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第7話
二日酔いもなく、一人きりで迎える休日の朝は久しぶりのことに思えた。昨夜は仕事の後にバーに寄る気力もなく、真っ直ぐアパートに帰ってそのまま眠ってしまった。疲れていたのですぐに眠りについたまではよかったものの、例によってまたあの夢を見て飛び起きてしまった。まだ時間も早かったのだけれど、二度寝をする気にはなれずに森はアパートを出た。胸の中にからからとガラス玉が転がるような音が響く。またあの夢を見てしまったのは、多分青児にメールを返したせいだと思う。時間をかけて悩みながら打った素気ないメールを、帰りがけにオフィスのパソコンから送った。仕事の何十倍も疲れたような気がして、そのせいで寝つきが早かったのかもしれない。
アパートから歩いて十分ほどのところにある大きな公園は、寒さと時間帯のせいか人影はほとんど見られなかった。動物園や日本庭園まであり、日中であればそれなりに賑わうのだけれど、今日は午後から雪の予報も出ているし人出は少ないかもしれない。森は身を刺すような冬の冷たさを感じながら、遊歩道に沿って並んでいるベンチのひとつに腰を下ろした。周囲は葉を全て落とした木々に囲まれている。細い枝がまるで針のようだ。
「……」
顔を上げると、白い息が空に向かって拡散する様子がよくわかった。わずかに湿った匂いがする。今にも雪が降り出しそうな曇天だ。寒さが肌の表面から体内に浸透していくと、森のポケットに突っ込んだ手には温かさの記憶が滲んだ。それに誘発されるように凪の言葉を思い出し、溜息を吐く。森林の中は空気が澄んでいて、記憶も鮮明だった。苛立ちは時間と共に質を変えて、今は何よりも凪の言葉や温度、表情が頭から離れない自分に苛立っている。
「……、」
また溜息が零れて、か細い吐息が冬に溶けてなくなった。頭の中が段々とクリアになって、今度はノアとの会話を思い出す。失恋をしたら時間をかけて癒して、また新しい恋愛を始める。文章にしてしまえば簡単なことだし、誰もができていることなのに。森は深く息を吸い込み、また空を仰いだ。グレーの雲が不安げに重なり合っている。まるで森の心の中とシンクロするように、重くゆっくりと蠢いて、視界を覆う。気分がどんどん重くなっている。
「……っ」
三度目の溜息の途中で、コートのポケットに入れていた携帯電話が震えた。突然の振動に森は驚き、ベンチに預けていた背中を起こした。慌てて電話を取り出して通話ボタンを押す。休日の早朝の電話なんて、仕事関係しか思い浮かばない。
「……っはい!?」
電話に出てバイブレーションが止まると、いくらかの安堵に息が零れた。薄く淡く空気に馴染む。ポケットから出た手のひらはすぐに周囲の温度に染まった。電話の相手は無言で、川の流れのようなノイズだけが聞こえている。
「あの……?」
『……森?』
「え……と……」
自分の名前を呼ぶ柔らかな声に、一瞬息が止まりそうになった。余韻が耳をくすぐって、思わず胸を押さえる。
『……おはよ』
「……、」
『……ごめん。俺、凪。覚えてる?』
気まずそうに名乗った凪に、鼓動が大きくなるのがわかった。かじかむ指先は感覚を失いかけて、表情と同様、硬直している。凪に携帯電話の番号は教えていない。
『朝早くにごめん……あー……と、聞こえてる?』
「……」
『あれ……森?』
「……な、んで……」
『え?』
「ナンバー……は……」
『あ……うん、ごめん。ジェリーに聞いたんだ』
「はぁ……?」
『店で会えるかと思ったんだけど、昨日来てなかったから』
凪は少し強張った声で、抑揚なく言った。なんだか落ち着かなくて、無意識に髪を弄ってしまう。
「……何の用」
『うん……まぁ、ほら……この間、怒らせたみたいだったから……気になって』
「……別に、もうどうでもいいよ、そんなの」
あれからずっと頭から離れなくて苛々してたなんて、そんなこと言えるはずもなく、森はできるだけ感情を出さないように気を付けながら言った。
『……、』
「……用事それだけなら、切る」
『あ、待って』
「……何」
森は髪を弄っていた手でこめかみを押さえ、短く答えた。凪からの電話は全く予想できなかった。そもそも図星を突かれて腹を立てた自分自身大人げなかったということはわかっている。わかっているから苛立っているのだし、こんな電話をされても困るだけなのだ。短い沈黙の後で、凪がそっと息を吸う気配があった。
『……あのさ、今日、ちょっと会えないかな?』
凪の言葉は森の思考を一瞬止める程には意外だった。森は思わず顔を顰めた。
「……は?」
『少し、話したいと思って』
「何を」
『何っていうか……諸々……言い訳とか?』
「そんなの聞かせてどうすんだよ」
『……ごめん』
「謝られても……何なんだよ……」
『……もう一回会いたいって、思ったんだ』
「……、」
全身の血管がざわついた。それから血液が顔に集中するような感覚。急に何を言うのだろう、そう思って、けれど言葉にはできなかった。この間は悪びれもしなかったくせに、今になってそんなことを言うのはずるい。
