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第11話

幸い、凪は週が明けた後も忙しいようだった。森も仕事が忙しく、電話で一言二言会話を交わすだけで顔も見ない日々が一週間ほど続いていた。たったの一週間だけれど、それでも凪と出会ってから一週間も会わないのは初めてのことだった。凪に会わない間、仕事に没頭する一方で森はずっと考えていた。レイの言葉、凪のこと、自分の気持ち。でもどれも考えるほどに混乱して、答えのようなものは何も出てこなかった。 悠文という男のために凪はあの模型を作り、今も大事に保管している。そのことを信じたくないと思うのに、妙にすんなりと納得している自分もいる。凪は森のように忘れなければと強く思いながらもがくようなことをしないのだろう。開き直っているのか無意識なのかはわからないけれど、悠文のことを今も引きずっていることに変わりはない。それは何よりもあの模型が物語っている。光が溢れるのが容易に想像できるような、甘さの漂う家。森は模型の細部を思い出し、心を痛めた。どうしてこんなに辛くなってしまうのだろう。過去に囚われているのは自分だって同じだ。青児と過ごした日々は手を胸に当てれば確かにそこにある。青児のことを思うと胸が痛い。それなのにレイの言葉がショックで、悠文のことが憎いとさえ思う。勝手だ。自分はまだ青児でなく凪が好きだと言い切れないのに、凪には過去を捨ててしまって欲しいなんて。わかっている。わかっているのに、心はまるで言うことを聞かない。 「……」 考え事を巡らせながら手を動かしていた森は、いつまでも配色の決まらないフライヤーのデザインに嫌気が差して、マウスを放って椅子に凭れた。溜息が零れる。仕事をしている時間は長いのに、まるで捗らない。 「……あの」 「……」 「あの……これ……頼まれてた資料……集めたので……」 リサが資料をまとめたファイルを緊張した面持ちで森のデスクに置いた。彼女は誰に対しても大抵おどおどしている。 「んー……ありがと」 「いえ……失礼します」 「リサ」 「え……あっ……はい……?」 「これさ……どっちの色がいいと思う?」 「え?」 森はパソコンのディスプレイをリサに向けて、二通りの配色を彼女に見せた。リサは困窮した様子で二つを見比べた後、おどおどと森の方を見た。それから小さく首を横に振る。 「……じゃあ、リサが好きな方……か、ましだと思う方でも、何でもいい。どっち」 それは無名の劇団の公演用のフライヤーで、仕事を大小で区別するようなことは普段しない森も、今はどちらか決めてくれればどちらでもいいという心境だった。リサは悩んだ末に派手な方の配色を指差し、それから言い辛そうにでも、と言った。 「でも、何」 「……どっちも……シズカらしくない……ような……」 「……」 「……ご、ごめんなさい。生意気なこと言って……あの……失礼します」 リサは困ったように言って自分のデスクへと戻って行った。森はまた溜息を吐いてディスプレイを正面に向くように直す。森らしいかどうかは置いておいても、出来の悪いフライヤーだ。こういった類のフライヤーは次から次へとほとんど流れ作業のように作られて、ここまでデザインで悩むようなことは滅多にないのだけれど。自分で聞いたくせにリサに変なところを見抜かれて苛立っている。本当に自分にうんざりだ。 「――シズカ」 リサの選んだ方のデザインを保存していると、今度はノアがやってきた。リサとのやり取りを見ていたのかもしれない。声に少し呆れが混じっているような気がした。 「……何?」 「ちょっと休憩、付き合ってくれない?」 森は三度目の溜息と共に提案を受け入れた。 休憩スペースはいつも通り閑散として寒かった。虚無感の漂う空間に二人分のコーヒーの湯気が揺らぐ。まずいとわかっていても、身体は温かい飲み物を必要としていた。コーヒーを啜ると、予想通りの味が広がる。ノアが続くようにコーヒーを一口飲んで、相変わらずまずいなと独り言を漏らした。 「……リサ、何だって?」 「何が?」 「さっき何か話してたから。またやらかした?」 「何も……ただ、フライヤーの色、二種類あってどっちがいいか聞いただけ」 「……ふぅん」 「どっちも俺らしくないって言われた」 「そうなの?」 「……知らない」 「リサはシズカのデザインのファンだからなぁ」 ノアは笑いながらコーヒーを啜る。森はもうコーヒーを飲む気にならず、小さく息を吐いた。吐息は空間に溶け込んでいく。 「俺も好きだけどね、シズカのデザイン。綺麗だし、繊細だ。俺にはできないな」 「……俺だってノアのデザインの真似なんかできないよ」 「まぁね。でも、何ていうか、リサの言うこともわかるかなって。シズカのイラストとかって繊細でさ、こう、感情が読みとりやすいんだよ。たまにすっごい悲壮感漂ったりしててさ、そういう時って大抵シズカの機嫌悪いんだ」 「……仕事はちゃんとやってる」 「そうなんだけど。何だろ、俺たちはシズカのこと知ってて、その前提で商品見るからかな。そもそもシズカってすごくわかりやすいし」 森が不貞腐れて口を尖らせると、ノアがほら、と笑う。 「子供みたいだ」 「……からかってんの?」 「そうじゃないよ、心配してるんだ。みんなしてる。ここ二、三日シズカの様子が変だって」 「……」 「疲れてるなら、休み取ったって平気だよ。いつもシズカが一番忙しく働いてるんだから」 森は自己嫌悪に落ち込み、項垂れた。自分勝手な苛立ちで同僚に迷惑まで掛けて、一体何をしているのだろう。本当は悲しいのだ。でもそれを正面から認める強さがない。 「……ごめん」 溜息混じりの言葉に、携帯電話が震える音が重なった。森は思わず背筋を伸ばして、それを見ていたノアが小さく笑う。森は自分に呆れながら電話に出る。 「……はい」 「森?」 数日ぶりに聞く声に、鼓動が大きくなったのがわかった。森は気を落ちつけるように深呼吸をして、コーヒーを置いているテーブルから少し離れた。 「……凪」 「うん、ごめん、仕事中?」 「……休憩中」 「そっか、よかった」 電話の向こうで凪が安堵するように小さく息を吐いた。凪の声の柔らかさとレイの言葉とが頭の中で白と黒の渦を巻く。 「……忙しいんだろ」 「うん。でも、まぁ、今日で一息つけそうだから」 「……そう」 「うん。だから、夜、会える?」 「……」 凪の誘いは予想できるものだったけれど、森は思いのほか動揺している。会えば聞かずにはいられないことを、頭より心の方がわかっているようだった。 「……会いたい」 「……いい……けど……」 息苦しさを堪えながら了承する。全てに責められているような気分になって逃げ出したい気持ちもあったけれど、断ることもできなかった。会いたくないわけじゃない。 「……森?」 「……何」 「……仕事終わったら、電話ちょうだい」 「わかった」 「うん、じゃあ、後で」 「……後で」 そう言って電話を切ると、携帯電話を持っていた手から力が抜け、森は項垂れた。気が重い。どんな顔をして会えばいいのだろう。会うのが怖いとも思う。でも心臓は既に熱に浮いている。 ふらつく足でノアの所に戻り、テーブルに手をつくと、そのまま森は突っ伏した。 「え、ちょっと、シズカ?」 「……もう……だめだ……」 「え?」 「……無理。最低だ……」 結局勝手なことばかりを考えている。ノアが戸惑った様子で大丈夫、と聞いて、その手が森の肩に触れる。漣のように広がる温かさ。凪に触れられると、もっと熱くて、深くまで浸透する。でも、その感触の記憶は今、遠かった。

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