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第9話

二月に入ると降雪量は一気に増えて、雪は連日街を真っ白に染め上げている。空から舞う雪に霞む景色は、いつ見てもまるでプラスチックのおもちゃのようだ。真っ直ぐに伸びた細いビルたちは、そのまま空に刺さってしまいそうなほど。 「……何してるの?」 窓から右手に見えるビル群を眺めていた森は、後ろを振り返った。二人分のマグカップを手にした凪が首を傾げる。森は首を横に振って、小さく息を吐いた。 凪のアパートはマンハッタンの真ん中にあり、古く雰囲気があってとても広い。白い壁と天井、深いブラウンのフローリング、それから大きな窓。どれを取っても森の部屋とはまるで違うハイセンスな高級アパートだ。窓からはエンパイア・ステート・ビルも見える。部屋の中は暖かく、窓に息がかかると気温差でガラスは白く曇った。 「……ちょっと外見てただけ」 「雪弱まった?」 「強くなった」 凪は笑って、まぁ、今日も泊まって行けばいいよ、と言った。それからカウチの前のローテーブルにマグカップを置く。ブラウンとホワイトを基調にした落ち着いた色合いの部屋にマグカップの鮮やかなグリーンがよく映える。森は気恥ずかしさを隠すように溜息を吐いて、カウチに深く腰掛けた。 「嫌?」 「……そうじゃ……ない……けど……」 何度かの週末をこの部屋で過ごして、そろそろ自分がここに泊まることに慣れ始めてきている。凪の提案にももう違和感を覚えない。このままこの生活が当たり前になっていくのかもしれない、そんなことまで考えてしまう。青児にこだわり過ぎてまともに恋愛をすることができず、絶望を感じていたのはついこの間のことなのに。凪との関係は隙間から柔らかな液体が流れ込むように始まって、日に日に森の中を満たしていく。こんな始まりは考えたことがなかった。 「……けど?」 「……いや……なんていうか……」 マグカップを両手で支えて、コーヒーの表面に息を吹きかける。ふわりと立つ湯気の温かさに、森は自分の心情をそのまま口にしかけて、途中で止めた。言葉をコーヒーごと飲みこむ。深いコーヒーの味わいが全体に薄く伸び広がった。 「……何でもない。今日泊まる」 「ん」 「……ここからだと会社近いって、だけだから」 「いいよ、何でも」 凪はそっと笑って、森はふつふつと沸くような感情を押し殺すように表情を固くした。身体に合わせて柔軟に形を変えるカウチと温かなコーヒーが、森から感覚を奪う。 「いてくれるだけで十分だから、理由はなんでもいい」 「……いちいち、言わなくていい」 笑みを深くして、凪はコーヒーを啜った。 凪と一緒にいるようになって思うのは、凪が本当に初対面の印象のままの人間だということだ。凍えるような寒さと押し潰されそうな苦しさの中で差し伸べられた手。あの時の感覚は、時間が経つほどに一点に収束して森の胸を優しく縛る。その感情を確信することはまだできなかったけれど、森はこの部屋で過ごす時間に意味と必要性を感じ始めている。ただ寂しさを埋めるとか性欲を満たすとか、そういうこと以上に凪の作り出す空間は穏やかさと安堵がある。まるで波間にたゆたうような。凪なら自分の気持ちを理解してくれると思うからなのかもしれない。これまで誰かに自分の恋愛の話をしてこなかったのは、理解されないとわかっていたからで、だから、あの日カフェで聞いた凪の言葉には純粋に心を揺さぶられた。 「……あんたは……さ……」 「うん?」 「……何で……俺の……どこが、いいわけ?」 時が止まったように、一滴の沈黙が二人の間に垂れた。すぅ、と波紋が描かれるように静けさが広がる。森はその一瞬をやけに長く感じて、カップに口を付けた。コーヒーの表面にも波が生まれる。 「何で……わざわざ……俺なんか……」 凪の顔を見られない森の視線はどんどん下がっていく。やがて凪が森のカップを取り去り、森を抱き寄せた。小さな吐息。凪が笑ったのだということがわかる。 「……何で、笑うんだよ」 「いや、かわいいなと思って」 二十九年間生きてきて、可愛げがないと言われたことはあっても、そんなことを言われたのは初めてだ。森は凪の腕の中で身体を丸める。