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第1話
降り続いている雪が街を白く染めていた。
真冬のニューヨークの寒さは、まるで鋭利な刃物のように研ぎ澄まされている。日本の暖かな桜の季節を待つ余裕のある冬とはまるで違う。冷たく他人行儀だ。それは、もしかすると自分が日本人だからそう感じるのかもしれないけれど。
ニューヨークで生活を送るようになって十年が経過するものの、未だ森(しずか)にとってここは異国でしかない。永住権を獲得し、日本にはついこの間出張の機会が与えられるまで、十年間一度も帰らなかったにも関わらずだ。それは、気付くといつも日本に思いを馳せているからなのかもしれない。戻る勇気はないのに、それでも脳裏から拭い去ることができない。自分の意志で出てきた日本。日本には、彼がいた。胸が熱に焼けるほどに好きだった。十年間忘れようと念じ続けて、結局できなかった。
「――……」
ぼんやりと窓の外を眺めていた森はパソコンのディスプレイを向き直り、マウスに手をかけて小さく息を吐いた。
日本への出張を終え、年末年始に合わせ休暇も取った。森がニューヨークに戻ってきてからもう十日が経つ。それなのにまるで仕事に集中できない。日本に行っている間に自分がしたことを考えるとどうしても気重になる。表向きは上司の友人のデザイナーの手伝いということになっていたけれど、森がわざわざ名乗りを上げてまで日本に行ったのはその仕事に魅力を感じたからというわけではない。三崎青児(みさきせいじ)に会えると思ったからだ。青児は森の高校の同級生であり、ずっと片思いをし続けたまま今も忘れられない相手だ。高校時代には思いを伝えることすらできないまま、現実から逃げるようにこの国にやってきてしまった。忘れようと念じる一方でずっと青児のことを考えて、前に進めない自分にうんざりする。そんなことを何度も繰り返してきたけれど、十年が経って偶然舞い込んだ日本への出張話に唐突に期待した。一目でも構わない。そう思った。一目彼を見て、それで諦めよう。そうも思ったかもしれない。そんなことできるはずがなかったのに。
森が初めて青児と出会ったのは、高校に入学して少し経った頃だった。クラスは違ったけれど、青児とその幼馴染の阿南僚子(あなみりょうこ)は入学式からとても目立つ存在で、森も一方的に二人のことは見知っていた。モデルみたいに整った風貌の派手な二人組。そんな認識だったと思う。関わることはないだろうと思っていたのだけれど、それが覆されたのは入学して三カ月ほど経った頃だった。ちょうど一学期の期末テストが始まろうとしていた。入学してすぐに美術部に籍を入れたものの、早くも幽霊部員になってしまっていた森は、ある日顧問に絵を描くように頼まれた。文化部の展示スペースの使用の順番がちょうど美術部に回ってきていて、部員の少ない美術部の展示を少しでも派手にできるよう森にも展示品を出して欲しいという話だった。森は仕方なく適当に描いた中庭の木のデッサンを提出したのだけれど、どういうわけかそれは展示スペースの一番目立つ所に飾られてしまった。
――初夏染める若葉って。
放課後の生徒用玄関で、森は突然後ろからそう声を掛けられた。下校時刻が迫っていて、辺りはオレンジ色に染まり、周囲には誰もいなかった。森は声の方を振り向き、視線の先に立っているのが青児だということに気付くと、驚いて目を瞠った。戸惑う森に青児は笑みを浮かべ、初夏染める若葉って、あれ描いたのお前なんだろ、と続けた。森は何のことかわからずに首を横に振ったのだけれど、よくよく話を聞くと青児が言っているのは森が描いたデッサンについてだということがわかった。タイトルをつけた覚えはなかったのだけれど、顧問が適当につけてしまったらしい。青児はその絵を見て、描いた人間のことが気になったのだと言った。綺麗な絵だったから、と。あの時胸に走った痛みに似た熱を、森は今でも鮮明に覚えている。
それがきっかけとなり、森は青児とその幼馴染の僚子とつるむことが多くなった。青児と僚子の喧嘩を仲裁したり、青児との喧嘩を僚子に仲裁されたり。青児は信じがたいほど子供な性格をしていて、ちょっとしたことで喧嘩は大事に発展したりもした。けれどそんな中でもいつも傍らに熱は存在し、膨張し続けた。いつからか熱は森の身体を包むように広がり、もう逃れられないとわかる頃には手遅れだった。青児のことばかりを考えて、誰にも気付かれないように熱い目で彼を見る。思いが報われることばかりを考えて、今思えばあの頃が一番幸せだったのかもしれない。けれどそれは長く続かなかった。青児が自分と同じ目で誰を見ているのか知ってしまったからだ。相手は青児の担任教師だった。それからは喧嘩の質も少しずつ変わっていった。青児が好きなのは自分ではないという事実をどうにかして変えられないかと、そればかりを考えてしまうようになった。男が相手でしかも教師だなんて、そんな恋愛はやめろ。そんなことを何度も言ったように思う。青児は譲らなかった。そして心が限界に近付いた頃、父親が仕事でアメリカに移る話が舞い込んできた。最後に青児に会った時にも森は青児と喧嘩をして、結局そのままこの場所へと逃げてきてしまった。ニューヨークに来てからは毎日どうにか忘れようとして、けれど念じるほどに歯車が錆びたようにうまく回らなくなった。
