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第1話

小さな白い建物の中は、かすかな海の匂いが漂っている。早朝のせいか、まだ凪たちの他に人はいない。時が止まっているのではないかと疑うほどの静けさと神聖さに包まれている。 この場所で指を組んでいる時、凪はいつもこれ以上ないほどの不安に襲われ、背筋が凍る感覚に陥る。匂いも空気も隣に座っている父と兄も、何もかも。全てに責められ、拒まれているような気分になる。いつも。生まれてきたことを後悔するし、たった今生きていることを後悔する。 「――……」 長い沈黙の後で、凪はゆっくりと瞼を押し上げ息を吐いた。指を解き、隣を見る。父と兄はまだ十字架に向かって祈りを捧げていた。 日本海に面した小さな港街で、敬虔なカトリックの家庭の次男として凪は生まれた。母は凪がまだ四歳の頃に病気で亡くなり、中学の音楽教師をしている父が男手ひとつで二人の子供を育てた。五つ年上の兄は二年前に近県の大学の神学科を卒業し、今は神父の見習いをしている。毎朝三人で礼拝することが当たり前の日課だった。当然のように洗礼を受けたし、凪もクリスチャンだ。少なくとも父と兄は、そう信じている。 「……」 凪は祭壇に掲げられた十字架と、その奥のステンドグラスに描かれたキリストの姿をそっと見やって、気を重くした。首には父から与えられたロザリオまでかけて、それなのに、自分は神を信じられない。小学五年生の時に、初めて人を好きになった。よりによって相手はこの教会にいたまだ若い神父だった。自分の性質を自覚して、凪は絶望した。凪を取り巻く狭い世界では、同性愛は重罪だったからだ。まだ子供だったとはいえ、凪はそのことを承知していた。それ以来、周囲の人間はもちろん父と兄にも拒絶されるかもしれないという不安が、背中に圧し掛かり続けている。 「――凪」 凪が重みと痛みを必死に堪えている間に、二人の祈りは終わったらしかった。隣に座っていた兄の岬(みさき)が凪の肩を軽く叩く。凪ははっとして頭を上げ、小さく頷いた。 「……あ……ごめん」 「行ぐが」 父がぼそりと呟くように言って立ち上がる。父が手にしているロザリオの玉がぶつかり合って小さな音を立てた。 「新幹線乗り遅れたらえらいことやが、急げ」 「うん」 「岬、凪んごと駅まで送ってってくれろ」 「ああ。凪、もういいが?」 「……うん」 凪も頷き立ち上がる。二週間前に四月から東京の大学の建築科に進学することが決まり、今日が上京の日だった。こんな日でも毎朝の日課は欠かさない。父と兄にとってそれは当然の姿勢だった。むしろ旅立ちの朝だからこそ、いつもより祈りの時間が長かったのかもしれない。 凪は後ろの席に置いていたボストンバッグを肩から提げ、二人の後に続いた。背中に圧力を感じる。まるで誰かが凪を一刻も早くこの建物から追い払おうとしているようだった。もしかすると誰かというのは凪自身かもしれないけれど。 母が死んで、ただでさえ大人しい子供だった凪はいっそう塞ぎこんだ。友達もほとんどできず、幼稚園ではいつも一人で絵を描いていた。今思えば、それは母の死よりも自身の本質のせいなのかもしれない。凪は元気に駆け回る集団にもおままごとに興じる集団にも、どこにも属せなかった。その頃から違和感はあったのだ。遅かれ早かれ、凪はこの小さな田舎町の保守的な空気に堪えられなくなっただろう。 ともあれ、凪は一人を好み、口数は日に日に減っていった。心配した父はある日、凪を隣県に出来たばかりだった美術館に連れて行った。教会を併設し、宗教画や装飾物が常設展示されているその美術館は世界的に著名な建築家によって設計されたものであり、父に手を引かれてその建物の前に立った凪はその美しさに一瞬で心を奪われた。子供の視線はその完璧さを悟るには不十分であったかもしれないけれど、そんなことは当時の凪には関係なかった。真夏の濃い緑と木漏れ日をモザイクのように映す白いモダンな建物。大きなガラスが特徴的なその建物はすぐ横に建てられた教会と互いの存在を強調し合った。美術館の中に凪を連れて入ろうとする父を引き留めて、十分近くも凪はその建物を見上げていた。 あの十分間で、凪は建築家になることを決めた。どうして自分がそこまで惹きつけられたのかはわからない。