16 / 21
第16話
まるで比重の重い液体の中を歩いているような気鬱を抱えつつ、隼人は家の中に入った。リビングのドアを開けると、まず、キッチンから漂うガーリックとオリーブオイルの香りに気付く。キッチンの入り口を覗くと、黙々と炒め物をしている依の姿が目に留まった。隼人は安堵と脱力を感じ、壁に体を寄せる。
依の顔を見ると、痛みと不安が揺れ動きながらも振幅を小さくしていく。弱くて情けないところばかりを見せている相手に、安らぎを感じるのはおかしいことなのか、隼人にはよくわからない。
首の力も抜け、頭を壁に預けながらしばらく依を見つめていると、やがて依が隼人を振り向き驚いたように目を瞠った。
「びっくりした……帰ってたんだ?」
「今、帰ったばっか」
「何してるの?」
「……何も」
小さく呟いて、隼人は体を真っ直ぐに正しキッチンの中へ入った。冷蔵庫からビールを取り出してプルトップを開ける。かつ、と指輪がアルミとぶつかって音を立てるのを、隼人は無視した。
「何作ってんの?」
「トマトスパゲティ。隼人くん帰ってこないのかと思ったんだけど」
「まだ間に合う?」
「間に合うよ」
依は表情を緩めて、ガーリックを炒めていたフライパンに薄切りのマッシュルームと玉ねぎのみじん切りを投入した。そばにはきちんと折り目のついた料理本が置かれている。薄く、白い湯気が空間の現実味を薄めた。
「この間までベーコンエッグも焼けなかったくせに」
「有機合成は得意なんだ」
「それ、本当よくわかんねぇから」
「そう?」
「そう。変」
隼人がきっぱり言い切ると依は困ったように眉を下げて笑い、座って待ってて、と促した。隼人は言われた通りにキッチンを出て、ダイニングではなくカウンターテーブルの椅子に座った。
「指輪」
隼人が缶をカウンターに置くと、フライパンに帆立を入れ、白ワインを注ぎながら不意に依が言った。てっきり何も気付かれていないのだろうと思っていた隼人は動揺し、思わず声を上ずらせた。
「っえ?」
「いいね、その指輪」
アルコールをとばしてトマト缶とコンソメを入れると、依が隼人の方を見て微笑んだ。
「よく似合う」
「……彼女が、これがいいって」
「そう。きっと、おしゃれな子なんだろうな……あ、しまった。お湯わかしとけばよかった」
ソースが完成間近になってから順序の間違いに気付いたらしい依は、頭を掻いて寸胴鍋に水を張った。隼人は一瞬このまま指輪の話をうやむやにしようかと考えて、けれどそれはすっきりしないと思い直した。
「責めないのかよ」
「責める? 何を」
「玲子の……まだ……」
指輪の周辺が干からびていくような違和感を覚えながら、隼人はぐずぐずと言葉を濁した。格好悪いと、情けないと思う。今はもう、後悔しか感じなかった。
「あれとそれとは、全然違うものだよ」
依は冷静にそう言って、水を張った鍋を火にかけた。隼人は釈然としなさを覚え、視線を落とした。
「ゆっくりでもいいと思う。俺は……」
くつくつと煮立っているソースをスプーンで掬い味見をし、依は一度言葉を区切った。隼人はわずかな緊張を抱えながら、次の言葉を待った。
「俺は……十年も経つのに、まだまともに触れもしない。アパートにいる時だって目の触れないところに入れてずっとそのままだったんだ」
五年間をかけても何も前に進むことができずに目を逸らし続けてきた隼人にしてみれば、十年という期間が長すぎるとは思えなかった。
依はパスタの分量を計量用のリングで量って、沸騰した湯の中にそれを散らした。
「ただ自分を正当化したいだけなんだよね」
「正当化?」
「母さん、死んだのは俺が十二の頃だったけど、体弱くて、よく入院しててさ、元々ほとんど祖父母に育てられたようなものなんだ。すっごい田舎で、病院も遠かったからあんまり会えなかった」
「……ふぅん」
「友達もいなくて、っていうか、かなり苛められた。こんな性格だし、男にしか興味なかったし……別にオープンにしてたわけじゃないけど、何かおかしいってみんなに思われてたんだろうな。いつも一人で泣いてたよ。大学受かって東京出てきても、ほとんど変わらなかった。友達もあんまりいないし、恋愛もできない」
話の重みとは裏腹に、依の表情はとても穏やかで淡々としていて、それが隼人を困惑させていた。特に意識もせずに何度も彼を変だと言ってしまったことを反省する。依が動じなかったのは傷つかなかったからではなく、慣れているからだったのだろう。
「俺は弱くて、だから、全部父さんと母さんのせいにしてる。両親のせいで俺は変で、ゲイで、苛められて、一人なんだって。母さんが死んだ時も悲しいより、無責任だって怒りの方が大きかったし、だから、形見なんていらなかった。なんか……不幸の証、みたいで。そのくせ捨てられもしなくてさ、矛盾してる」
「何もおかしくないじゃん」
「え?」
「俺があんたの立場でも親を恨むよ」
隼人の率直な感想に依は目を丸くして、それから眉を八の字にして小さく吹き出した。
「……何だよ」
「玲子さんと同じだね」
「は?」
「悲しむより怒る方が健全よ。子供の幸せは親の責任なんだから、間違ってなんかないわよ、一生恨みなさいって。びっくりしたな、あれ」
「……」
「親だって、その方が気楽よ、とも言ってた」
ふと、玲子は隼人が真実に気付いていることを知っていたのではないかという考えが隼人の脳裏に浮かんだ。知っていて、もしかすると彼女もまた、隼人と同じ恐怖を抱えていたのかもしれない。今となっては確かめる術もなく、隼人は胸をざわつかせながら、ビールに口を付けた。
