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第6話

行きつけのコーヒーショップで買ってきたばかりのカプチーノをテーブルの上に置くと、予想以上の音が辺りに響いた。その音の乱暴さに自分でも少し驚きながら、森はやり場のない苛立ちを溜息に込めてそれを吐き出した。昨日の朝、凪のアパートを飛び出してきてから、ずっとこの調子だ。会ったばかりの凪に心情を見抜かれてしまったことはもちろんだけれど、凪に一瞬でも気を許しかけてしまった自分が嫌で仕方ない。温かな体温、綺麗な笑み、細やかに空気を震わせる声。ひとつひとつがやけに鮮明で、それが余計に森を苛立たせる。 「……、」 森はまた溜息を吐いて、カプチーノのカップに口を付けた。冷えた身体に温かさが波紋を描くように広がっていく。 プライベート用のアドレスに青児からのメールが入っていることを確認したのも昨日の朝のことだ。凪のアパートから地下鉄に乗ってブルックリンの自宅まで帰り、いつもの癖でメールをチェックした。青児からのメールには住所と電話番号を書いてすぐに返信しろ、というようなことが書いてあった。それから、また日本に遊びに来いとも。それは青児らしい冗談めかした文体で、凪とのことで怒りと落ち込みの両方を感じていた森はますます気分を塞いだ。悲しみより虚しさを感じて零れ落ちた涙は糸のように細く、森の頬を真っ直ぐに伝った。いつだって青児のことは忘れて前に進みたいと思っている。ただできないというだけで、忘れるつもりがないわけじゃない。それなのにこんなに苛立っていて、そんな自分に腹が立つ。完全に悪循環だ。 「休憩?」 手のひらでカプチーノの温かさを感じながら気を落ちつけようとしていた森は、不意にかけられた声に肩を震わせた。手をカップから離すと、指先に集中していた熱がふわりと拡散したのがわかった。顔を上げると、プラスチックのカップを手にしたノアはにこりと笑って、向かいのスツールに座った。 「……まぁ。ノアも?」 「うん。今ミーティング終わったとこなんだ」 「……あぁ」 「何飲んでるの?」 「カプチーノ」 「あ、いいなぁ」 「買いに行けば」 「今は無理。山場越えたらね」 ノアは首を横に振りながら苦く笑って、手に持ったコーヒーを一口啜った。オフィスのコーヒーメーカーで淹れたコーヒーはいつも煮詰まっていて、渋く不味い。わかりきっていたこととはいえ、ノアはその味にショックを受けたようで顔を歪めた。 「……不味い」 「こっち飲む?」 「あ、一口ちょうだい」 「ん」 森がカプチーノを渡すと、ノアはそれを一口飲んではぁ、と短く息を吐いた。ありがとう、と返されたカプチーノを今度は森が啜る。柔らかな甘みと、ノアとのいつも通りの会話がほんの少し苛立ちを遠ざけてくれたようだった。 「リサがびくびくしてたよ」 ノアは首を鳴らしながら、オフィスの方を一瞥して言った。リサはまだ新人のアシスタントで、森と同じチームだ。 「……何で」 「顔が怖くて近付けないみたい。森一回リサのこと怒鳴ったから」 「……いや……あれは……」 リサはまるでアニメに出てくるキャラクターのようなつまらないミスをよくしでかす。それはオフィスの人間たちの中では有名で、大抵は苦笑いで済まされる程度の小さなものだけれど、一度かなり重度の伝達ミスがあった時、思わずリサを怒鳴ったのだった。リサは顔を真っ青にした後、すぐに赤く色を変えて泣き出した。 「あの時のリサの顔、忘れられないよなぁ。近所の子供そっくりだった」 「……怒鳴ったことは後で謝ったよ。今日は怒鳴ってない」 「でもぴりぴりしてるよ」 「……」 ノアは懲りずにコーヒーを飲んで、また顔を顰めた。自分では本心を隠すのも嘘を吐くのも下手ではないと思っているけれど、どうもそれは思い上がりらしい。森は少し落ち込んで、テーブルに突っ伏した。一番気持ちを伝えたかった相手には何も伝わらなかったのに。 「シズカ、大丈夫?」 「……平気だよ。ちょっと……疲れてる」 「……そっか」 静かな波の合間に、ノアがコーヒーを啜る音が聞こえた。何だかんだと言いつつ、要は森を心配してくれているのだろう。自分だって仕事で山場を迎えているはずなのに。ジェリーといい、森の周囲にはこういう親切で優しい人間が多い。