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第8話

はらはらと街を覆う粉雪のように、まるで幻想の中にいるような週末だった。森は週が明けてすぐに受けた仕事を、先週よりはいくらか穏やかな気分で進められていた。苛立ちは大分和らいでいる。自分でも単純だとは思うけれど。 あの日、雪が強くなっていく外の風景を見て、凪は家なら近いし泊まっていけば、と言った。森が目を瞠らせると、凪は顔を少し顔を赤らめて今の不自然だった、と聞いてきて、森は思わず笑ってしまったのだった。それはもちろん、肯定の意味を含んでいた。 週末を凪の部屋で過ごし、今度こそ永遠に続くと思っていた繰り返しを終わらせることができるのではないかと、都合のいい期待を抱いたりしている。これまで何度かそう思って、終わらせることはできなかったけれど。青児のことを思うと胸に痛みを感じる自分もいる。あれからメールボックスはまだ見ていないし、あのポートフォリオももう一度開ける勇気がない。こんなことは早く終わりにしたいと、そう思う。凪が言った通り、前に進みたいと、いつもそう思ってきた。 「……」 集中するために流していたアルバムの最後のトラックが終わり、森はヘッドフォンを外して息を吐いた。周囲にはカチカチという忙しないマウスの音が響いている。森の仕事の進み具合は悪くなかった。 「シズカ」 雪のちらつく窓の外をぼんやりと眺めながら、ランチはどうしようかと考えていると、タイミングよくノアがやってきた。ランチは大抵ノアと一緒に摂る。 「そろそろランチ行こうよ」 「ん……出るよ」 「何にする?」 「何でも」 立ち上がり身体を伸ばす。コートを羽織ると、染みついているらしい冬の匂いがかすかに薫った。 「……外、結構降ってるね」 「いつものハンバーガーでいいんじゃない?」 「そうだね」 他愛のない会話を交わしながらオフィスを出る。いつも通りのやり取りが、森に小さな変化を実感させる。寒々しい階段を下り外に出ると、一瞬で絶対的な冷たさが頬に張り付く。 「さむ……」 「そう? いつもと変わらないよ」 「……ノアと違って俺は寒いの慣れないんだよ。東京はもうちょっと暖かかった」 「何言ってるんだよ。ほとんど帰ったことないって言ってたくせに」 「……そうだけど」 吐き出した息は、白い街に馴染んではっきりしなかった。確かにノアの言うとおりだ。青児に会うのが怖くて、日本に帰らないままアメリカに国籍を移してしまった。会いたいと思いながらも、傷つくことが怖くて逃げ続けたまま、日本への出張話で感情が暴走した。 「……」 ブーツが雪の積もった地面を踏み音を立てる。十年間、寒さには慣れなかったけれど雪道を歩くことには慣れた。今も意識の上ではここは異国だけれど、もう慣れてしまっている部分がほとんどなのかもしれない。日本に行った時には暖かさに驚いてしまった。 「……あれ、シズカ? どこまで行くの?」 「え……?」 ノアの声に俯けていた顔を上げて振り返ると、もう目的の店を通り過ぎかけていた。森は慌てて入口まで戻り、ノアに適当な言い訳をした。ノアはふぅん、と相槌を打ちながら店に入ってカウンターの上部に大きく掲げられたメニューを眺めた。森もメニューを見てすぐにカウンターでハンバーガーのセットをテイクアウトで注文した。ノアはベーグルバーガーを注文しているらしい。速さが最大の売りであるファストフードチェーンだけあって、あっという間に二人分のハンバーガーが出てきた。レジの若い女の子の早く店を出ていけといわんばかりの作り笑顔で送り出される。店の外に出ると、鋭い寒さに森はまた身体を丸めた。 「っ……やっぱ今日寒い」 「そうかなぁ……ていうか、シズカ、それよりさぁ」 「何?」 寒さに震えながら立ち止まりノアを振り向くと、ノアは意味ありげに口元を歪めてみせた。寒くないと言っていたけれど、そのわりに白い頬は赤くなっている。 「……何だよ」 「何かいいことあったんでしょう?」 「……は、何で?」 「うーん、何となく?」 脳裏を週末のことが過ぎる。けれどそれを素直に認められる正直さは森にはない。森は別に、と低く言って再び歩き出す。 「普通だよ」 「えー、そうかな」 「そう!」 森はきっぱりと言い切って歩調を速めた。ノアが笑いながら付いてくる。今なら赤くなった顔も寒さのせいにできる、なんて、そんなことを考えては否定する。あちこちに付着する大きな雪の結晶が、心臓をくすぐっている。 オフィスに入ると、ようやく感じる温かさに森はほっとして息を吐いた。コートを脱いでいつものように窓際の森のデスクで二人でランチを摂る。