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第10話

ニューヨークの歓楽街の夜はいつも騒々しい。人も、明かりも。高いところから地面すれすれまで満遍なく光が溢れて、まるでパレードのようだ。白い靄がその光景を更に非現実的なものにしていた。森の白い息も立ち上っては靄の一部になってしまう。空気に触れる顔の表面がそのまま凍りついてしまいそうなほど冷たい夜だった。 森はBLACKBIRDを目指し、賑わう通りを真っ直ぐに進んだ。通い慣れていたはずの道は、どこか他人行儀な顔をしているように思えた。それだけここに来るのが久々ということなのだろう。以前は三日と空けずに来ていたのだけれど、最近は凪の部屋で過ごす夜が増えて足が遠のいていた。凪と一緒でない週末もまた、久し振りだ。仕事が修羅場に入っているらしく、週末も事務所に缶詰状態らしい。昨日の電話で凪は残念そうにそのことを謝った。 凪に告白をされて以来、自分でも気持ちがはっきりしないまま関係を続けている。凪は優しいし、一緒にいるのは気楽だけれど、青児へのこだわりがなくなったかと言われればそんなことはない。凪は無理に青児の記憶を追いやる必要はないし、少しずつゆっくりでいいなんて言うけれど、そう言われる度に森は戸惑う。自分では早く捨ててきれいになくしてしまいたいと思うのに、凪にそう言われると感情が錯綜して自分でもよくわからなくなってくる。凪に甘えるばかりではなく自分の気持ちくらいはっきりさせたいと思い、この機会に一人で腰を据えて考えようと思ったのだけれど、結局仕事帰りの足はジェリーの所へと向かっていた。 ドアマンにIDを見せ、地下にある店に降りると、カウンターの中にいたジェリーが驚いたように目を瞠らせた。森は曖昧な笑みを浮かべ、カウンターのスツールを引く。 「久し振りじゃない。元気そうね」 久々に聞いたジェリーの声で、わずかに感じていた緊張は解けた。 「まぁ……ちょっと……忙しくて」 「何言ってんのよ。どうせナギとセックス三昧なんでしょ」 拗ねたようにジェリーは言って、森は言葉を詰まらせた。ジェリーが凪を気に入っているのはわかっていたことだけれど。 「もう。こんなことならナンバー教えなきゃよかった」 「……でも、助かったよ」 ふん、とジェリーは鼻を鳴らして、けれど目元は笑っていた。森は安心して、ビールをオーダーする。すぐにジョッキと見紛うサイズのグラスに注がれたビールが差し出される。一緒にフライドポテトが出てきて、森がジェリーを見上げると、彼は柔らかな笑みを浮かべた。 「お祝い」 「え?」 「日本から帰ってきてから本当に暗かったもの。元気になってよかった」 ジェリーがまるで母親のように胸を撫で下ろして言うので、森は思わず胸を熱くした。揚げたてのポテトを齧りながら、森はジェリーの気遣いを噛み締める。 「……ずっと、心配してくれてたの?」 「そうねぇ……まぁ、大体のことはナギから聞いてたけど。シズカ全然来ないんだもの。気になっちゃうわよ、そりゃ」 「……ナギ、来てんの」 「よく電話で話すわよ。話聞いてあげてるのに、ジェリーはお母さんみたいだなんて言うの。失礼だと思わない? 年だってそんなに変わらないのに」 森が思わず笑うと、ジェリーがじとりと森を睨んだ。それから諦めるようにして笑いを零す。 「まぁ、ナギがニューヨークに来てすぐからの付き合いだから、そうなっちゃうのも無理はないわね」 「……そうなの?」 「そうよ。ナギがこっちに来たばっかりの頃はすごかったわよ。どんよりって感じね。理由聞いても言わないの。ただ真っ白な顔でぼけっとしてて……後でわかったんだけど、日本で彼氏と別れたばっかりだったのよね……悲惨だったわ。はっきり言って、シズカの比じゃなかった」 その頃をどこか懐かしむように、ジェリーは笑った。確かに凪もそう言っていた。簡単に忘れられるはずもないし、相当に辛い思いをしてきたはずだ。そう思う時、森はいつも切なさと安堵を同時に覚える。 カウンター席の奥の方からジェリーを呼ぶ声がした。感傷に割って入ったその声にジェリーははっとした様子で行くわね、と言ってそちらに行ってしまった。一人になると、森はビールを呷りながらまた凪のことを考えた。 凪はいつも穏やかに笑う。優しく、温かい。凪がそこまで落ち込んでいるところは想像がつかなかった。いつかは青児を忘れて、後ろめたさを感じることなく凪といられるようになるのだろうか。そうなればいいと、思うのに。不確かさを感じながら凪といるのは心苦しいと思うのに、それ以上に心地いいから困る。 「……」 森は溜息を吐いて、項垂れた。青児を好きになるのは簡単だった。ビールが喉を滑るのと同じように、簡単に落ちてしまった。それなのに、今はこんなに難しい。 「――ねぇ」 重い気分でグラスに口を付けた森の肩を誰かが叩いた。森はそれを鬱陶しく思い、首を横に振った。それで去っていくだろうと思ったのに、相手は引かないどころか隣に座ってしまった。 