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第2話
ヘルズキッチンにある森の行きつけのゲイバーBLACKBIRDは、まだ若いオーナーが経営していて客層も若い。金曜日の今日もいつも通り控えめなざわめきが漂う店内で、森の纏う空気は一際重かった。何杯目かのカクテルで、頭はすでにはっきりとはしていない。仕事が終わると森の足は自然と店に向かっていた。一人でいたくなくて、一晩付き合ってくれる相手を欲したのだと思う。
「……ちょっと」
頬杖をつきながらカクテルグラスの氷を回していると、オーナーのジェリーがフライドポテトを差し出しながら顔を顰めた。
「……何?」
「何じゃないわよ。どうしたの。ひどい顔よ」
ジェリーは頬に手を充ててそう言った。彼はとても男らしい外見をしているけれど、独特の語尾上がりの口調は性癖を隠しきれない。隠す気があまりないのだろうけれど。カウンターに頬がつきそうなほど落ち込んでいた森はよろよろと身体を起こした。アルコールが回ってしまって、空元気も生まれない。
「具合悪いんじゃないの?」
「……別に、普通だよ」
溜息が零れる。あまりにも説得力がないということは、自分でもわかっている。
「……シズカ、あなた帰って来てから変よ。日本に行く前はあんなに浮かれてたじゃないの」
またこの話だ。誰の目にも出発前の自分は浮かれていたのだということを思い知らされ、森は更に気分を重くした。馬鹿みたいだ。何を期待などしていたのだろう。
「ねぇ、ちょっと、大丈夫なの?」
「大丈夫だってば」
強い口調で言いながら、誤魔化すようにジャスミンジンジャーを流し込む。甘い香りと刺激が真っ直ぐに身体を貫いた。あまりアルコールに強くないことは、いいことなのだと思う。いつまでも酔えないのではアルコール摂取の意味がなくなってしまう。
「――Hi」
遠いざわめきに囲まれた静かな世界にふと注がれた声は、波を何重かに分裂させたように聞こえた。森は沈んでいた頭をゆっくりと上げて隣を向く。端整な顔立ちの男と目が合うと、彼はにっこりと微笑んで見せた。彫りの深い綺麗な顔と、しなやかなブラウンの髪と瞳。酔いの回った頭でしっかりと品定めをする。セクシーな唇。キスが上手そうだ。
「……どうも」
「隣、いい?」
「……どうぞ。でも俺酔ってるから、すぐ帰りたくなるかもね」
「一杯付き合ってよ。そしたら家まで送ってくからさ」
含みを持った口調で言って、彼は笑った。カウンターの中にいるジェリーがよかったわね、と笑い混じりに言った。
「さっきから気になってたんだ」
「……ふぅん」
「君日本人だろ」
突然言い当てられて、森は思わずどきりとして瞬きをした。アジア人であるということはすぐにわかるだろうけれど、欧米人に国名まで当てられるのは珍しいことだった。
「……中国人かもしれないよ」
「そう?中国人?」
「……日本人だけど」
「やっぱりね。俺日本人好きなんだ」
「はぁ……?」
「俺はレイ。君は、」
「……シズカ」
レイは微笑んで、ジェリーにギブソンをオーダーした。森はアルコールが回って重くなっている頭をどうにか落とさずに保ちながら、まだ半分ほど残っているジャスミンジンジャーを呷った。
こんな風にいくつの夜をやり過ごして来ただろう。いつもいっそその相手を好きになれれば楽なのにと心で思う。そして同時にそんなことは無理だとも思う。前を向きたくて相手を探しているのか、単に空虚を一時的にでも埋められればそれでいいと思っているのか。もちろん前者だと思いたいけれど、いつも結局進むつもりで同じところを行ったり来たりしている。いい加減堂々巡りだ。溜息が零れて、結局また沈みだした森の頭を、レイの手のひらが優しく撫でた。
むき出しの腕を冷たい空気が掠める。森はひどいだるさを覚えながら、ぼんやりと目を覚ました。記憶がはっきりしない。一体どれくらい飲んだのだろう。森は時間をかけて、ひとつずつ順番に記憶を引っ張り出す。確かジェリーに心配されるほど飲んで、結局最後は森がレイを自分の部屋に誘ったのだと思う。その後はお決まりの流れがあったはずだ。森はゆっくりと起き上がって、髪を掻き混ぜた。今朝は一際冷え込んでいるようで、髪の一本一本が凍ってしまいそうだ。
「――おはよう」
額を押さえて溜息を吐くと、静かな足音が頭に響いた。ベッドが揺れて、傍に人が座る気配。レイだ。
「大丈夫?」
「頭……痛い……し……寒い……」
「飲む?」
レイがミネラルウォーターのボトルを差し出す。森は大人しくそれを受け取った。手に力が上手く入らない。
「勝手に冷蔵庫開けてごめん。起こそうかと思ったんだけど……」
「いいよ……つか、ヒーターつけて。あんた寒くないの?」
「寒い」