「ペンダント、まだ持っててくれてありがとう。ごめん」
「…………それは、俺も」
依は笑みを深くし、その指輪、本当によく似合うよ、と言って、スパゲティを茹でている鍋を火から下ろした。複雑さを押し隠すように隼人は短く息を吐く。
「もうできる」
「……ん」
「ところで、二人前食べれる?」
「え、いや、そんないらないけど」
「分量間違えた」
「……随分慎重に量ってるように見えたんだけど」
「ごめん。本当は数字掠れててよく見えなくて、適当だった。これ、多いよね」
依が気まずげに鍋の中身を隼人に見せる。確かに、スパゲティは三、四人分ありそうだ。
隼人は思わず笑いを漏らして、有機合成は得意だと自信満々だった態度を指摘した。依は計量リングの目盛を確認しながら、首を捻った。
出来上がったスパゲティをダイニングテーブルに並べ、隼人たちは食事を始めた。スパゲティは量こそ多過ぎるものの、ワインの風味がほどよく残り、味はかなり美味しいと隼人は思った。けれど依は納得いかない様子で、スパゲティをフォークに巻きつけながらまだ首を傾げている。
「うまくいくと思ったんだけど……」
「いや、普通にうまいけど」
「量は?」
「多いけど」
「難しいな……有機合成、本当に得意なんだけど」
「だから、違うんだって。それは」
「うーん」
「まぁ、次、頑張れば」
隼人が言うと、依は傾げていた首を戻し隼人を見て、そっか、とはにかんだ。長い睫毛が伏せられ、頬がかすかに赤らむ。どきりとした隼人は、狼狽を隠すように目を逸らした。何度か同じことを経験しても、未だに依の地味な風貌に心が跳ねる自分に慣れることができない。
「なんか、暑ぃ……な」
隼人は下手に場を誤魔化した。すぐにそれがあまりにもわざとらしすぎたということを自覚し、居た堪れなくなる。依は隼人のそんな心情には気付かない様子で、テーブルの端にあったエアコンのリモコンに手を伸ばした。
「温度、下げよう……か……」
ボタンに手をかけ、リモコンをエアコンに向けた依はふと、その手を止めた。瞳の色が変わったことに気付いた隼人はその目線を追って、エアコンの取り付けられた壁に着目した。依の視線は壁に寄せて設置されたキャビネット上の月めくりのカレンダーに向いているようだった。元々は玲子が置いていたもので、死後ページを捲らずにいたことに隼人が気付き、今朝八月のカレンダーに切り替えたばかりだった。テストが終わり夏休みに入ってからというもの、すっかり曖昧になった日付の感覚を取り戻し、今日の日付を思い出す。八月十二日。日付を目で確かめて、初めて隼人は世間でいうところのお盆期間に入っていることに気がついた。
「盆?」
「え……?」
依はぎくりと肩を震わせて、リモコンのボタンを押した。高い電子音が突き抜けて、エアコンが稼働音を変えた。
「この時期じゃなかったっけ。そうじゃなくて?」
「あ……うん。旧盆……あれ、でも、こっちは七月?」
「こっちって?」
「東京は七月にやるとかって、聞いたことが」
「知らねぇ。そもそも、盆って何すんの?」
「墓参り、とか?」
「ああ……」
葬式の後、玲子の遺骨はすぐ都内の霊園の一角に埋められた。四十九日を過ぎてからの納骨が一般的だけれど、玲子は墓の購入だけでなく葬式後すぐに業者による納骨を済ませるというところまで指定していた。隼人の性格をよく知った上でのことだろう。
隼人はまだ一度も行っていなかったけれど、代わりに確認に出向いてくれた玲子の友人の弁護士は、高台からの眺めが綺麗な場所だと隼人に教えてくれた。墓の場所の地図は、通帳や玲子が遺した資産の権利書などと一緒に、玲子の部屋の金庫に仕舞ったままだった。
「墓参りか……」
玲子が死んでまだひと月半で、形見のペンダントもほとんど触れないような状況で、果たして墓参りなど成立するのかどうか考え、隼人は歯切れを悪くした。
「あ……場所、わかれば俺が行こうか……?」
依が気を遣っているということがわかって、隼人は頭を振った。
「いい。行く」
「そう、わかった……俺は……」
「来れば、いいだろ」
また依の前で情けない面を見せてしまったという隼人のやり切れなさは、けれど、依の柔らかな笑みを見るとすぐにどこかに流れていってしまった。
「俺は行きたいけど、でもいいの?」
「何が」
「彼女とか……一緒に」
依が隼人の右手の指輪を一瞥した。持っていたフォークが震えて、隼人はそれを誤魔化すようにスパゲティの帆立をつついた。
指輪を買った帰りしな、まりかは雑誌の撮影と、先の試験で合格点を取れずに追試となった科目がいくつかあること、しばらくは会う時間が取れないことを隼人に告げた。隼人は心底ほっとして、そんな自分を恨めしく思った。もう既に、隼人は薬指の指輪を既に取り去りたいという強い衝動に駆られている。最低だとわかっていても、依と過ごす空間にいると、隼人はその思いを強くせずにはいられなかった。
「撮影だって」
「撮影?」
「モデルやってる。それに、墓参りになんか付き合わせたくないんだよ」
隼人のぞんざいな言い方に依はわずかに表情を強張らせたけれど、何も言わずにスパゲティを口に運んだ。
「混んでるだろうし、早めに行った方がいいかもしれないね」
元々高めの声を更にワントーン明るくして、依はいつの間にか濁っていた食事の空気を仕切り直すように言った。
ともだちにシェアしよう!