会社のすぐ近くの店を選んだかいあって、ポテトもハンバーガーもまだ温かい。 「……そういえばさ」 バーガーの包みを剥ぎながら、ノアがふと思い出したように言った。森はスープに口を付けながらノアの方を見る。 「この間の話、ちょっと考えてた」 「話って?」 「失恋したらどうするって、シズカ俺に聞いたでしょ?」 「…………あー……あぁ……」 今になってあんな質問をしたことを後悔して、森は微妙な相槌を打った。ノアは足を組みながらベーグルを一口齧る。 「思い出したんだよ。従兄弟の友達のお兄さんの話」 「何、誰」 「従兄弟の友達のお兄さんのジーンの話」 「……あぁ、うん」 やたら縁が遠いところにいる人の話が頻繁に出てくるのは、この国の人間の特徴だろうか。森はそんなことを考えながら頷く。いつかザックの結婚式に出た時には、彼の兄の通うジムのインストラクターまでが出席していた。 「同じ女の子に十五年片思いし続けて、とうとうこの間結婚したよ」 「……十五年」 「中学生の頃からずっと好きで、何回もふられてはしつこく思い続けて……まぁ、下手したら訴えられてたかもしんないけど……幸いジーンの場合は十五年越しに恋が実ったんだ」 「……どうやって」 「さぁ。でも恋愛なんかわかんないもんだよ。タイミングさえ合えばさ。彼女だって元々まんざらじゃなかったのかも……わかんないけど、二人とも幸せそうだったって従兄弟が言ってたよ」 「……」 ノアはポテトを齧りながら笑った。胸がしくしくと痛み出すのを感じて、それを掻き消すように熱いスープを飲む。ノアの従兄弟の友達の兄とは状況が何もかも違う。どんなに長い間真剣に純粋に青児を思い続けたところで、青児を手に入れることはない。それはわかっている。ただ、身体の中に何か特別な器官のようなものがあって、それが青児に対する反射を生んでいる。それをなくせない。大事に大事に、馬鹿みたいに持ち続けている。どうしたらそれを消滅させられるのか、それだけがわからない。 「世の中にはそんな我慢強い純粋な人がいるってこと。映画みたいだ。ジーンはトム・ハンクスかな」 面白がるようにノアは言っているけれど、彼が内心でこの間の森の落ち込みを気にしていることは明らかだった。ノアは本当に気遣い屋だ。森は心の中で彼に感謝し、尊敬の念を持ったけれど、態度には出せなかった。ノアと違って森は昔から捻くれ屋だ。 「……ケビン・スペイシーは?」 「いいね。でも二人ともちょっと年が上過ぎかな」 うーん、と唸り声を上げ、ノアは本格的にジーンの配役を考え始めたらしかった。森がそっと笑ってハンバーガーを齧ると、不意にデスクの上に置いていた森の携帯電話が着信を告げ震えた。 「……と、ごめん」 森はハンバーガーを置いて、携帯電話を手にして立ち上がった。ディスプレイに浮かんだ名前に心臓が強張る。森は一度深呼吸をして、ノアから少し離れたところで通話ボタンを押した。ランチタイム真っ只中で、オフィスには人が少ない。 「――もしもし?」 『……あ、もしもし。俺』 「……、」 『あの……凪だけど』 凪がひどく自信のなさそうな声で言った。森は思わず脱力して笑ってしまった。 「……知ってる。名前出てた」 『無言だったから……』 「いや……だって……なんか……いきなり掛けてくるから……」 『いきなり……って、言われても……』 「……何か用」 困ったように苦く笑った凪に、森は自分の矛盾に気付き声をわずかに低くした。壁に寄りかかると、背中に冷たさが染みて森の熱を相殺する。左胸と指先が特に熱い。 『事務所の近くに新しい和食レストランができたみたいだから、今晩一緒に行ってみない?』 「……和食……それ、大丈夫なのかよ」 『……さぁ。だめだったらジェリーのとこで口直しってことで』 「……何だよそれ」 『……レストランは、ただの口実。会える?』 一昨日も会ったばかりなのに、それを指摘する気にはならなかった。森は冷静を努めて凪の誘いを受け入れた。ゆらゆらと湖の表面のように何かが揺らめいている。胸をきつく締めあげていた糸が緩むように、身体の中心から放射状に拡散する。落ち着かなさが空気をかすかに震わせている。 待ち合わせの約束をした後に短い会話を交わし、電話を切ってノアのところに戻ると、ハンバーガーもポテトもスープもすっかり冷めてしまっていた。もう食事を終えていたノアは、森の顔を見ると遅かったね、と含みを持った笑みを浮かべた。森はノアを適当に誤魔化し、冷たくなったポテトをスープで流し込む。窓から寄ってくるかすかな冷気と冬の匂いが、どこか心地よかった。

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