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第12話

仕事を終えて森が凪に電話をした時、凪はもうアパートに帰っていた。仕事場から凪のアパートまで、いつもなら地下鉄に乗るのだけれど、森は歩くことにした。時間を稼ぐくらいのならキャンセルすればいいのに、それもできない。怖い反面で気になっているからだ。森は二キロほどの距離をぼんやりと歩いて、アパートに着いてしまうと、もう何度も通ったはずのエントランスに踏み込むのがひどく困難なことのように思えた。 何も聞かなかったことにしてしまえれば、どんなに楽だろう。それは無意味な仮定だ。何よりも浮き立つのは自己中心的な自分で、結局何も変わっていないことを実感する。自分のことばかり考えて青児の幸せを願えなかったあの頃のまま。 森は痛みを抱えたまま、結局アパートのエントランスをくぐった。古めかしいデザインのエレベーターで凪の部屋のある階へと上がる。がくん、と箱が振動し、扉が開かれる。凪の部屋はすぐ目の前だ。森は気重さに溜息を吐きながら、ベルを鳴らした。振動と、浅く零れる呼吸。ドアノブの回る音。 「――遅かったね」 とろりとした光が漏れて、森を迎えた凪がそう言った。森は凪の顔を真っ直ぐに見ることもできず、曖昧に頷いて部屋へと入った。フローリングを叩く足音が耳障りだ。 「寒かったんじゃない?」 「……忘れた」 「何それ」 森は正直に答えただけだったのだけれど、凪は森が惚けたと思ったらしい。可笑しそうに笑って見せた。いつものような柔らかな笑みが心の傷に染みる。リビングにあるカウチの辺りまで進むと、凪が手の甲を森の頬に当てた。わずかに見上げた先で凪が目を細める。 「冷たい」 「……」 するりと凪の手のひらが頬から抜け、頭を引き寄せられる。森は無表情でキスを受け止めた。凪に触れられている時、いつも胸の中の凸凹を均されるような感覚がある。それを心地いいと思っていたのに、今は不安を煽る。凪の向こうのシェルフが気になって仕方がない。落ち着かないまま、キスを森の方から終わらせると、凪はまた微笑んだ。 「何か飲む?」 「……何でも」 「待ってて」 凪は軽いキスで音を立て、キッチンに入っていく。森は今にも泣き出してしまいそうな気分になりながら、シェルフの前に立った。この間と全く変わらないまま、あの模型が飾られていた。凪が昔の恋人を思って作った家。とても丁寧に作られて、それは、頭の中の思い出よりずっと正確に、確実に恋人を思い出させてくれるのだろう。手を触れれば簡単に壊れてしまいそうで、森は伸ばしかけた手を引いた。 「……森?」 ぎり、と一際大きく胸が痛んだ。凪を振り返ると、凪は両手にマグカップを持って不思議そうに首を傾げた。 「どうかした?」 「……」 言い淀んでいると、凪はマグカップをテーブルに置いて森の隣に立った。それからあぁ、と声を漏らす。 「これ、気になる……?」 「…………聞いた」 「え?」 「……これ、誰のために作ったか、知ってる」 「森……?」 「ヒサフミって、奴のために……作ったんだろ……?」 声が震えていて、震えはすぐに全身へと広がった。怖いのだと思った。知れば自分は決定的に傷つく。凪の行動にも、自分の矛盾にも。でもどうしても、聞かずにはいられない。 「森……」 肩に触れた凪の手を森は拒絶した。今欲しいのはそんな不確かなものじゃない。 「……そいつのこと、まだ忘れられないんだろ。まだ……好きなんだろ……だから……だから、こんなもの大事に飾って……!」 言いながら、まるで自分で自分を責めているような気分だった。苛立ちは真夏の積乱雲のように大きく膨らんでしまう。 「……俺、森のこと好きだよ」 凪は絞り出すようにそう言った。森は首を横に振って、とうとう堪え切れなくなった嗚咽を漏らした。 「そいつのこと、忘れられないくせに……」 「……忘れたわけじゃない。大事な人だった。だから幸せでいて欲しいと思ってる。でも、森が思ってるようなことじゃないよ」 「同じだろ!」 「別だって」 「変わらない! だって、そいつのこと思いながら俺のこと抱くんだろ? まだ好きなんだろ…?」 「そんなわけない。何言ってるの?」 「っ……なら!」 心臓を潰されそうなほどの圧迫感、不安、焦燥。何度も自分の感情の醜さに辟易してきた。でも今が一番、人生で一番醜い。わかっているのに。 「……なら……何でこんなもの飾ってるんだよ!」 模型に手を伸ばすと、次の瞬間それは数冊の本と一緒に床に落ち、呆気なくばらばらになった。凪は呆然とその様子を見ていた。静まり返った室内に森の嗚咽が響く。模型を壊したところで何も変わらないことくらい、わかるのに。 「森……、」 「っ……」 「俺は、森のこと……」 「もう、いい。聞きたくない」 「ちゃんと聞いて。俺、森が好きだよ。だから……」 「聞きたくない!」 森の声が空気を真っ二つに切り裂いた。凪が息を呑むのがわかった。 「……っ」 森の拒絶の声でぽっかりと空いた空間の隙間に流れ込むように突然電話のベルが響き渡った。森は肩を震わせ、傍にある固定電話に視線を向ける。瞬間、凪に身体を引き寄せられ、凪の唇が強引に森のそれに触れた。反応が追いつかない。凪の手はあっという間に森のジーンズのジッパーに伸びた。 「っ……やめ」 「やめない。話ちゃんと聞いてくれるまで」 「や……っめろ……凪!」 「っ……」 全身の力で凪を振り払うと、それで凪の身体は離れた。電話のベルはまだしつこく鳴り続けている。森は浅く呼吸をしながら、また電話を見やった。 