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第5話
高校生の頃の夢をよく見る。いつも同じだ。朝、目が覚めるところから始まる。目覚めた急いで身支度を整えなければと慌てている。それなのにネクタイが見つからなかったり、財布が見つからなかったりと、様々な事象が森の邪魔をして、そして焦りはいつの間にかその質を変えてしまう。早く、青児を止めなければ。青児に会って彼に釘を刺さなければ。叶わない恋などするべきじゃない。幸せはもっと別のところにあるはずだと、そう納得させなければ。そうしなければ、自分は置いてけぼりになってしまう。いつしか自分の部屋だったはずの空間は深い沼になり、森は動きを奪われながら青児の名前を呼ぶ。青児が来るはずのないことをわかっていながら、助けを呼ぶ。そして呑まれると思ったその瞬間、目が覚める。
「――っ……」
飛び起きた森は、冷たい空気が肌を包むのを感じると、辺りを見回して深く息を吐いた。頬が一際冷たく感じられる。それは涙のせいらしく、森は乾きかけの涙を拭う。朝の光が射し込む見知らぬ部屋は、あの夢の中にいるよりずっと安心できた。冷たい手で額を押さえると、再び息が零れる。忙しなかった鼓動の音は少しずつ小さくなり、縮こまった心臓が空っぽの箱の中で転がるような感じがした。
「あ、起きた?」
部屋のドアが開けられて、凪が中へと入ってきた。森は一瞬この状況について考えを巡らせ、すぐに把握する。ここは凪のアパートで、昨日は泊まったのだった。光の射し方からいってまだかなり早い時間帯のようだけれど、凪はすでに着替えを済ませ、髪も整えてあった。
「おはよ」
「……ごめん、俺ベッド占領してた」
「あぁ、いいよ、大丈夫。どうせ仕事しなきゃなんなかったし」
凪は部屋の隅を見やってそう言った。つられて森も凪の視線の先を追うと、大きめのパソコンデスクとその隣の製図用デスクが目に留まる。大きな白い紙に描かれているの建物の設計図面のようだ。どうやら凪は建築デザイナーらしい。森も同じデザイナーとつく職業ではあるけれど、やっていることは違う。建築物の設計図を見るのは初めてだった。
「……あんた建築家なの」
「ん、まぁね。まだぺーぺーだけど。そっちは?」
「グラフィックデザイナー……のような……イラストレーターのような……」
「なるほど」
何に納得したのかよくわからないけれど、凪は頷いてからベッドに入ってきた。しんとした空気をシーツの擦れる音が震わせる。凪の指先が髪に触れ、それが合図のように身体が引き寄せられる。
「……ん」
舌を軽く触れ合わせると、身体の表面が薄く粟立つのがわかった。どこかから穏やかな風が吹いている。
「……うなされてたね」
「え?」
「泣いてたみたいだし」
突然の凪の言葉に森は動揺して表情を強張らせた。日本から帰って来てから、うなされて飛び起きることが増えた。この間レイが泊まった時にも同じことがあったことを思い出すと、気が重くなる。胸がぎちぎちと痛み出す。
「……、」
息を吐いた森の髪に再び凪が触れた。束を救われて、捩るようにして遊ばれる。
「……昨日も、泣いてたね」
「……」
身体が無意識に凪の言葉に反応し、びくりと震えた。気付かれていただろうとは思っていたけれど、このタイミングで切り出されるとは思わなかった。髪に触れていた森の手が離れ、森は凪の温度の行方を追って彼の方を見た。目が合うと、凪はそっと目を細める。
「ぶつかった時からずっと、気になってた」
「何で……」
「この世の終わりみたいな顔してたから。頭から離れなくて……店で会ったのは偶然だけど」
凪の淡々とした口調に反発するように、森の鼓動の音は大きくなった。
「……何かあったの?」