こんな時、自分で思っている以上に誰かに支えられているのだということを実感する。一人で生きているわけではない。でもいつも孤独だ。森は目を閉じて、青児のことを考えた。高校生の頃は、よく二人で放課後を過ごした。青児のお気に入りのカフェのコーヒー、時折吸っていたマルボロの匂い、ハンバーガーの包み紙を乱暴に丸める癖まで、頭にこびりついていて離れない。あまり好きではなかったコーヒーをよく飲むようになったのは、青児の影響だった。 青児と青児の好きな担任教師のことについて初めて話したのは、一緒に過ごすようになって半年ほど経った頃だ。午後の授業をさぼって行ったいつものファーストフード。青児はコーヒーを、森はアップルジンジャーを飲んでいた。森はふと、冗談のつもりで青児がいつも担任の話ばかりをすることを指摘した。まさか、好きだったりして。言った後で自分がひどく緊張していることに気がついた。だから、それまでも、それ以来も飲んだことのないアップルジンジャーの味を、森はよく覚えていない。森は青児がそんなはずないと笑い飛ばしてくれることを期待していた。それで自分の不安は掻き消されるはずだったからだ。自分だって同性が好きなくせにそれをすっかり棚に上げて、同性の教師を本気で好きになるなんてことがあるはずないと思い込んだ。そう信じたかった。けれど森の笑いは秋の乾いた空気を虚しく強張らせた。青児は長い沈黙の後で、お前のことは信用してるから、と言って、森に気持ちを打ち明けた。青児の教師への気持ちを聞いている間、森はきっとさぞ冷静に見えただろう。もちろん内心ではひどく動揺していて、手が震えてカップを持つこともできないほどだった。泣きそうだと思うのに涙は出て来なくて、結局青児が話を終えた後で自分が何を言ったのか覚えていない。すぐに反対はできなかっただろうと思うし、応援するよなんて絶対に言えなかっただろう。あぁ、とか、うん、とか、そんな相槌を打ったのかもしれない。言葉は端から秋の空気に消えていって、心の重みだけが残った。家に帰って自分の部屋に入り、ようやく涙が零れたことは覚えている。あの時の記憶をまだ持っている自分を森は呪った。凪の言葉が蘇って胸に刺さる。 「……」 まだ青児のメールへの返信はしていない。きっと送る時にはまた胸が痛む。考えただけで憂鬱だ。森は何度目かもわからない溜息を吐きながら、ゆっくりと頭を上げた。時間にして数十秒といったところだろうか。リフレッシュどころか、嫌なことを思い出してしまった。 「寝てた?」 「……寝てない。こんな固い椅子じゃ寝れない」 ノアは笑って、森はまた溜息を吐いた。まるで中毒だ。高校生の頃と同じだ。 「……ノア」 「うん?」 「ノアは、失恋ってしたことある?」 「失恋?」 森の質問はかなり突拍子のないものだった。ノアは大きな瞳を瞬かせた。驚いているらしい。普通、人はどうやって失恋から立ち直るものなのか、唐突に誰かに聞いてみたくなった。 「まぁ、そりゃ、あるけど……」 失恋をしたのかという質問は、森の予想に反してなかった。それよりも質問の内容に戸惑っているという感じだ。森がプライベートな話を振ることはほとんどないので驚くのも無理はない。けれど森はそれに構わず続けた。 「それで、その後はどうすんの?」 「どうするって?」 「どうやって立ち直んの?」 「え、うーん……と……」 ノアは眉を顰め、しばらく考える様子を見せた。頬を指先で掻きながら口を開く。 「時間……じゃない? やっぱり。時間が経てば、自然と平気になるよ」 「どれくらい?」 「そりゃあ……相手によるけど……どうかな……一カ月とか……二カ月……次にデートしたい子に出会うまでかな」 「……何それ」 「だって、ほら、やっぱりまたいいなって思う子に出会えば、その子のことで頭いっぱいになるよ。気付いたら失恋のことは忘れてる」 十年それができない人間は、どうすればいいのだろう。森はその質問を飲み込んで、返事の代わりに息を吐いた。頬杖をついてカプチーノを飲む。寒さに負けて幾分温くなってしまったカプチーノは、長すぎる休憩を森に警告しているようだった。

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