それを解くように凪の腕が腹部に回され、肩口には凪の呼吸を感じた。 「何で……か。何でかな。親近感あったのかな。同じ日本人で、同じような境遇で」 「……」 森が思わず閉口すると、凪は小さく笑って腕に力を込めた。 「初めて会った時から気になってた。ぶつかった後も森のことが頭から離れなくて、どうしたらもう一回会えるかなって思ってた。だから本当に会えた時は奇跡だと思ったし、誘われた時は嬉しくて飛び上がりそうだったよ。こんな風になったの、こっちに来てから初めてなんだ」 凪はゆっくりと、丁寧に、大切なものを撫でるかのようにそう言った。 「森が怒って出て行ってからは、本当に落ち込んで、後悔した。ずっと森のことばっかり考えてた。これ以上理由は必要?」 じわじわと顔に熱が集まっている。それを見られるのが嫌で俯いていたのだけれど、凪に体勢を変えられ顔を寄せられてしまう。吸い込まれるように、唇を触れ合わせる。 「ふ……っ……」 鼻から息が抜け、薄い層状になった熱が身体を包んで身体の内側に膜を張った。舌を触れ合わせた後、凪は髪や耳にもキスをした。堪らずに森が身を捩ると、凪が笑う。 「ベッド行く?」 「っ……無理」 下腹部に走った鈍い痛みに顔を歪めると、凪がわかっていた答えを聞いたように大丈夫、と笑った。腰を押さえながら溜息を吐く。 「……大丈夫なわけない」 「ごめんね」 「……やり過ぎなんだよ。加減しろ馬鹿」 「ごめんってば。でも、俺ちゃんと許可取ったよ?」 「うるさい」 凪の身体を押し退けて、森は置物のようになっていたマグカップを取り戻した。気恥ずかしさを隠すようにカップを手に立ち上がり窓際へと寄る。冷たい空気が頬に触れると、自分の顔の熱さを自覚して余計に恥ずかしくなる。 雪はまた少し強まったようで、外は一面真っ白だ。ぼんやりとした明かりすら見えなくなりそうだ。仕方なく森は窓枠に手をついて、部屋の隅に置かれたシェルフの方を何気なく見やった。シェルフには建物の模型が飾られている。何度か目にしていたものの、それまで気に留めなかったものがふと気になった。 「……模型?」 「え?」 「あれ」 シェルフを指差すと、凪は一瞬表情をなくして、それからあぁ、と相槌を打った。 「家だよ。去年賞取ったやつ。それはひな型だけどね」 凪はデザイナーとしてはまだ駆け出しだと言ってはいたけれど、働いている事務所の規模や時折話に出てくる経歴から想像するに、優秀であることは間違いなさそうだ。その凪の設計した家に森は純粋な興味を持ち、シェルフに近付いた。精巧に作られた家の模型はとてもシュールなデザインだけれど、どこか陽だまりのような優しさを感じさせる。森は素直に感心したけれど、それをそのまま口にしてしまうのが癪で、わざわざ他に言葉がないか探した。自分でも屈折しているとは思うけれど、こういう性格なのだから仕方がない。 「……住みづらそう」 森の苦し紛れの批判に凪は一瞬きょとんとして、それから可笑しそうに笑った。 「それ初めて言われた」 「……」 「確かに、ちょっとデザインに寄りすぎたかなって思ったんだ……まぁ、でも、どのみち住むための家じゃないから」 意味がわからずに森は眉を顰めたけれど、すぐに賞を獲るための家ということなのだろうと納得した。模型を見つめながらコーヒーを啜る。 「森なら、どんな家がいいと思う?」 「……え?」 「参考までに聞かせて」 「どんな……って……」 「キッチンが大きいとか、天井が高いとか、そういうの」 「……でかい、風呂?」 「風呂?」 「足伸ばせて、肩まで浸かれる風呂」 「はは、なるほどね……他には?」 「……あと……日当たりのいい部屋」 「窓際に大きいベッド?」 「……そう」 「いいな、それ」 凪は優しく目を細める。住みたい家というよりは今のアパートに対する不満を並べただけのような気がするけれど。森は模型に視線を戻し、細部を観察する。シャープな印象の中にある温かみや優しさ。それは確かに凪らしいデザインだった。デザイナーとしての尊敬と憧れが生まれ、左胸がその重みに軋んだのがわかった。心地いいと思えてしまうその重みに、森はまた熱くなった吐息を漏らした。

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