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第3話

オフィスにはデザイナー達がそれぞれの作業を進める音が響いていた。森も今朝舞い込んできたばかりのフライヤーの仕事に取り組みながら、一定間隔で溜息を零した。 週末はずっとひどい虚無感と共に過ごした。レイが森のアパートに泊まった次の朝、目覚めてから一度セックスをして、そのあと朝食を摂ってレイは仕事に行くと言って出ていった。またその内店で会うかもね、というような会話を交わしたような気がする。電話番号もフルネームも聞かなかったし、聞かれなかった。そうなることをわざと避けた。青児との思い出の絵を見られ、寝言まで聞かれ、それでもレイが深く追求しなかったことは助かったけれど、あれ以上のことは誰にも話す気になれなかった。いつもなら一晩の相手が部屋が出て行ってしまったあとにはいくらかの後悔を感じるのだけれど、今回はその余裕すらない。 フライヤーのレイアウトを一通り修正してマウスから手を離すと、森は鉛のように重い溜息を吐いた。 「――おい、シズカ!」 怒鳴るような呼び声に、森ははっとして顔を上げた。振り向くと、上司であるザックが苛立った様子で森を見下ろしていた。何度も呼んだぞ、と言って頭を掻く。 「あ……すみません……」 「電話だよ。日本から」 「日本……?」 よくわからないままにコードレスの子機を受け取る。この間の出張で手伝った仕事についてだろうか。森は首を傾げながら日本の事務所のメンバーの顔を思い浮かべ、子機を耳に当てた。 「……芹沢ですが」 「森?」 「……はい?」 「俺。青児」 「……は?」 「青児だよ。三崎青児」 「なっ……」 森はあまりに驚いて、受話器を落としそうになった。寸前のところで受話器を掴み直し、思わず辺りを見回す。ザックと目が合い、彼は不思議そうに何かあったのかと目で聞いてきた。森は慌てて首を横に振る。突然の出来事に反応しきれなかった左胸が大きく音を響かせ始めた。 「……青児?」 「だからそうだって。お前何驚いてんだよ」 「何……って……」 「驚いたのは俺の方だぞ」 「……何が」 「お前いつニューヨーク帰ったの?」 日本には短期の出張で行ったこと、年明けにはニューヨークに戻るということは、青児にも僚子にも言っていなかった。言ったところで青児が引き止めるはずもないことはわかっていたし、そもそも止められても困る。それに碧のことがあった後では伝え辛かった。 「……年末に」 森が低い声で短く答えると、青児が電話の向こうで溜息を吐いた。 「言えよ。お前ずっと日本いるとか言ってなかったか?」 「……言ってねぇよ」 「とにかく、いきなり連絡つかなくなったらまた心配するだろ。碧が名刺持ってたからよかったようなものの……」 碧に渡した名刺も日本滞在中のためのものだ。それで日本の事務所に連絡を取ってここの番号を聞いたのだろう。森は自分の行動を後悔した。全身の血液が逆流しそうだ。苦しさが溢れかけて、声も出なかった。 「おい、森、聞いてんのかよ」 固く目を閉じてゆっくりと意識して呼吸をする。雑音は遠のいて、青児の声がダイレクトに森の脳を震わせた。 「……聞いてる」 「だから連絡先教えとけって言ったろ。こないだみたいにふらっといなくなって十年音信不通なんてのはなしだぞ」 こうなってしまうのが嫌で青児には連絡先を教えなかったのに、鈍感ぶりには変化がない。十年前、アメリカに渡る前、最後に青児に会った時にも、青児はまるで自分の気持ちには気付いてくれなかった。かといって告白する勇気もなくて。どうしようもなく苛立って、素直にもなれず、結局心が壊れてしまうことから逃げたくてアメリカにやってきたのだ。十年忘れよう忘れようとしながら、青児のことばかりを考えていた。 「電話でもメールでもいいから教えろ。僚子も心配してる」 「……あとでそっちにメールするよ」 「だめだ。