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第13話

自分のアパートに帰ってベッドに入っても眠れないまま、空は白み始めていた。何度も寝返りを打ったせいでシーツは縒れて、意思とは無関係に突然落ちる涙で濡れていた。 凪はもう空港に向かっただろうか。自分で言い出したことなのに、森はそれを想像すると辛くなってシーツを握りしめた。胸が焼き切れてしまいそうだ。けれどもしあの場をやり過ごして先伸ばしたところで、いずれは浮上する問題であることは間違いなかった。繰り返して疲弊して、そうして迎える終わりは森からも凪からも多すぎるものを奪うだろう。 「っ……」 白く眩しい光が、カーテンの隙間から森を責めるように目に射した。目を閉じると脳裏に浮かぶ、ばらばらになった模型の白い部品たち、電話の向こうの震えた声、悲しげな凪の表情。失いたくないと思った。けれど冷静な思考なんて到底持てなかったし、考えていても同じだったのかもしれない。凪をただ信じられたらよかったのに、下手に境遇が似ているせいでできなかった。どうしてもあの模型は森には重過ぎた。 「……」 森は光から逃げるように丸くなって、氷のように冷たい空間に森に息を吐き出した。吐息は熱く、胸の辺りに重みを持って留まった。 身体を丸めて動かないまま、部屋の中に少しずつ明るさが延びていく頃、突然の電話の着信音が朝の静寂を壊した。弱った頭が割れてしまいそうなほどの音に森は思わず目を開けて、身体を起こし音の元を見つめた。鼓動の強弱がはっきりして、身体が震える。森はベッドから出てゆっくりとデスクの上に置いてあった携帯電話を取った。小さなノイズが鼓膜を震わす。 「……は、い」 朝の空気は冷たく、森の声は掠れた。緊張が薄膜を張る。 「……森か?」 「……せ……いじ?」 青児はそう、と答えて笑った。力が抜け、森は思わずその場に蹲る。大きな溜息が零れてしまった。 「……ふざけんな……脅かすなよ……」 「は、脅かすって、何が?」 「……今、何時かわかってんのかよ」 「六時だろ。ちなみに日本は夜の十時だけど」 「……わかってて何でこんな時間にかけてくるわけ?」 「だって何回かけてもお前捉まんないんだもん。さすがにこの時間なら捉まったな」 全く悪びれない青児にまた溜息が漏れる。同時に、安堵のような、期待が外れた残念さのような複雑な気持ちを覚えた。凪からの連絡を待つなんて、女々しくて嫌になる。 「……何の用?」 「何の用、じゃねぇよ。お前メール見た?」 「え……あ……見てない」 森はパソコンを一瞥して、見えもしないのに首を横に振った。連絡先を記したメールを青児に会社から送って以来、プライベートのメールボックスは開けていない。初めはただ青児からのメールを見るのが怖かったのだけれど、途中からは忘れてしまっていた。その事実に気付くと、森は自分でも驚いて言葉を失った。ずっと、いつも青児のことで頭がいっぱいだった。この十年、いつだって。それなのに、今の今まで凪のことで頭がいっぱいだった。青児のことを忘れるほど。改めて感じる戸惑いは広がり、やがて馴染んで名前を変える。 「――おい、森、聞いてんのかよ」 呆然としていた森の耳に青児の声が飛び込んできた。森は我に帰り聞いてなかった、と正直に返す。青児が寝惚けてんのか、と笑った。 「三月に高校の同窓会するって。お前の連絡先わからないって幹事に泣きつかれたんだけど」 「……日本で」 「当り前だろ。多分新宿だって。お前、戻って来れないの?」 「……無理だろ。仕事も……あるし……今更……」 「今更ってことはないだろ。お前卒業式も出なかったし、みんな心配してたよ」 青児は珍しく真面目な声で言って、森は溶かしたチョコレートを心臓にかけられたような温かさを感じた。 「……青児も……心配したわけ?」 「はぁ? したよ。何回言わせんだお前。こないだだってふらっと戻ってきたかと思ったらまたさっさといなくなりやがって」 「……碧くん元気?」 「……」 「……ごめん」 傷つけてしまった碧のことを思い、胸が痛んだ。すぐに凪を傷つけた記憶が重なる。