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第14話

寒さはいつもと変わらないけれど、日差しが少し柔らかみを帯びた朝だった。冬はもう終わるのかもしれない。朝の光が芝生を照らすのを、森はベンチに座ってぼんやりと眺めていた。休日のセントラルパークが混み出すのはこれからだ。まだ朝も早い。家からは少し離れているけれど、眠れずに家を出て、ふらふらと地下鉄に乗りここまで来てしまった。この付近まで来ることはあまりない。目に入る景色は新鮮だった。 凪のアパートを飛び出したあの夜から今日で三日だ。凪は日本に行っているだろう。事故に遭ったという悠文の妻と子供は無事だっただろうかとか、凪は悠文と何を話すのだろうとか、答えの生まれないことばかりを考えた。終わってしまったのだと、そう思うと涙はいつも簡単に滲み出した。枯れることはない。 「……」 空を仰いで、瞳を覆う水の膜が引くのを待つ。いつか自分自身に問うた言葉がぼんやりと頭に思い浮かぶ。間に合わなかった。水面を横切る小さな飛行機の像がぐにゃりと歪んで、空の青は曖昧になる。ふくふくと境界線が太りだして、降り始めの雨のような小さな水の塊が目尻から垂れた。身体を起こしたらもう止まらないことがわかって、森はそろそろと息を吐き出した。視界が振動に揺らめいている。 「――やぁ」 「っ……!」 一面の薄青を遮られ、涙は驚きで一気に零れた。コートの胸の辺りに落ちた雫が小さな音を立てる。森は身体を起こし、声のした後方を振り返った。溜め込んでいた涙が一度に落ちたので、今度は何も零れなかった。 「……レイ?」 森が目を瞠ると、レイは片手を上げて笑みを浮かべて見せた。 「おはよう」 「な……」 「偶然だよ。俺アパート近いから、休みの日はよく来るんだ」 「……」 「シズカは散歩……っていうわけでも、なさそうだけど?」 森の目の端に引っ掛かっていた涙の粒を長い指で拭い、レイはベンチの背凭れを跨ぎ隣に座った。当り前のようにそうしたので、何も言う暇がなかった。森は涙の跡をコートの袖で拭い直し息を吐く。敵だとまでは認識していないけれど、できれば会いたくなかった。 「……散歩だよ」 「そう? ナギは? 一緒じゃないの?」 「……」 森が視線を落とすと、レイは不思議そうに首を傾げた。悪気はないらしい。森は唇を噛み、コートの襟に口元を埋めた。 「……日本」 「日本?」 「……多分」 朝の爽やかな空気にそぐわない、地を這うような森の声で、レイは事態を察したらしかった。そう、と小さく呟き、森に息を吐く。 「喧嘩? それとも別れちゃった?」 「……そんなようなもん」 頭に重石が落ちたような感覚があって、森は背凭れに背中を滑らせた。螺旋を描く温かな吐息と冷たい空気のコントラストが目に見えるようだった。レイの手が、無意識に零れた涙をまた掬い取った。 「だから、俺にしときなよって言ったのに」 森は何も言わずにこめかみを押さえた。いっそそうできたら楽になるだろうか。それともまた繰り返す?青児の好きな人を知ってからは、辛さを押し込めるように男女構わず色々な相手と付き合ったけれど、どれも二カ月と続かなかった。今はそれすらできる気がしない。凪との時間を失った衝撃に、立つことすらままならない気分だ。 「今度こそ俺にする?」 「……嫌だよ」 レイは笑って、背凭れに預けていた身体をわずかに起こした。木製のベンチが揺れる。 「ナギがいいの? それとも、セイジ?」 「……凪」 凪の名前を声にすると、痛みが強くなった。心臓が震えている。 「何だ、そっか」 「……何だよ」 「いやー、でも、じゃあ何で別れちゃったわけ?」 森は何も言えずに口を尖らせた。レイは少し考える仕草を見せ、それからあぁ、と思い当たったように目を大きくした。 「もしかして模型の話?」 「……」 森が俯くと、レイは気まずそうに笑って頬を掻いた。 「ちょっと、余計なこと言ったなとは思ってた。でもシズカが欲しくなっちゃったからさ、あの時は」 「……」 「さすがにもう諦めるけどね。俺、自慢じゃないけど二回もふられたことなんかないよ?」 レイがどこまで本気なのかはわからない。森が無言を続けていると、日本人は本当に真面目だね、とレイが言った。国籍の問題でもないような気はしたけれど、何も言わなかった。 「まぁ、だから俺は日本人が好きなんだけど」 「……そうかよ」 「うん。俺、シズカもナギも好きだよ」 「……真面目なところが?」 「まぁね。俺にしてみればシズカもナギも昔ああしたとかこうしたとか、悩み過ぎだと思うけど、でも、何だろ、綺麗だなとも思うんだよ」 「……凪のことも?」 