お前またそうやって逃げるだろ」 「……」 「お前そんなに俺のこと嫌いなの、」 青児は溜息混じりに、けれど冗談めかして言った。鈍いにも程がある。胸の痛みがひどくなって、森は拳を握りしめた。 「……嫌いだよ」 「あー、そうかよ」 「そー……だよ……」 青児はまるで本気にはしていないらしく、余裕のある声で笑って見せた。森には笑う余裕などない。青児にまた促され、仕方なくメールアドレスをぽつぽつと呟くようにして伝える。アルファベットを一音ずつ口にするとそれはまるで暗号のようだ。青児はメール送るから返せよ、と言って、森はどうにか返事のようなものを惹きだした。通話が切れると、ひどく傷ついている自分に気付く。 「っ……!」 心に刺さる棘の痛みに耐えかねて、森は電話を置き勢いよく立ちあがった。 「シズカ?」 近くにいたノアが驚いた様子で声をかけてくる。森は痛みを払拭するように掛けてあったコートを羽織った。 「……外出てくる」 「え?」 「コーヒー買いに行ってくる!」 「え、ちょっと、シズカ?」 ノアの声を遠くに聞きながら、森はオフィスを飛び出した。階段を駆け下りてドアをくぐると、しんとした冷たさが熱い身体に触れた。白い息を吐きだして、森は人の波に紛れる。人の気も知らないで、青児はいつも簡単に笑う。高校の時からそうだ。笑うことも触れることも、森に対しては躊躇しない。それがいつも苦しかった。 「っ……」 忘れろ、と頭の中で警鐘が鳴り響く。忘れなければならない。いつまでもこんなことに傷ついていてはいけないのだ。涙が溢れて、冷たくなった頬を伝った。森は歩調を速め、コーヒーショップの前を通り過ぎる。平静になれる場所なんてない。でもじっとしてはいられない。痛みに飲み込まれてしまいそうだ。一人で苦しむことに、森は慣れることができないままいる。 「――……っ」 当てもなく街を走っていた森は、やがて曲がり角を折れたところで向かいから来た誰かと派手にぶつかり、その場に尻餅をついた。衝撃に思考が止まる。頬を伝った涙が、手の甲にぱたりと落ちたのがわかった。 「いっ……て……」 「………すみません」 「いや……ごめん。ぼうっとしてて……大丈夫?」 「俺は……」 地面に手をついていた相手の男は痛みに顔を歪めながら森の方を向いて、森は泣き顔を隠すために咄嗟に顔を背けた。涙を拭おうとすると、目の前に綺麗な手が差し出される。細く長い指に思わず見とれながら顔を上げると、視線の先でぶつかった男が微笑んだ。ブラウンがかった髪と瞳。同じアジア人のようだ。 「立てる?」 「……平気です。すみません」 森は自分で立ち上がろうとしたけれど、先に男に手を取られ引っ張り上げられてしまった。辺りはこんなに寒いのに、温かな手のひら。空気の質が変わったような気がした。 「冷たい」 「……え?」 「手」 「あ……え……と……」 森が言い淀むと、男は微笑み自分のコートのポケットに手を突っ込んだ。 「よかったらこれ使って」 「え……」 男はポケットから取り出した十センチ四方ほどの白いものを森に手渡した。何事かと思いながら受け取ると、それはいわゆるカイロというもので、じんわりと温かさが森の手に広がった。 「まだ開けたばっかりだから」 「何で……」 「俺もう一個持ってるから、気にしないで」 それだけ言うと、男は最後にもう一度微笑んで去っていった。森は呆気に取られながら貰ったカイロを握り締める。温かさに、また涙が零れた。青児の声が耳に残って離れない。どうしろと言うのだろう。あんな声を聞いて、あんな風に気に掛けられて、でも手には入らない。両手でカイロを握って額に寄せる。小さな嗚咽が漏れた。こんなに弱いくせに、いつも必死で強がっている。青児に弱さを打ち明けていたら何か変わっていただろうか。それは答えのわかりきっている問いで、森はいっそう強く苦しくなった。

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