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第21話
遠く、水の音を聞いたような気がして、隼人はふと目を覚ました。眠っていたはずなのに昨夜の記憶の断片はあまりにもリアルで、ただ夢と現実の区別がつかないような変な感覚だった。見慣れた自室ではなく依の部屋の彼のベッドの上というせいもあると思う。
水滴の落ちる音の他に、エアコンのかすかな稼働音と小鳥のさえずり、それから隣で眠る依の寝息が聞こえている。隼人は半分夢の中にいながらも、まるでいつか顕微鏡で覗いた食塩の結晶のような朝だと思った。
隼人は息を吸い込みながら、依の寝顔がよく見えるように片肘をついて体勢を変えた。エアコンの風が依の髪をさらりと撫でる。鼓動は落ち着きながらも、熱の膜は張り付いたままだ。この先何があるか隼人にはわからないけれど、それでも、この張り付いた膜の特別さはずっと変わらないだろうと思った。
「……ん」
触れることもなく、隼人がただ依の寝顔を見つめていると、しばらくして依が起き出す気配があった。丸まって、目を擦りながら息を吐く。それから、ぎくりと体を震わせ、腰の辺りに手をやった。
「っつ……」
「平気?」
隼人が声をかけると、依はぼんやりとした視線を隼人に向け、それから照れくさそうに視線を逸らした。
「……まぁ」
「おはよ」
「……おはよう」
「痛い?」
「いや……うん。何か、昨日より痛い」
シーツに頬を擦り寄せて、依は苦笑を漏らす。隼人は依のこめかみ辺りに触れ、指を滑らせた。朝の清廉な光が感触をクリアにする。
「隼人くん?」
滑らせた指で首筋をつたい、鎖骨に触れた隼人は、ふと思いついて部屋を見回した。昨夜は余裕がなく、初めて入る依の部屋を観察することができなかったけれど、部屋はほとんど客間の時のままで、依の荷物はあまりないようだった。
「あれ、どうした?」
「あれって?」
「玲子のペンダント」
依はわずかに動揺した様子で唇を震わせた。
「あ……そこの、テーブルの抽斗」
「開けていい?」
「……うん」
隼人は体を起こし、依が指し示したベッドサイドに置かれた小さなテーブルの抽斗を開けた。中に入っていたのは直径五センチほどの丸型の箱だけで、隼人はそれを手に取り蓋を開けた。ペンダントは汚れひとつなく、大切に収められていた。
「……プラチナって、確か錆びないんだよな」
「金属の中で、二番目にイオン化傾向が小さい。電子配置が安定してるから、王水でもなきゃ溶けないよ」
「オウスイ?」
「硝酸と塩酸の混合液」
「つまり……」
「普通、錆びない」
「結論だけ、言えよ」
シーツに包まりながら、中学で習ったよ、と依が笑った。隼人はペンダントを箱から出す。ようやく触れられたことに感慨のようなものはなかった。
「なんか……プラチナって思ったより軽いな」
「……」
「依が玲子のこと話してる時、最初すげぇ苛々した。昔の俺、見てるみたいだったから。いつも玲子のそばくっついて回って、学校でも玲子の話ばっかりしてた。中学ん時に玲子が養母だって知って、もうそんな風にできなくなって……悔しかったんだんだと思う」
「……玲子さん、知ってたよ」
依の唐突な切り返しに、隼人は衝撃を受け、目を見開いた。
「黙っててごめん。玲子さんには、絶対言わないでって言われてた」
「玲子、話したの?」
「うん。教えてくれた」
「……何て」
「俺が、聞いたのは、隼人くんは玲子さんの昔の旦那さんと、その……愛人の……人との子供、だって」
大雨の中自分を待っていた、母親を名乗るやけに若い女。彼女は玲子の元夫の愛人だったのだ。隼人はあの時の恐怖を思い出し息を呑んだ。
「相手が妊娠した時、その人まだ十八で、それで……玲子さん、慰謝料なしで離婚に応じる代わりに隼人くんを無理矢理引き取ったって言ってた」
「な……」
「隼人くんが中学生の時に、隼人くんの部屋で戸籍見つけて、それで知ってるんだって気付いたって。だけど怖くて未だに何も聞けないって」
「怖い……?」
「自分のエゴで実の親から隼人くん引き離したこと。恨まれてるんじゃないかって、いつか本当の親のところに行ってしまうんじゃないかって、それが怖くてしょうがないって」
玲子が知っていたかもしれないという可能性は、隼人も考えた。実際にそうだと知らされると、思っていた以上に辛い。
「そのペンダント、隼人くん引き取った日に買ったんだって言ってた。将来恨まれても嫌われても、それでも自分の子供を守ろうって決めたからって。強くいるためのお守りなんだって」
隼人は目を閉じて、息を吸う。すれ違ったまま死んでしまった大事な母親のことを思うと、今にも体が震えそうだった。
「俺も馬鹿だけど……玲子も大概だな」
「似たもの親子、かな」
「思春期損した」
依は小さく笑いながら体を起こし、隼人の肩をそっと抱き寄せた。悲しみの波はいくらか凪いで、隼人は決意する。もう同じことを繰り返さないように。
「俺、ずっと強くなりたいって思ったけど、結局無理で何も成長しなかった。玲子も、同じだったんだな。あんな滅茶苦茶で、気ぃ強かったくせに」
「ああいう人だから、弱ってる時とか、すごく無理してたんじゃないのかな」
「さぁ……」
隼人は言葉を濁し、依を抱き直して肩口に頬を寄せた。
「今も、不幸だって思ってんの?」
「え?」
「形見のペンダントは不幸の証だって言っただろ」
依は逡巡したけれど、やがて首を小さく振った。
「今は、幸せだよ」
確かめるように、依が鼻を隼人の髪に埋めた。重なる呼吸と心音が心地よく、安心できる。
「……俺も。玲子が死んで、滅茶苦茶落ち込んだけど、でも、玲子が依連れてきて、今あんたがそばにいて、それはすごくよかったって思う」
不思議だ、と隼人は自分の中にある揺らぐような感覚を評価した。玲子が死んだことへの悲しみは変わらないのに、今、それは明るい光の中にあって、触れることが怖いとは思わない。
「俺はすごく弱いけど……今は、あんたのために強くなりたいとも、思う。自分のためだけじゃなく」
「……うん」
「だからこれ、やっぱ、まだ持ってて」
「え?」
「依に持ってて欲しいんだよ」
「いいの?」
隼人は頷き、目を閉じた。死を受け入れ前に進むのに、ペンダントを身に着ける以外の答えがあることを、これまで考えもしなかった。逃げるわけでも目を逸らすわけでもなく、大切な人に持っていて欲しい。
「……いつまで」
「俺に愛想、尽かすまで」
「じゃあずっと持ってる」
「いいのかよ、そんなこと言って」
「どうして?」
「趣味最悪って、言った」
少しの間を置いた後で、依はふ、と吐息のような笑いを漏らした。隼人の髪を撫でて、距離を更に詰める。
「撤回する。そんなこと思ってない。ごめん」
「……」
「俺が愛想尽かすまで、俺のも持っててくれる?」
「そのつもりでいた」
「本当に?」
抱き締め合う腕を解き、隼人は依にキスをした。それから、耳元に唇を寄せる。
「好きだ」
依の耳朶がみるみる赤く染まり、淡い色彩の朝の風景の中で、隼人はそれをとても綺麗だと思った。
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