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第4話

落ち込んでいる時ほど、仕事帰りの森の足は自然とアパートのあるブルックリンではなくBLACKBIRDのあるヘルズキッチンへと向かう。今日もまた、オフィスから地下鉄に乗り店へと来てしまった。ジェリーは森の顔を見るなり、眉を顰めてこの間よりひどいじゃない、と言った。森は反論する術もなく黙り込んだ。外は陽が落ちてもう暗闇に包まれているけれど、時刻はまだ夕方と言っていい時間帯だ。客は少なく、静かにかかる音楽がよく聞き取れるカウンターで、森は呻くような声でジン・バックをオーダーした。そのまま力なくカウンターに突っ伏す。泣いたせいか、頭が異常に重い。昼間、青児からの電話に動揺してオフィスを飛び出した森は、結局コーヒーを買わずに涙が治まるのを待って仕事に戻ったけれど、それからは最悪だった。仕事には全く集中できず、ミスを連発してかなり久しぶりにザックにどやされた。 「――ちょっと、大丈夫なの?」 小さな硬質な音が頭に響く。森はジェリーの問いかけに平気、とだけ低く答えた。全然平気じゃないじゃないの、とジェリーが溜息を吐きながら言う。平気じゃない。全然、全く。諦めることを諦めてしまいそうだ。けれどそれではいつまで経ってもこの痛みからは解放されない。諦めても、諦めるのをやめても、どちらにしたって森は辛い。苦しみの淵は深くなる一方だ。 「……失恋でもしたの?」 ジェリーはそっと、まるで夫を気遣う妻のような声で尋ねた。常連といえど、客にあまりプライベートな質問をするべきかどうか迷っているという感じだった。森は仕方なく、ゆっくりと身体を起こす。 「……そんなの、ずっとしてる」 「え、何?」 「……なんでもない」 首を横に振って、森は溜息を吐きながら雪で少し湿ったコートを脱いだ。それからふと思い出して、コートのポケットから昼間ぶつかった相手に貰ったカイロを取り出した。もう冷たいし、固くなっているけれど、受け取った時の温かさはまだ指先に残っているような気がした。 「何よそれ」 「……カイロ」 カイロ、とジェリーは森の言葉を繰り返して、カウンターの上に置かれたカイロを手に取ると、怪訝そうに眉を顰めた。 「もう冷たいじゃない。捨てなさいよ」 「ん……」 「……シズカ、あなた本当に変だわ」 呆れるようにジェリーは言って、カイロをカウンターの上に戻した。森は冷たいカイロを片手で握り締める。カイロの熱が時間と共に失われたように、この胸の痛みも薄れていけばいいのに。森はジン・バックを呷って、深く溜息を吐いた。レモンの風味が鼻を抜けていく。ほんの一口のカクテルは、それでも深く身体に染み入ったようだった。青児の声が脳を揺さぶる。そんなに俺のことが嫌いなのか、なんて。そんなはずがないのに。森は固く目を閉じて、手のひらからカイロが零れ落ちた。ぱさ、と乾いた音が響く。吸い込んだ空気は体内のアルコールと混ざり合って、身体はどんどん重くなった。悲痛さに溢れそうになる涙を堪えていると、やがて視界の暗闇を何かが過ぎる気配があった。 「――あら、ナギじゃない」 外界とのバイパスを繋げるように、森は額に寄せていた拳を下ろした。ぼんやりとした曖昧な明かりが手元を照らしている。そこにあったはずのカイロが見当たらなかった。ジン・バックのグラスだけが凛とした空気を放っている。 「久しぶりね」 ジェリーの声がワントーン高くなり、頬が紅潮したのを、森は見逃さなかった。ナギ、と呼ばれた人物の顔とカイロの行方を探して森は後方を振り向く。視界に映った男の顔に、森は瞠目した。 「……あ」 男は白いカイロを胸の辺りに掲げて、にこりと微笑んだ。