凪のストレートな問いかけに拒否感こそ覚えなかったものの、それでも心に影が落ちるのを感じて森は視線を下げた。凪が何も言わなければ、一度セックスをしたという何でもない事実だけで別れることもできたのに。
「……べ……つに……」
「そう?」
凪の口調に強制するような雰囲気はなかったけれど、森は段々何も言わない方が面倒な気がしてきて、長い間の後で短く息を吐きだした。
「ただ……」
「うん」
「だから……ただ……昔好きだった男とちょっと……話して……ちょっと感傷的になった……それだけ……」
ほんの少し、感情の弦が弾かれただけ。すぐにまた、少なくとも表面上は何でもないように振舞えるようになる。十年間、内心に吹き荒れる嵐を必死で誤魔化しながらも毎日をどうにか過ごして来られたのだから。森は言い聞かせるようにそう言って、小さな自嘲を漏らした。凪は長い間を置いた後でそう、と小さく相槌を打ち、壁に背中を寄り掛からせた。
「……感傷的、か」
「……何」
「昔好きだった人って、もしかしてセイジって名前?」
「……、」
「寝言でセイジのこと何回も呼んでた。さっき」
それまで以上に胸が強く痛むのを感じて、森は唇を噛んだ。レイの時と同じだ。また青児のことを呼んでいたらしい。こだわりを一刻も早く捨ててしまいたいと思う自分と、どうしても捨てられないと思う奥底の自分と。
日本人の凪からはレイの時のような逃げ方はできない。森は仕方なく小さく頷いた。
「……そうだけど……別に……いいだろ」
「うん、まぁ……」
「……何」
何かを言い淀んだ凪に、森は少し苛立ちながら先を促した。凪はそれでも少し考えていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。
「友達にこないだ聞かれたんだ。日本語で愛してるって、“セイジ”って言うんだろって。それってもしかして君が教えたの?」
「……、」
森は驚いて、凪を見たまま硬直した。ここはニューヨークで、面積は小さくても人口は数百万だ。いくら同じバーで出会った二人だとはいえ、あの店は人気で客層の入れ替わりも激しいし、こんな偶然を想定している方がおかしい。森は何かを言わなければと思ったけれど、言い訳は何も思いつかなかった。固まったまま動けない森に、凪が小さく笑った。
「合ってるよって言っておいたけど、それでよかったのかな」
「っ……」
驚きと恥ずかしさとで森は言葉を失った。遠く、小鳥のさえずりが聞こえる。光は次第に白くなり、朝の匂いが際立ち始め、森の中の渦を煽る。冷たいシーツの感触すら、森の心を刺激した。
「“セイジ”のことが好きなんだ。感傷的になったんじゃなくて、本当は今も忘れられない」
知ったような凪の声に森は更に苛立ち、きつく凪を睨みつけた。それは凪には伝わらなかったようで、凪はまた笑みを浮かべた。
「当たりだ」
「別に……そんなことない……」
「そうかな。でも、まぁ、そうだな。俺は……無理して忘れることなんかないと思うけど」
「何も知らないくせに、適当なこと言うな」
「だって、忘れることなんかできないんでしょ? そんなこと無理だって、顔に書いてある」
「なっ……」
かぁ、と頭に熱が上っていくのがわかった。それは確かに図星を突かれたからで、けれどそれを認めてしまうわけにはいかない。森はシーツを剥ぎ、散らばった服を拾い集めた。
「え、何、」
「帰る」
「……怒ってる?」
「怒ってねぇよ!」
誰が聞いても興奮している声で、森は空気を裂いた。凪は驚いた様子で瞬きをし、森はそれを無視して着替えを済ませ、部屋を飛び出した。、まだかすかに夜の匂いを残す空気に白い息を吐き出しながらエレベーターに乗り建物を出る。外はしんと静まり返っていた。鼓動の音だけが身体の内側を激しく叩いている。痛みに顔を歪めながら、森はただ走った。
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