ほとんど衣服を身に付けていないレイに森が呆れて問うと、レイは苦く笑いながらリモコンに手を伸ばしスイッチを入れた。冷蔵庫を勝手に開けるのは平気なのにエアコンは遠慮してしまうなんて変わった男だ。大きな稼働音が朝の静謐さを壊して、それは二日酔いの頭に容赦なく響いた。冷たいミネラルウォーターを流し込みながら、森はまた息を吐く。
「……今、何時」
「六時前。仕事?」
「今日は休み。あんたは?」
「俺は昼から仕事なんだ」
「……ふぅん」
「シズカ、何の仕事してるの?」
「……あんたは?」
「俺? 俺はソーホーのセレクトショップでバイヤーしてる」
「……あぁ」
レイの風貌を考えると妙にその答えに納得が言って、森はそう相槌を打った。レイは何が楽しいのかくつくつと笑いを零しながら、森に身を寄せた。
「それで、シズカは?」
「……デザイナー。小さい事務所だけど」
「何のデザイン?」
「色々……フライヤーとかCDのジャケットとか」
「へぇ。どんなの?」
森は面倒になってベッドの目の前にあるシェルフを指差した。そこにこれまでの作品を収めたファイルが数冊置いてある。レイは楽しそうにベッドから出て、シェルフからファイルを出して眺め始めた。もう一度会うかどうかさえわからないのに、二流デザイナーのポートフォリオなんて見て何が楽しいのだろう。ようやくエアコンが効き始め、森はぼんやりとレイの後ろ姿を眺めながらミネラルウォーターを飲んだ。
しばらくしてレイが一番大きなファイルを持ってベッドに戻ってくる。エアコンが効いてきたとはいえ、半裸でずっと立っているのは辛かったのかもしれない。レイの分のスペースを空けてやると、レイはありがとう、と森の頬に軽くキスをした。
「綺麗な絵、描くんだね」
何気ないレイの言葉は青児の言葉と重なって、森は動揺して視線を逸らした。
「別に……」
「そう? でも……ほら、これとか、俺好きだな」
レイはファイルを捲って、中身を指差した。森は何気なくそれを見やって、動きを留める。衝撃が一瞬の波となって森を襲う。それは比較的古い作品を収めたファイルで、高校生の頃のものも混ざっていたということをようやく思い出す。ニューヨークに来てからほとんど中を見たことはなかった。
「あ……」
「これだけデッサンなんだ」
青児と話すきっかけになったあの絵は、あの頃のまま、大事にファイリングされていた。動揺の後には激しい痛みが胸に走って、森は息を詰まらせる。酔いは一気に覚めて、森は胸を押さえる手に力を込めた。自分ではとうに捨てたものと思い込んでいたのに。それはただ都合よく作られた記憶で、本当は捨てる勇気なんて到底なかった。
「っ……」
「シズカ?どうしたの?」
「……何でもない」
息を吐くと、乾いたそれはゆっくりと空気を掻き分けた。どうしてこんなにも、忘れられないのだろう。望みなんて一縷もないのに。レイがファイルを閉じた音がして、それから身体を引き寄せられた。寒さをあまり感じないのに、身体は小さく震えていた。
「“セイジ”って」
「……え」
「ずっと寝言で言ってたから。セイジ、セイジって。セイジって、日本語?誰かの名前?」
「……、」
森は更に動揺し唇を噛んだ。目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。胸が苦しい。忘れたい忘れたい、忘れたくない。相反する気持ちとずっと戦い続けて、けれどどうしても進めない。
「……シズカ?」
「……寝言なんて……言ってた……?」
「うん。確かに」
レイは頷き、不思議そうに首を傾げた。森は自分の本心を実感して、気を重くした。一度開かれると、またいつものように際限なく感情が溢れる。押し込めることがどんなに困難でも、それはいつも簡単だ。
「……セイジ……っていうのは……日本語で……」
「うん?」
「日本語で……愛してるって、ことだよ……」
名前だと言ってしまえば更に深い追求は免れない。それは避けたかった。けれどその言葉を咄嗟に口にしてしまったのは、それをずっと望んでいたからかもしれない。
レイは少し考える仕草を見せたけれど、それ以上何も言ってこなかった。誰に向けての言葉か考えたのかもしれない。胸の内ですら言葉にしてしまうことが怖かった。けれどこうして口にしてしまうと実感する。青児のことが本当に好きで。好きで好きでどうしようもなくて。青児が碧を選んだことを知った今も、苦しかったあの頃と何も変わらない。どうしればいいのだろう。青児のことはもう忘れて前を向きたい。楽になりたいし、幸せになりたい。
森は堪え切れずに、思考を止めて強引にレイの唇を引き寄せた。レイの手元からファイルが離れて床に落ちる。森はそれを無視してレイの首に腕を回した。レイがあっという間に体勢変えて、肌が汗ばみ始めるまで、時間はそうかからなかった。
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