「おい……って……」 男を追い払おうとして振り向いた森は、視線の先で微笑んだ相手に思わず目を丸くした。 「久し振り」 「……レイ?」 「何だ、覚えてるじゃん。忘れられたのかと思った」 レイは笑いながら言って、手に持っていたカクテルを飲んだ。森は一気に気まずさを感じ、黙って前を向き直る。凪の友達だけれど、最近はお互い忙しくてあまり会えないらしい。森としてはあまり顔を合わせたい相手ではないけれど、青児のことがレイから凪に漏れてしまったことについてレイに非があるわけでもない。席を外す言い訳を上手く考えられず、森はやけになってポテトを数本まとめて口に押し込んだ。 「……腹、減ってるの?」 「……べふい」 別に、という言葉は押し込んだポテトのせいで上手く発音できず、レイはまぁいいやと言ってまたカクテルを一口飲んだ。ぎくしゃくした空気を感じているのは森だけらしい。 「シズカ、今ナギと付き合ってるんだって?」 面白がるようなレイの言葉に、森は思い切り動揺してむせ込んだ。大丈夫、と笑いながらレイが背中をさすってくれる。最早否定のしようもなく、森は落ち着くと小さく頷いた。 「……凪に聞いたのかよ」 「うん。ジェリーにも聞いた。シズカ、俺とナギが友達って知ってたの?」 「……凪に聞いた」 「なんだ。もっと驚くと思ったのにな。残念」 「何だよ」 「もう“セイジ”って言ったの? それとも“アイシテル”って?」 恥ずかしさが塊となって森に圧し掛かる。森が絶句すると、レイは唇で意地悪に三日月を描いて見せた。 「日本通の友達が教えてくれた。ナギじゃないよ」 「……」 「セイジって、やっぱり名前なんでしょ。昔の彼氏とか?」 「……そんなんじゃない」 声は無意識に低くなった。森が正面を向き直ると、隣でレイがグラスを傾けるのがわかった。森もまだあまり減っていないビールを飲む。こうなったら酔ってしまった方がいくらか気分が紛れる。少しの間、二人の周囲を客の話し声や音楽が漂った。さらさらと気泡を解放させていくビールが恨めしい。 「……元彼と言えばさ、シズカはナギと元彼の話、聞いた?」 「何が?」 あまり他人の口から聞きたい話ではないと思ったのだけれど、気になっている自分もいて、森は自然とレイに聞き返していた。ざわめきが少し遠くなる。 「ナギの家にある模型は見た? 大事に飾ってあるやつ」 「模型?」 「家の模型。リビングになかった?」 森はすぐにシェルフに飾られた模型のことを思い出した。さっぱりとした白い家。埃ひとつなく大事に飾られていた。 「……白いやつ」 「そう、それ。あれさ、ナギがヒサフミのためにデザインしたんだよ」 「……ヒサフミ?」 「ナギの元彼。ナギがまだ日本にいた頃にヒサフミと一緒に住みたくて考えた家なんだよ」 「……」 色々なショックが一度に襲いかかって、森は言葉を失った。悠文という男が、凪の言っていた“昔の恋人”であることは間違いない。凪がその恋人のために作った部屋。大切に飾られていた。それは、凪がまだ悠文のことを思っている証拠だ。森にとってのデッサンと同じ。そんなのは嫌だと森は鈍く回転する頭で思った。レイは一呼吸置いて、急に真剣な眼差しを森に向けた。でもそんなことには関係なく、森の内側でぐるぐると混乱が渦を巻いている。 「傷ついてるの?」 「っ……」 自分には傷つく資格などない。わかっているはずなのに、傷ついている自分がいる。何も言えずに痛む胸を押さえると、レイがかすかに吐息を漏らした。 「……俺なら昔のこともないし、森のこと、俺だって気に入ってるのにな」 髪に触れるレイの指先の感触に森は血が燃えるのを感じて、咄嗟にその手を振り払った。乾いた音、そして動揺に震える鼓動の音。森はそのまま逃げるようにして店を飛び出した。後ろの方でジェリーが何かを言ったような気がしたけれど、何を言ったのかはわからない。それどころではなかった。 凪はいつも無理に青児を忘れることはないと笑う。凪もまた悠文のことを思い続けているから、あんな風に笑って話せるのだろうか。もし今悠文が凪の前に現れたら、凪はあっさり彼を選ぶのだろうか。 そこまで考えて、森は渦巻く不安な気持ちを留めた。もし、自分だったら。今もし青児が目の前に現れて、もし手を差し伸べてきたら、森はここに留まれるのだろうか。青児の手を取らずに凪を選べるだろうか。 「――……、」 自分でもわからない。外は来た時よりも更に冷えていて、漂う真冬の空気が肌に突き刺さった。不安がまるで津波のように押し寄せている。大切に飾られた模型、凪の笑み、言葉。全てに傷ついている自分がいる。感情が思考の先を行ってしまっていて、森は苛立った。自分を棚に上げているのはわかっているのに。冷たい空気に冷静を促されても、却って渦が強くなる。身体の中心、一点だけがひどく熱く、あとは指先まで氷のように冷たい。

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