森の問いかけに、レイは森を振り向いてからからと笑った。 「そういえばナギとセックスしたいって思ったことないなぁ」 「……」 「でも……そうだな……うーんと、模型の話してもいい?」 「……どうせもう知っちゃったし」 レイが申し訳なさそうに顔をわずかに歪めた。ごめん、と、目が言っている。森は声に棘があったことを自覚し、俯いた。悪い癖だ。 「……ナギと初めて会ったのは、ナギがまだニューヨークに来たばっかりの頃なんだ。ジェリーのところで偶然会った。ジェリーにかわいい日本人が来てるって言われて、面白そうだから声かけたんだけど、ちょっとびっくりしたな。ナギ全然英語話せなくて、すごい暗くてさ」 懐かしむようにレイはぽつぽつと話した。いつの間にか光は濃くなってきていて、するすると細やかな風が頬をすり抜けている。胸だけが熱い。不思議な感覚だった。 「少し話して……そしたらいきなり泣き出した」 「……凪が?」 「うん。俺もジェリーもすごく戸惑った。聞いても理由言わなくてさ。よっぽど辛かったんだろうな。まぁ、彼氏と別れていきなり一人で知らない国に来て言葉も通じないんじゃね……」 「……」 人前で急に泣き出すほど弱っている凪を、森は想像もすることができなかった。ただ、気持ちはわかる。森も青児から逃げてアメリカに来たばかりの頃はそんな心境だった。 「それから何回か店で話して仲良くなって……いつだったかな、ナギのアパートに遊びに行ったんだ。ただ話をしに。その時は全然不思議じゃなかったけど、今考えると不思議だよ。バーで出会った男の家にさ、そんな健全な目的で行ったことなんかほとんどなかった」 やや話を脱線させながら、レイはくつくつと笑った。森は黙って話を聞きながら、凪のことを思った。 「あの頃のナギのアパートは今より狭いスタジオでさ、荷物がぐちゃぐちゃで、でも、部屋に入ってすぐにあの模型に目がいった」 「……模型」 「そう。あの模型。すごい賞も獲ってるんだ。知ってた?」 「……聞いた」 「まぁ、あの模型はそのひな型だけどね。俺あれ見た時すごい感動してさ、この部屋に住みたいって言ったんだ。そしたらナギは、悲しそうに俺も住みたかったって」 「……」 「日本で彼氏と一緒に考えた部屋だからって。忘れたいのに、忘れられないって、ほとんど泣きそうに言うんだよ。日本でもニューヨークでも捨てられなくて、気付いたら組み立ててたって」 「……けど……いつも……俺には……無理に忘れることなんかないって……」 凪はいつもそう言った。だから森は、凪には森のような考えはなかったのだろうと思っていた。忘れるつもりなど初めからなかったのだと、そう。 レイが一呼吸を置いて、それから小さく笑った。 「ずっと模型は捨てられないままだったよ。いつ行っても当り前に飾られてて。そのまま何年も経って、つい去年の話だよ。遊びに行った時、冗談でそろそろ忘れられたんじゃない? って聞いたんだ。そしたら凪は首を横に振って、無理だったって。けど、改良して賞に応募することにしたよって笑った」 「……、」 「意味わからないだろ? そしたらさ、ナギが言うんだ。なかったことにはできなかったけど、思い出にはできそうだからって。区切りをつけて、終わりにしたいって。まだ愛してるじゃなくて、愛してたって、今ならやっと言えるからって」 「……」 「もう模型を見ても辛くならないし、帰って抱きしめたいとも思わない。日本で家族に愛されて、幸せでいて欲しいって思えるようになったって。八年もかけて苦しんでさ、辛そうなところ何度も見てきて……でも、綺麗だなって思ったよ」 自分の手で崩してしまった模型、丸めたスケッチ。乾いたと思っていた涙が再び零れ出した。はらはらと、それはまるで自分の涙ではないかのように。目元をレイの長い指が拭う。 「……正直に言うと、ナギとシズカは合わないと思ってた。似過ぎてるって。それに俺もシズカのこと好きだったし」 「……」 「ごめん。シズカをこんな風に傷つけたかったわけじゃないんだよ」 「……レイの……せいじゃないよ……」 どうにか言葉を絞り出して、あとは感情のままに森は泣いた。今ならわかるのに。自分の気持ちも、凪の言葉の意味も。なのにどうして、手遅れなのだろう。どうして凪に日本に行けなんて言ってしまったのだろう。 レイの手のひらが頭に移って、優しく撫でられる。温かい。凪の温かさが思い出されると、涙が勝手に量を増してしまう。春を待つ風が頬を冷やしては新しい涙が熱の筋を作り出した。

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