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第15話

落ち込んでいても、まるで絶望の淵がすぐそこにあるような気分でも、時間は平等なはずだ。でもたったの一秒すら、今はひどく長く感じる。レイの話を聞いた後、涙が止まらなくなってしまった森はレイに家まで送ってもらい、そのままベッドに沈んでいる。レイは責任を感じているようだった。でも悪いのはレイではなく自分自身だということを、森はよくわかっている。一人になると、自分を責める気持ちが一層強くなる。 「……」 瞼は腫れて、喉も頭も痛かった。丸めた絵は、そのまま床に転がっている。広げれば、そこには青児との出会いがあって、一緒に過ごした日々を誘起する。消し去ってしまいたかった思い出たちは、今も消えないまま残っている。森が落としてしまった模型は、凪はあの後どうしただろう。転がったパーツと、凪の歪んだ表情が脳裏に焼き付いている。締めつけられる胸から、全身が圧縮されてしまうような気がした。森はベッドの端に放っていた携帯電話を手繰り寄せて、溜息を吐いた。小さな電子音が一瞬浮き、すぐにシーツに沈む。ベッドに射す光に指が触れると、それは琴線を簡単に弾く。脆くなった森の弦は、頼りなく震え、いつまでも振動している。鐘の中に入れられたように波は反射し、干渉し合う。森は胸を押さえ、携帯電話から手を離した。もし凪に電話をしても繋がらなかったら。繋がったとして、拒絶されてしまったら。そう思うと何もできない。心の中で凪の顔と言葉をひたすら反芻するだけ。ただ目を閉じて、痛みを堪える。 「――……」 もう溜息も零れない。ほとんど丸二日間、少しの水以外何も口にしていない。このままベッドの一部になってしまいそうだ。森はよろめきながら重く疼く身体を起こした。食事をする気にはならないけれど、水が飲みたい。それでも心底億劫な気持ちになりながら、脱ぎ捨てたままのブーツを履く。 「……っ」 ベッドから降りた森は、不意に鳴り響いた携帯電話の着信音に驚きベッドを振り返った。薄く平らな日差しの中に置かれた携帯電話はいつものように森を呼んでいる。森は緊張に息を呑み、手を震わせながら、恐る恐る携帯電話を手に取った。ディスプレイに真っ直ぐに並ぶアルファベットに胸が苦しくなる。森は通話ボタンに指を載せ、そろそろとそのボタンを押した。確かな感触が指に残って、緊張の波に襲われる。 「…………はい」 心臓の音が邪魔で自分の声すらよく聞こえなかった。立っているのも困難になって、ベッドにほとんど落ちるようにして腰を下ろす。 「……森?」 低く、柔らかな声は、森の耳を湖岸に寄せる漣のように浸食する。森は目を閉じて、浅い息を漏らした。安堵か、絶望か、よくわからない。 「……」 「……もしもし、森? 聞こえてる?……俺、凪」 「……」 「……森?」 「…………きこえてる」 凪が小さく息を吐いたのがわかった。もう二度と電話なんてかかってこないのかもしれないと思っていた森はこの突然に反応しきれず、けれどそれでも胸はひどく熱くて、自分がそれだけこの声を求めていたのだということを実感させた。 「……今、家?」 「……そう、だけど」 「……俺……今、森の部屋の前に……いるんだけど……」 森は驚き、ドアの方を振り向いた。見慣れたはずのドアがまるで知らない場所のものに思える。ふらふらと引き寄せられるようにドアのところまで歩いていくと、電話の向こうが近くなったような気がした。 「……開けて」 ドアの鍵にかけた手が迷って、森は手を下ろした。混乱している。 「……な……んで……」 「……え?」 「……何で……日本は……?」 「……行ってきた。悠文さんに会って、怒られた」 「……何で」 「俺が悪いって……」 凪はそう言って苦く笑った。笑いはとても苦しげだった。悪いのは自分の方なのに。そう思っても、うまく言葉にならない。 「……奥さんも子供無事だった。大したことなかったみたい」 「……」 「……さっき、レイと話した。俺たち……いつ別れたの?」 「……、」 「森、開けて。ちゃんと話そう?」 お願いだから、という凪の祈るような声と共に、ドアが一度ノックされた。迷っている。また同じことの繰り返しになってしまうのが怖い。けれど、凪を求める感情の方が強かった。震える手が再び鍵に触れ、金属の冷たさが緊張を煽る。ゆっくりと解錠しドアを開け、隔てがなくなると、目の前に立った凪が安堵したようにかすかな笑みを浮かべた。森が腕を伸ばすのと、凪がそうするのと、どちらが先だったのかはわからなかった。凪が部屋に入るとドアが閉まり、その音と共に二人でその場に崩れるようにして落ちる。凪が熱く息を漏らして、それが心の隙間に染み入った。 「開けて貰えないのかと思った」 「……」 「何で……レイに別れたなんて言ったの?」 「……もう……だめだと思った……日本に行ったんだと……思ったから……」 「……不安にさせてごめん」 凪が噛み締めるように言って、森の身体を抱きしめた。心臓がそれまでとは違う温度で震えている。 「模型のことも、黙ってて、ごめん」 「……」 「いつかは言おうと思ってた。森が嫌がったら……その時は捨てようって……俺、間違ってたね」 「……いいよ……別に。もう、わかったから」 「……森」 「レイに聞いた。凪の言ってたこと……今は……わかるよ……」 凪はそう、と笑って、森の髪を梳いた。 「……でも、あれは捨てたよ」 「え?」 「森が出て行って、すぐに捨てた。拘りっていうわけじゃないけど……どこかで捨てるのが怖いって……思ってたのかもしれない。でも捨てたらすっきりしたよ」 「……」 「悠文さんにもちゃんと言った。ほっとしたって、笑ってた」 「……何で」 「……俺さ、日本出る時、悠文さんに忘れてって言ったらしいんだよね。俺のこと全部、何もかも忘れて欲しいって……思い出に囚われそうなのは……俺の方だったのにね」 「……」 「……悠文さんに会って、ちゃんと改めて確かめてきた。俺は森が好きだよ。ずっと一緒にいたいって思うのは、森だけだ。森が一番だよ」 じわりと芯を溶かすような熱が広がっていく。色々な感情が混ざり合って、欲しかった言葉が全身を巡って、溢れそうだ。涙が滲んで、森は凪のジャケットを握りしめた。 「俺……は……っ」 「うん」 「……俺も……一番……かも……しれない……」 凪がゆっくりと森の背中をさする。森は息を吸い込んで、凪の耳元に唇を寄せた。短い言葉が空気をわずかに震わせ、熱く湿らせる。 「……うん」 凪は安堵したように頷いた。ずっと言えなかったことを後悔していた。素直な感情を言葉にすることなんてほとんどしたことがなかったから、本当に緊張してしまった。声に出したことでいくらかそれが解けて、森は嗚咽を大きくした。 「泣かないで。俺まで泣きそう」 凪は困ったように笑って、それから滑るようにあちこちが触れあった。絡まり合う指、舌、視線、熱。全てをとても大切に思う。遠回りどころか完全に立ち行かなくなっていた日々から、ようやく踏み出せそうだ。森は凪に身体を預けながら、ぼんやりと思った。 青児にこのことを報告しよう。休みを取って、日本で開かれるという同窓会に出て、青児に自慢をする。誰よりも幸せなのだと、そう言えるだろう。

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