昼間のことが思い出され、心臓が大きく鳴ったのがわかった。それは確かに昼間森とぶつかった男だった。 「もう冷たいのに、まだ持っててくれたんだ」 「……」 「ナギ、知ってるの?」 「うん、まぁ、ちょっと。ね」 森に目配せをして、男は自然な仕草で森の隣の席に座った。森はまだ頭の中を整理できずに、呆然と男を見た。昼間はそれどころではなかったけれど、こうして見ると男がとても整った容姿をしていることがわかる。ジェリーが声色を変えるのも無理はない。薄いブラウンの大きな瞳に、細く通った鼻筋、白い肌。そして長い手足と小さな顔。明らかに圧倒的な雰囲気を纏っている。 「ジェリー、俺、ビールちょうだい。あとチキンサンドウィッチ」 ジェリーは嬉しそうにオーダーを繰り返し準備に入った。森は気まずくなって前を向き直る。泣いているところを見られてしまった相手に、こんなところで再会するとは思っていなかった。狭い街とはいえこんな偶然はそうあるものじゃない。 「……」 俯いている森の目の前に、カイロが差し出された。森が顔を上げると、視線の先で男が微笑む。森はたじろいでまた視線を逸らした。 「あのさ、もしかして、日本人?」 急に日本語で話しかけられたので一瞬何のことかわからずに言葉を詰まらせると、男は英語でごめん、同郷かと思って、と謝った。 「出身は?」 「……や……日本人……だけど」 森が日本語で返すと、彼は少し安心した様子で息を吐いた。 「そっか、やっぱり。昼間会った時そうじゃないかなって、思ってた」 「……はぁ」 「俺、紺野凪(こんのなぎ)。海が凪ぐの凪。君は?」 「……森」 「しずか? 静寂の静?」 「……木三つの森……で……森」 「へぇ、珍しいな。まぁ、俺も人のことは言えないけど」 ふわりと、まるで春風のように軽やかに凪が笑った。ジェリーが凪の前にビールとサンドウィッチを置きながら、何の話、と少し拗ねた調子で尋ねた。日本語の会話の内容をジェリーが把握することはできない。名前の話だよ、と森は言って、ビールを少し飲んだ。細い首に喉仏が浮かび上がる。 「……あの」 「うん?」 「昼間は……どうも。これ……助かった」 森はカイロに手を触れた。他に話すことがなく、気まずかったのだと思う。ビールのグラスを置いた凪は少しの間を置いて、それからうん、と言った。短い沈黙すら、落ち着かない。 「……寒かったね」 「え?」 「今日、寒かった」 「……あぁ」 森が相槌を打つと、凪はそっと目を細めた。変わった男だと思ったけれど、嫌悪感などはなかった。身体の芯が熱く疼き出す。森は早く酔ってしまいたくなって、ジン・バックを強引に流し込んだ。 「アルコール強いの?」 「……全然」 「え、あんまり無理しない方がいいんじゃない?」 少し驚いた様子の凪に、森はまたジン・バックを呷って身体を寄せた。空気の密度が濃くなって、鼓動が大きくなる。 「帰れなくなったら、あんたん家連れてってよ」 誘い文句はいつも大して変わらない。相手がいつも違うのだから、これで構わない。ただ凪にはいつもの相手とは違う、親近感のようなものがあった。同じ日本人だということと、凪の持つ穏やかさと。隣で凪がそっと息を吸うのがわかった。 「……そういうことか。いいよ」 アルコールに掠れる森の声に、凪は笑いながら答えた。森の胸にはレモンの香りと共にアルコールが焼け付いて、熱を閉じ込めている。凪に貰ったカイロや、柔らかな雰囲気と声、それらが森の不安定な森の胸中を優しく撫ぜたのだと思った。凪という、彼の名の通り。それはとても不思議な感覚で、けれどどこか心地よかった。

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