凪が森を大切にしてくれていたことはわかっていたのに。どうしていつも、自分は自己中心的な考えで簡単に人を傷つけてしまうのだろう。 「……碧は、別にもう気にしてないよ」 「……」 「そもそも碧に黙ってた俺が悪いんだし、お前もずっと男の上に子持ちの教師なんてやめとけって反対してたしな……」 青児はまだ森が碧に悪意を持って青児の過去を告げたわけではないと思っているらしかった。確かに悪意ではなかったけれど、それに近い嫉妬だった。碧は当然のように森の青児への感情の種類を察したようだったけれど、青児にはそれを伝えなかったらしい。 「まぁ……常識的に……止めるよな」 青児が苦く笑った。どこまでも鈍感で、子供で、でも優しくて。心から、本当に好きだった。 「……常識だのなんのって……お前……俺が本当にそんなことで止めたと思ってんの?」 「は? 他に何があるんだよ」 「……ないけど」 「まぁ、でも、心配してくれるのは素直に嬉しかったよ」 「……」 不意の青児の言葉に涙が零れた。ただ、積年の思いたちが流れているのだと思った。溢れる涙は止まらず、やがて嗚咽までが漏れた。身体を丸め、触れたフローリングは冷たく、凪の温かさがひどく懐かしかった。 「……森?」 「っ……」 「え、何、どうした?」 「……っふ」 「は? お前何で泣いてんだよ? おい、森?」 凪に会いたい。凪を愛している。今ならば確信を持ってそう言える。それなのに、失ってしまった。どうしてもっと早くに気付いて、凪に好きだと素直に言えなかったのだろう。誰よりも愛しているのだと。だから一番に愛して欲しいのだと。 「森……?」 「……っ……ごめ……」 「……本当、どうしたんだよ。ホームシックか?」 「……馬鹿、違う……」 青児がほんの少し笑いを滲ませた。小さな笑いはころころと耳から転がりながら入ってきて、森の涙を助長した。涙が留まることはなく、森の電話を持つ手は小刻みに震えた。 「……なぁ」 「な……っんだよ……」 「いや、何か、いつもと立場が逆のような気がして」 「はぁ……っ?」 「高校の頃はいつもお前が俺に付き合ってたのに。いつも茶化さないでちゃんと聞いてくれるから、お前といると本当楽だったな」 青児は懐かしむように言った。森にしてみればそれがずっと辛かった。早くその記憶を消してしまいたかった。過去なんかなかったことにして、青児のことも知らなかったふりをして、そうして生きていきたかった。今は、それがどんなに無理なことだったかがわかる。凪の言っていた言葉の意味が、今ならわかる。 「ばっかじゃねぇの……?」 「何だよ、今度は俺が真面目に話聞いてやろうと思ったのに」 「……いらねぇよ、馬鹿」 そうかよ、と言って青児は笑った。忘れないことと、まだ好きだということの違いはどこにあるのだろうとずっと考えていた。もう好きじゃないと言うためには忘れるしかないのだと思い込んでいた。でも違う。そうじゃない。青児のことを愛していた自分は確かにいて、青児と過ごした日々も触れられた時の感情も覚えていて、でも森は凪を愛しているとはっきり言える。今この場で青児にだって言える。いつの間にこんなに好きになっていたのだろう。どうしてもっと早く気付けなかったのだろう。後悔したってあんなことを言ってしまってはもう遅いのに。 青児に無理やり取り繕って、電話を切ると森は泣きながらすぐ傍のシェルフからポートフォリオを引きずりだした。ファイリングされた絵を取り出すと、あっという間に落ちた涙で鉛筆の黒が滲んだ。これは、凪の模型と同じ。森が青児を好きでいた証拠だ。森はまだ拙い鉛筆の跡を指で撫でて、そのまま指に力を込めた。くしゃり、と紙が縒れる。簡単に、それはいびつな塊になった。ごみ箱に棄ててしまうことはできなかったけれど。思い出になる瞬間は小さな穴が空く感じに似ていて、それはすぐになだれ込んでくる熱で埋められた。固い紙の塊を握りしめて項垂れる。床に落ちた涙が、白い光と冷たさに飲み込まれて薄く広がった。

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