の手を人差し指で叩いた。隼人は慌ててまりかの方を向き直る。ピンクのチークの載った頬を膨らませ、まりかはもう、と上目づかいで隼人を見た。
「ごめん。何?」
「聞いてなかったんだぁ」
「ごめんって。あー、昨日、あんまり眠れなくて」
「どうして?」
「いや、何か、暑かったから、寝苦しくて」
まりかは納得のいかない様子でふぅん、と漏らして、ストローをくるくるとプラスチックのカップの中で回した。
「ごめん。で、何の話?」
「んー……」
「ちゃんと聞く。ごめん」
隼人が頭を下げると、まりかはようやく機嫌を直したようで、表情を緩めた。
「あのね、昨日ミキと遊んでてー、ミキが、まりかの彼氏かっこいいねって」
「ミキって?」
「えー、こないだ話したじゃん。同じ雑誌のモデルの子」
「そう……だっけ。まぁ、じゃあ、ありがとうって、言っといて」
「んー、でねー、まりかたち、もうすぐ付き合って一年でしょ?」
隼人がまりかと付き合いだしたのは夏の終わり頃だったので、確かにそろそろ一年が経過する。隼人は微笑みつつも、曖昧に頷いた。
「ミキがね、一年の記念何するのーって」
「記念……何って?」
「ミキはぁ、彼に指輪、貰ったんだって。おそろいの」
いつにも増して遠回しなまりかの話の着地点が見え、隼人はとりあえず笑みを浮かべて見せた。もう自分の伝えるべきことは全て伝えたとばかりにまりかは話を終え、コーヒーを飲みながら隼人の反応を待っている。隼人はアクセサリーを普段つけないし、ペアリングに興味もない。どうにか説得できる理由を模索する。
「……でも、まりか、撮影で他のアクセ着けたりするじゃん。邪魔になるだろ?」
「重ねて着けても平気だし、合わない時はちゃんと外すもん」
隼人の精一杯の拒否が伝わるはずもなかった。まりかはすでに指輪を買う以外の未来を排除しているだろう。隼人は気を重くして、内心で溜息をついた。
「でね、昨日ミキと買い物行ってぇ、すっごいかわいいお店、見つけたのね?」
「え、あー……」
駄目押しの一言を加え、まりかはよく使うお気に入りの角度から隼人を見上げた。
隼人の頭の中で、依と自分のペンダントのことがちらつく。胸が痛み、指先に感触が蘇る。
「だめ?」
焦燥の波が寄せ、隼人は息を吸い込んだ。そうすることで事が丸く収まるのならば、それが一番平和とも言える。ふとそんな考えが浮かび、隼人は下げていた視線を上げた。まだ戻れるなら、そうするべきなのかもしれない。
わずかに残っていたコーヒーを飲み干す。反論するように鼓動と熱がうねったけれど、隼人はそれを無視した。
「……わかった。行こ」
「いいの?」
「ん」
隼人が頷くと、まりかは手を合わせて顔を綻ばせた。その顔を見た途端、隼人の胸の痛みはいっそう増した。
まりかが見つけたというアクセサリーショップはとてもシンプルな佇まいだった。小さな店内に、小さなショーケース。店に入ると、まりかはその中で一際目立つスペースを指差した。飾られているのはシルバー素材のアクセサリーが中心で、どれもワンポイントに深いブルーが入れられていた。
「これ、ね、すっごいかわいいでしょ?」
下端を濃紺のラインで囲まれた太めのシルバーリングを指差し、まりかが言った。面はフラットで、男でもあまり抵抗のない造りになっている。
よかったらお出ししましょうか、という声と共に店員がさりげなく二人に近付いた。文字もお入れしますよ、と続ける店員に、まりかが喜んでいる。その様子はどこか芝居じみていて、自分から行こうと言ったくせに、隼人は早くもまりかの提案を受け入れてしまったことを後悔していた。
「見せてもらお。ね?」
「……ん」
ガラスケースから指輪が取り出される。
「ね、隼人、はめて?」
店員に手渡された指輪を、隼人に差し出す。どこの指にはめるのか、反応が見たいのだろう。隼人はどうにか微笑み、まりかの右手の薬指に指輪をはめた。細い指にその指輪はかなり大きく、余裕ができている。それでもまりかは満足そうだった。
「えー、やだー、超かわいいー」
まりかは右手の薬指に光る指輪をひとしきり眺め、感嘆の声を上げた後で、早速サイズの打診に入った。隼人もサイズを聞かれ、わからない、と嘘をつくと、抵抗も空しく店員が大丈夫ですよ、と答えた。
「隼人もはめてみようよ」
店員がいくつか出してきた在庫の指輪のうちのひとつを差し出す。まりかがそれを受け取り、隼人の薬指にはめた。瞬間、質量以上の重みが圧し掛かったのがわかった。まりかはとても幸せそうにしている。
「ね、超かわいくない?」
「……うん」
「えー、どうしよー。でも他も見る?」
まりかが後はもう一言待つだけという状態で隼人を見る。隼人は少しの間目を閉じて、自分を奮い立たせた。
ここまで来て逃げられはしない。買って、身に着けるべきだと隼人は自分を強迫する。それで均衡を保てるならば、まりかだって喜ぶし、何も気付かなかったふりをしてこれまでと変わらない世界を生きていける。
あれだけはっきりとした熱、衝動を覚えておきながら反発しようとするのは悪あがきでしかなく、それでも、隼人はそう考えずにはいられなかった。もう陥落が近いという自覚があるからだった。
「隼人?」
「……これ、下さい」
混じり合い、歪む世界から目を背けるように、隼人は言った。外した指輪を店員に戻す。店員が笑みを浮かべ、それ以上の笑みをまりかが浮かべた。
「本当? 超、うれしい」
まりかが目を潤ませる。隼人は頷き、まりかの指輪を抜き取った。
「すぐ、お包みしますね」
「……お願いします」
二人分の指輪を手に、店員がカウンターの中へと入っていく。まりかがありがと、と言って隼人の腕に頬を擦り寄せた。隼人は脱力に見舞われ、必死で気力を保った。
丁寧に包装された指輪を受け取り店を出ると、隼人たちはすぐに二人で指輪をはめ合った。不均衡は、なくならなかった。それどころかひどくなりさえした。
まりかと別れた後、隼人は重い足取りで家に帰った。エレベーターに乗り、右手を胸の辺りまで上げて確認する。当然、薬指にはあの指輪が光っている。自分のしたことの無神経さに呆れ、がくりと腕が落ちる。けれど、指輪は落ちはしなかった。
ひどく虚しい気分だ。隼人は思う。自分が畏怖を誤魔化し逃げるためにまりかまで利用して、一体何をしているのだろう。最低だ。
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