ただ、あの時、視界が一段明るくなるような、そんな感覚を覚えた。 父と兄は、凪が建築科を志望することに不満げだった。高校生になって初めて自分の希望を口にした時、父は閉口し、兄は残念そうに目を伏せた。二人は凪が兄と同じように神学を学び、神父となってくれることを期待していた。けれどどう考えてもその期待には応えられそうになかった。凪は聖書の内容にも単調な讃美歌にもさほど興味は持てなかったしゲイだけれど、それでも今日まで毎朝の礼拝に堪えてきたのは、この夢を叶えるためだった。本当のことを言えば父は間違いなく凪を教会の施設に閉じ込める。 「今日は、ひゃあね」 少し離れた家から教会の前の道路に車を移動してきた岬が、車を降りてそう言った。もう三月も半ばになるとはいえ、この街の空気はまだまだ冷える。凪が吐いた息は白く、宙に拡散した。 「凪、おらは学校行くが、駅まで行がんけど」 「……大丈夫だよ、父ちゃん」 「本当に東京の教会の神父様に連絡しとかんでいいが?」 「うん……自分で、行くから」 「そうが……お祈り欠かしたら許さんが」 「……わかってる」 父は頷き、ジャケットのポケットから封筒を取り出し凪に手渡した。 「足しにせ」 「……あ……ありがとう」 「父ちゃんは凪に甘いが」 「凪ぁ昔から何考えてるかわからん時があるが、心配やが」 封筒を持つ指に力が入る。本当のことはやっぱり言えない。 「父ちゃん……」 「気をつけてな。しっかり勉強せ」 「…………うん」 「父ちゃん、凪、時間。遅れるが」 「……うん」 凪は俯き、岬が先に乗り込んだ車の助手席に入った。胸が痛い。実の父親と兄を騙して、本当のことを言えないまま、ここまで来てしまった。きっともう二度と、この場所に来ることはないだろう。大学に入れば奨学金を受けて、アルバイトもできる。余裕はなくともそれで国立大を出て試験を受け、働くことができるはずだ。だから二度と、教会で祈ることはない。それなのに、結局最後まで父と兄にゲイであることを言えなかった。怖かった。どうしても。 走りだした車内で岬と他愛のない会話を交わしながら、胸の痛みは増すばかりだった。 地元の最寄り駅から単線と新幹線を乗り継ぎ、三時間足らずで東京に到着する。東京の大学を受けるに当たって既に何度か訪れているものの、足を踏み入れるたびに溜息を吐きたくなる。目まぐるしく人々が行き交い、林立するビルが空を狭くする。おまけに空気は濁って臭い。けれどそれでも、凪はこの場所に縋るしかなかった。夢を叶えるために。また、罪の意識と拒絶への不安から逃れるために。 大学の近くにあった小さな不動産屋は、凪のトイレと風呂が付いて一番安い部屋、という要望に苦笑しながらひとつの部屋を斡旋してくれた。築四十六年の六畳間。家賃は月五万円。時代錯誤の建物は、それでも都心に近いという理由で地元では信じがたいほどの値が付いていた。大学の寮などを探せば同じ家賃でもう少しまともな部屋に住むことはできただろうけれど、それは気が進まなかった。子供の頃から友達は少なかったけれど、ゲイを自覚してからは他人への接し方を意識しすぎるせいか、何もうまくいかなくなった。保守的な考えを持つ人間が多い田舎、おまけにクリスチャンの家庭で育ったせいだと思う。大学に入ってもそれが変わるとは思えなかった。だから多少不便があっても、ひとりになれる部屋を探した方がいいだろうと思った。 アパートに着いて、予め配送を頼んでおいた布団や家電など最低限必要なものを受け取り、ボストンバッグひとつに余裕で収まった荷物を片付けると、すぐに引越しは完了してしまった。凪は仕方なく思い切り西を向いた窓を開け、空気を入れ替えながら大学の入学案内に目を通した。東京はすっかり春だ。淀んだ空気はそれでもかなり暖かかった。けれどそこに自由の匂いは感じなかった。 「……」 時折、自由を望む一方で、このまま父と兄と、彼らの信仰に縛られていた方が楽なのではないかとも思う。同性の人間と恋愛をすることが決して楽な道ではないことは想像に難くないし、様々な悪い可能性を考えると到底前に進む勇気がなくなってしまう。初恋が実らなかったのはもちろん、その後も一度もまともな恋愛をしたことがない。中、高と、地元の学校に進んだけれど、田舎の学生は恋愛の他に楽しみがないらしく、凪も何度となくその風潮に巻き込まれた。