断ろうと、そう思ったはずだったのに、気付いた時には森は凪の提案を了承してしまっていた。意思よりも胸のざわつきがそうさせたようだった。電話を切ると、森は行き場のない感情を溜息にして吐き出した。手を額に当てると指先に熱が広がる。変わらない曇天の景色の中、それだけが異質だった。
凪に指定されたカフェは、凪のアパートの近くだった。森は平静を装うように深呼吸をして、混み合った店内へと入った。窓際の席に凪の姿を見つける。森は緊張しながら凪に近付いた。客のざわめきは遠い。
「……、」
傍に寄ると、ふと凪が森を振り向いた。一瞬表情が強張って、すぐにそれを解いて笑みを浮かべる。少し困ったように眉を下げて。森はわざと肩を上下させながら溜息を吐いて、凪の向かい側のスツールを引いた。
「よかった、来てくれて」
「……」
「一応コーヒー買っておいた。レジ混んでるし……コーヒーでよかった?」
森は差し出された白いカップとレジを交互に見やって頷いた。凪の前にも同じサイズのカップが置かれている。
「……いくら」
「いいよ。俺が勝手に買ったんだから」
「……そ」
森は遠慮なくカップに口を付け、まだ熱いコーヒーをブラックのまま啜った。深い苦みと共に流動体が口内に広がる。じわりと滲む熱に少しだけ緊張が増した。凪は両手をカップに当てて、小さく息を吐いた。
「……あのさ、まだ、怒ってる?」
「……別に」
「ごめん。あんなに怒ると思ってなかったんだ。つい余計なこと言っちゃって……悪かったなって、思ってる」
「……」
「ごめん」
凪があまりに素直に謝るので、森はもう気にしていないと言うことができなくなってしまった。本気で怒っていたらこんなところにのこのこ出てきたりしない。図星を突かれて動揺した自覚がある。凪に対して好感を抱いていたから余計に。
「……別に」
気まずさに視線を逸らしながら、森はまた同じ言葉を繰り返す。
「森がうなされてるの見て……つい、なんていうか、他人事に思えなくなって」
凪は自嘲を零すように息を吐き出しながら言った。森は逸らしていた視線を凪に向け直す。少し迷うような仕草。森と同年代か少し上くらいだと思うけれど、今の凪はまるで子供みたいだ。
「……俺さ、大学出て二十二でこっちに来て……その時にそれまで付き合ってた人と別れたんだ。向こうは見合いして結婚する予定で……俺は……何も言えなかった。一緒に来てとも、待っててとも。さよならしか、言わなかった」
「……」
「……こっちに来てみたら、想像以上に落ち込んでて……ずっと引きずっちゃって……もうどうしたらいいのかわかんなくて、ひどかった」
凪が思い出すようにして苦い笑いを零す。小さな笑いは、辛さの重みを感じさせた。凪に対する警戒が解かれていくのが自分でもわかる。単純かもしれないけれど、心臓から悪い血液がさらさらと流れだしていくように、心が軽くなったような気がした。
「……今は……もう……思い出は胸にしまって、それで大丈夫だって思える。八年かかってやっとだったけどね」
「……」
「結局、なかったことになんかできないよ。だから無理に忘れることなんかないと思ったんだ……でも……ごめん。いきなりで、無神経だった」
森は黙ってコーヒーを飲んだ。思い出は胸にしまって、無理に忘れる必要はない?森にはそれはわからなかった。心のどこかに青児がいれば、それだけで熱を生むし苦しい。もちろん、そうできればいいと思うけれど。
「森が飛び出していってから、反省したんだ、これでも」
「……」
「本当、ごめん」
凪は頭を下げた。森は気まずさを抱えながら、どうにかもういいよ、とだけ言った。凪がほっとしたように表情を和らげる。
「……最初から……そんなに怒ってたわけじゃない」
凪は小さく笑ってコーヒーに口を付けた。
「そんな風には見えなかったよ。だからずっと後悔してた。森の気持ちすごくわかるのに」
「……」
「でも……まぁ……森がもし……前に進みたいって……思ってるなら……少しずつ他を……っていうか俺の方……見てくれれば……って思ってるんだけど……」
急に歯切れを悪くした凪は少し顔を赤らめながら恥ずかしそうにそう言った。森は驚き目を瞠る。
「……は?」
「……ごめん。会ったばっかりでこんなこと言ったら困らせるかもって思ったんだけど……止まらなくて」
「……本気で言ってんの?」
「うん、本気。だから、嫌なら今の内にはっきり言って」
凪は緊張した表情で、森を真っ直ぐに見た。緊張しているけれど、半ばやけというか、何かを吹っ切ったような感じがある。まだ驚いていて、冷静ではなかったかもしれない。けれど森は気付いた時には首を横に振っていた。凪が胸を撫で下ろし、森に微笑む。
「ジェリーにはかなり無理言ったけど……また会えてよかった」
鼓動が大きくなる。にこにこと森を見つめる凪に、何も言えなくなって俯く。頬が熱い。
店内の喧騒が大きくなって、凪があ、雪だ、と呟いたのが聞こえた。いつもならもっと早い時期から雪の日が続くのに、この冬はあまり雪が降っていない。
「……、」
顔を上げようと思ったのだけれど、うまく表情を作れそうもなかった。ただ胸が苦しい。指先に伝わるコーヒーの熱が、森の思考を余計に鈍くさせた。
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