「……電話、鳴ってる」 「そんなの、どうでもいい」 「凪」 「……気になるなら、森出ていいよ」 森は苛立って、ずかずかと部屋を横切り受話器を取った。とにかく一度流れを止める必要があると思った。受話器を上げて鳴り響いていたベルの音が途切れても、頭の中に余韻が残るようだった。鼓動の音も止まない。 「――Hello!?」 「……凪?」 「……」 「あ……悪い……あの……俺。悠文……だけど……」 電話の向こうで男が気まずげに放った言葉に、心臓が止まるほどの衝撃が走った。突然の雷雨のように、激しく心臓の音が身体中に響く。相手もかなり緊迫しているようで、それは声ですぐにわかった。混乱に全身が縛りつけられる。 「……本当……ごめん……急に電話したりして……でも……何でかお前のことしか……思い浮かばなくて……五嶋さんに……番号……聞いて……」 コードレスの受話器が手元から滑り落ちた。頭の中が真っ白になった。何も考えられない。必死に思考を手繰り寄せるのに、まるで届かない。様子がおかしいと思ったらしい凪が近付いてきて床に転がった受話器を取り上げた。嫌な予感が駆け巡る。まるでいつもの夢の中に実際に立ったような気分だ。 「Hello? ……え?」 電話を取った凪の声が緊張に強張る。森は堪らずに固く目を閉じた。音を遮断するほど、鼓動が大きくなっている。逃げ出したいのに、身体が動かない。高校生の頃、これに似た痛みを味わった。自分だけを見て欲しかった。あの優しい眼差しを自分だけに向けて欲しかっただけだ。けれど、結局それが自分に向くことはなかった。 「――落ち着いて……うん、大丈夫だよ。だから……うん……じゃあ……」 受話器が戻される音がして、森の意識がようやく外と繋がった。垂れていた頭を上げると、凪が深刻そうに息を吐いた。痛みと重さが増す。 「悠文さんから……奥さんと子供が事故って病院運ばれたって……」 「……」 「パニックになって……かけてきたみたい」 凪はどうにか声だけでも平静を装おうと無理しているようだった。実際には冷静でないことくらいすぐにわかった。心配で表情が歪んでいる。 「…………行けば」 「え?」 「日本。傍にいて欲しくてかけてきたんだろ。助けてやれば」 「……何、言ってるの?」 凪はあまりにもあり得ないことを聞いたような顔をして笑った。思わず笑ってしまったという感じだった。何もかも非現実的だ。自分でも何を言っているのだろうと思う。ただ、このまままた不安を抱えながら日々を過ごすくらいなら、ここで全てを終わらせてしまった方がほんの少しは楽になれるような気がした。もう傷つきたくない。辛いのも苦しいのも、悲しいのも痛いのも嫌だ。こんな思いをするのは終わりにしたい。青児の時と同じだ。逃げてしまった方が楽になれる。 「……まだ……好きなんだろ……行けよ」 「違うって」 「でも心配してる」 「それは……だけど、それとこれとは……」 「同じだ! 嫌なんだよ!」 「森……」 「嫌なんだ! 俺は青児のこと忘れて、俺を一人にも不安にもさせない人と一緒にいたい! だからあんたなんか……あんたなんか論外だ!」 言っていることが滅茶苦茶だ。それに、不安にさせない誰かを求めているのではない。ただ、凪に自分を不安にさせないで欲しいだけだ。自分だけを見て欲しいと思ったのに。 「……」 凪が吐いた溜息は重かった。終わる。そう実感すると、楽な方に逃げようとしているはずなのに、そうは思えないほどの痛みに襲われた。 「……森は……俺が……悠文さんに未練残したまま森のこと抱いてるって……本気でそう思うの?」 「……そうとしか……思えない」 「じゃあ、森はいつも、セイジって人のこと思いながら、俺とセックスしてた?」 「っ……」 「……少しずつでも……俺のこと見ようとしてくれてるんだと思ってた。それって、俺の独りよがりだったってこと?」 だって、忘れなくてもいいと言ったじゃないか。その言葉を、森は口にすることができなかった。口にした途端に崩れ落ちてしまいそうだったからだ。凪を見ることと、青児を忘れることは何が違うというのだろう。悠文のことを今でも思いながら森を愛するなんて、そんなことできるはずのないことは森もよくわかっている。だから、森は早く青児を忘れたいと思った。辛かった過去は全て忘れて、なかったことにして、凪だけを見たいと思った。そうできるような気がしていたのに。 「……わかった」 凪がまた嘆息した。苛立った様子でデスクから手帳のようなものを持ってきて森に見せる。それはパスポートだった。 「行くよ、日本に。悠文さんに会いに。森は本当にそれでいい?」 森は拳を握りしめて、頷いた。あまりにも大きな不安は、ここで凪が留まって拭えるものではない。凪は乾いた低い声でわかった、と呟いた。 「……っ」 とうとう心が限界に達し、森はそのまま部屋を飛び出した。エレベーターに乗って、外に出る。冷たい空気が触れると、涙がぼろぼろと零れた。 「っう……」 自分勝手なのはわかっていた。でも不安だった。ただ、一番だというその一言が欲しかっただけなのに。そうしたらきっと、一番だと返すことができたのに。そうして青児のことは忘れて、凪と一緒にいられると思ったのに。 粉雪の舞う乾いた空気を嗚咽が湿らせる。凪のことが好きだ。こんなにも。それなのに、一度もそれを言葉にすることができなかった。苦しみの合間、森はそのことをひどく後悔していた。

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