女子から告白やデートの誘いを受ける度に憂鬱になり、時には悪目立ちや悪評を避けるために適当な女子と付き合ってみたりもした。けれどうまくいかなかった。異性とのキスやセックスに激しい抵抗を覚えたし、手を繋ぐのすら嫌だった。誰にもそんなことは言えなかったし、言ったところで誰も助けてくれないことを知っていた。同級生や、上級生、教師。何人かの同性に熱い感情を覚えたものの、結局どうすることもできなかった。鼓動が高鳴る度に怖くて震えた。同性愛に罪の認識を強く持ち過ぎていた。 だから、凪にとっては建築家になるという夢が全てだった。今も。東京の名門に入るために必死で勉強して、デッサンの練習もし、どうにか現役で国立大学に合格した。 「オレの……全部……か……」 大学の建物案内のページを眺めながら、凪はぼんやりと呟いた。構内には大学の卒業生が設計した建物もいくつかある。いずれも著名な建築家だ。自分もいつかはそうならなければならないと思う。建築家になって自分の納得する仕事ができるようにならない限りは愛せないと思うからだ。自分を、また、自分の人生を。意味を失った人生を自分はきっと、そう長く歩けない。 「……」 ふと時計を見ると、まだ午後も半ばの頃だった。凪は唐突に大学を見に行こうという気になり、窓を閉めて立ち上がった。大学は受験と合格発表の時に行ったきりでキャンパスをゆっくり見て回る余裕はなかったし、このまま鬱々と過ごすよりはましな一日になるような気がする。今日は土曜日だから学生も少ないだろうし、ここから大学までは歩いて十五分ほどで行ける。 凪はアパートを出て大学のキャンパスへと向かった。途中の並木道の木々は膨らんだ芽から新緑を覗かせ、もう初夏すら近いように思わせる。新しい毎日が始まろうとしているのに、高揚感がまるでない。結局着けたまま来てしまった胸のロザリオが始終凪の心を痛ませていた。 凪の予想に反して、土曜日のキャンパス周辺はそこそこの人で賑わっていた。この辺りにはいくつか著名な大学があると共に、美術館や博物館などの観光スポットが充実しているせいかもしれない。凪は人の流れを避けるようにして入学予定の大学の構内へと入った。公道から外れると、ざわめきはだいぶましになった。 「……インダストリアルデザイン展」 キャンパスに入ってすぐのところに設置された掲示板に貼られた小さなポスターに目を留めて、凪は小さく呟いた。どうやら学内のギャラリーで学生の作品の展示をしているらしい。無料だし、適当な時間潰しにはなるだろう。凪はポスターの地図を確認し辺りを見回すと、ギャラリーを目指して歩き出した。 難関と言われるこの芸術大学のキャンパスはそう広いものではない。建物と自然のバランスは半々くらいで、学生の数もさほど多くない。それは凪がこの大学を第一志望に挙げた理由のひとつだった。 目的のギャラリーは正門から歩いてすぐの、少し奥まったところにあった。小ぢんまりとしたアールデコ風のシンプルな建物は、洗練されていてこの場所の空気によく馴染んでいる。もう少しして周辺の木々が若葉で空を埋め尽くすようになったら、きっと建物の美しさがより際立つだろう。凪は中で開催されているはずの展示より先に建物に興味を持ち、小さな建物をぐるりと周ったりしながらよく観察した。それにしても無料の展示が行われているというのに人気はまるでない。ポスターもかなり小さいものだったし、仕方がないのかもしれないけれど。 建物の造りをじっくり見て、満足するまで十分程度かかった。凪はようやくギャラリーの中へと入った。ドアのない入口をくぐると、空気の質が変わる。入ってすぐのところから三階まで吹き抜けになっている。凪は一度天井を見上げて、それからふと視線を下げた。狭いスペースに椅子が置かれ、そこには学生らしき若い係員が暇そうに座っている。 「……あ……え、と……」 欠伸を漏らしていた係員は、凪の方を見やって、手にしていたフライヤーを一部差し出した。どうやら掲示板に貼られていたポスターの縮小版のようだ。 「どうも……」 「建物好きなの?」 係員はまた欠伸をしながら身体を伸ばして、凪にそう尋ねた。会話が始まることを予想していなかった凪は少し驚いて目を瞠った。他人と話す時にはいつも肩が強張る。 「……え……と……まぁ……はい」 「ぐるぐる回って見てたから」 凪はぎくりとして入口から外の方を見た。狭い入口とはいえ意外と外の様子がよく見える。