十年ぶりに日本で青児や僚子に会って、状況は何もかも変わってしまっていた。僚子はスタイリスト、青児はライターになっていて、青児が好きだった教師は事故で死んだ。思いは最後まで受け取って貰えなかったと、青児は苦く笑った。そして青児の隣には、教師の面影を持った少年がいた。
初めは混乱した。少しずつ怒りが顔を出した。十年間自分が青児を忘れようと苦しんでいる間に青児が恋を諦め、別の恋愛を始めていたことに。そして自分勝手な怒りの感情が落ち着いた後、残ったのは諦めるなら自分を選んで欲しかったという思いだった。情けなくて、でも悲しくて、青児のパートナーとなった碧(あお)が羨ましかった。結局森は碧への嫉妬から、彼を傷つけてしまった。結果はわかっていたのに。嬉しいことなど何もなかった。傷つけて、自分のしたことに傷ついて、また逃げるようにしてここに戻ってきた。
森はまた息を吐いて、そっと唇に手を触れる。日本を発つ前に碧に会った時、碧を困らせたくなって彼にキスをした。青児が触れている唇は薄く柔らかく、罪悪の味がした。自分が手にすることはない。永遠に。わかっている。いつだって、頭では理解しようとしてきた。けれど心がそれに追いつけたことはない。
もう一度――
「――カ」
もう一度日本に帰ったら。帰ったら、自分はどうするだろう。だめだ。きっとまた傷ついて強がって、繰り返してしまう。
「……シズカ!」
こめかみを押さえ項垂れていた森は、突然肩を叩かれて驚き顔を上げた。詰まっていた息が解放されたように吐き出される。声の方を振り返ると、同僚のノアが大きな瞳を瞬かせた。綺麗なブルーの瞳だ。
「ノア……?」
ノアは同じ会社で働く同い年のデザイナーであり、ニューヨークでの森の数少ない友人の一人だ。
「どうしたの、大丈夫?」
「え……?」
「顔色悪いよ」
「……あぁ……ちょっと……寝不足」
「寝てないの?」
「うん……時差ぼけかな」
「まだ直してないの? しょうがないな」
ノアは溜息混じりに笑って、それから手にしていた紙袋を森のデスクの上に置いた。
「カプチーノ買ってきた。休憩しよ」
「……サンキュ」
森は重い気分を押し込め、どうにか笑みを浮かべて立ち上がった。
ニューヨークで大学を出て、研究室の教授のつてで就職したこのデザイン事務所は、小規模だけれど面白い仕事もあるし居心地がいい。休憩スペースのスツールに座ると、森は少しほっとして息を漏らした。ノアが苦く笑いながら温かいカップを手渡してくる。
「疲れてるね。日本、楽しくなかった?」
森はカップを受け取りながら小さく礼を言って、仕方なく笑って見せた。
「いや……楽しかったよ」
「本当?」
「うん……あー……京都にも、行ったし」
「キョート!? いいな! ゲイシャいた?」
「会えなかったよ」
興奮した様子のノアに少し笑いながら、カプチーノをそっと飲む。エアコンの効きが鈍いせいで冷えはじめた身体に温かさがじわりと染みた。
「……何か、やっぱり元気ないんじゃない?」
「え?」
「行く前はすごく楽しそうだったのに」
「……そんなことないよ」
「あるよ」
ノアはきっぱりと言い切って、森は周囲に漂う敗北感を吸い込んだ。行く前には十年の間に溜め込んでしまった希望があったから、浮かれてしまっていたのかもしれない。最悪のパターンを予想する一方で、自分に都合のいいパターンに思いを馳せていた。結局、待っていたのは想定していた最悪のパターンより尚悪いものだったのだけれど。森は曖昧に笑うことしかできず、ノアは困ったように眉を下げて息を吐いた。
「シズカはいつも何も言わないから……何かあったなら話くらい聞くのに」
「ん……ありがとう。でも大丈夫だよ」
ノアはそう、と引き下がった。ノアの気持ちはありがたいと思うけれど、心配させるほどのことじゃない。だって、自分がどうするべきかはもう知っている。いつまでも青児のことばかり考えていないで、前を向くべきなのだ。青児を忘れて新しい恋人を見つけて、その人を愛することでしかこの苦しみからは解放されない。青児は永遠に自分を見たりはしない。それはもう、わかり過ぎるほどにわかっている。
――鉛筆なのに色がわかるんだよな、お前の絵。
あの日の青児の言葉がまた蘇る。違う。だめだ。森は耳から離れないあの声を必死に否定した。あの声に、表情に。囚われていたら前には進めない。もう忘れなければならないのだ。記憶は感情を縛りつけるばかりで、森を苦しめる。
「シズカ?」
自然と垂れてしまう頭を、はっとして上げる。ニューヨークに帰って来てからずっとこの調子だ。弱さが露呈する。もっと強くいられたはずなのに。
「本当に大丈夫……?」
ノアは本当に心配そうに森の顔を窺った。森は説得力がないとわかっていながらも大丈夫だと返し、内心で重く息を吐いた。前を向く。後ろを振り向かない。他の誰かを好きになる。言葉にしてしまえばこんなに、こんなにも簡単なことなのに、十年もそれができずにもがき続けているなんて馬鹿みたいだ。芯が冷えるような感覚に森は震えてカプチーノのカップに口を付けた。ニューヨークの冬はいつもとても長く感じられる。それでもいつかは冬が終わって春が来るけれど、森自身の春はまだまだ訪れそうになかった。
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