何度も前を通っていたから目立ったのかもしれない。少し恥ずかしくなって俯く。 「一九六二年。山井俊道設計」 「……え」 「だって。書いてあった。そこ」 彼が入口の壁を指差す。そこには確かに彼に言った通りの情報が書かれていた。 「ここの卒業生なんだろ。えぇと……何だっけ、ほら、何かフランスかどっかの空港も設計したって……」 「……オルレアン・マルセイユ空港」 凪が答えると、今度は彼が驚いたようだった。 「何だ、知ってんだ」 「……これは、知らなかった」 山井俊道は確かにこの大学の卒業生で、日本を代表する建築家のひとりだ。凪は少し嬉しくなってもう一度辺りを見回した。山井俊道のデザインはシンプルで面を広く使うのが特徴だけれど、決して大雑把ではなく繊細で、凪の好きな建築家のひとりだった。 「ふぅん……ここの学生じゃないの?」 「……今は……まだ。来週、入学式で……」 「あぁ……どうりで。こんなもん、学生でも見に来ないと思った」 係員はそう言って、フライヤーの束を片手で弾いた。元がどれほどの枚数だったのかわからないけれど、まだかなりぶ厚い。 「ここの学生の方……ですか……?」 「俺? 違う違う。ただのバイト。学生だけど」 「はぁ……」 「座ってるだけでいいって言うから引き受けたんだけど、誰も来やしねぇ。電気ポットのデザインなんかよりパンダの方がいいんだろ」 「……オレは……パンダより電気ポットが……見たいんだけど……」 フライヤーに目を落としてそう言うと、係員は面白そうに口元を歪めた。少しどきりとする。 「そりゃ残念だったな。はずれだぜ、この展示」 「……はぁ」 「注ぎ口のないポットを堂々と出した馬鹿までいるんだぞ? どんなにデザインのいいポットでもいちいち中の魔法瓶取り出す手間かけられるなら、やかんで沸かした方がまし」 彼は心底呆れている様子で溜息を吐いた。デザイン性と利便性は時にトレードオフとなるけれど、注ぎ口のないポットは確かにひどい。凪は思わず笑いを零した。小さな声が漏れるのと共に、少し胸の辺りが軽くなったような気がした。 「ああいうつまんないデザインすんなよ、新入生?」 「……気を付けます……オレは……建築だけど」 「え、あぁ、そっか。そうだ、建物好きで……何でこんな小さい展示見に来たんだ? 電気ポットマニア?」 「……デザイン家電は好きだけど……単に……暇だったから……」 「ふぅん」 「……今日、東京に出てきたばっかりで……荷物ももう……片付いちゃったし……」 説明をしながら、凪はとても不思議な気分に包まれた。誰かとこんな風に会話を交わすこと自体が随分久しぶりのことのように思えたからだ。家族とも、学校の誰かと話す時も、いつも声を強張らせていた記憶しかない。ふとしたことで自分がゲイセクシュアルであることがばれてしまったらどうしようとか、いつもそんなことばかりを考えていた。 「はぁ、なるほどね。もしかして新潟とか、あっちのほう?」 「え?」 「だろ」 凪が驚いて瞬きをすると、彼は口角を上げて微笑んだ。思春期を迎えてから、凪は意識して方言を使わないようになった。保守的な環境へのせめてもの反抗のつもりだった。生意気だと言われることはあっても訛りを指摘されることはなかったので、少し気恥ずかしくなってしまった。 「あっちの親戚とイントネーションが似てるなと思ってさ」 「オレ……訛ってます……?」 「少しな。いいじゃん? かわいくて」 彼はそう言ってまた笑って見せた。瞬間、熱された細い細い針が胸に刺さったような気がした。よく見ると彼はとても凪好みの顔をしている。切れ長の黒い瞳と、細い鼻筋。存在感のある眉毛が端整さを際立たせていた。凪は熱に染まる頬を隠すようにしてこめかみを掻いた。 「あ、悪い。気ぃ悪くした?」 悪気はなかった、といった様子で、彼はふと真顔になった。てっきり揶揄されているのかと思ったけれど、どうやら本心だったらしい。 「……あの……いえ……自分では訛ってると思わなかったから……恥ずかしいと、思って……」 「俺なんか生まれた時から東京だから、方言ってちょっと憧れるけどな」 「……はぁ」 「ま、悪かったよ。男にかわいいなんて言われても嬉しくないよな」 凪は曖昧に笑って、傷ついた内心を隠した。彼は何も気付かない様子でふと時計を見やった。 「四時か……夕飯には早いけど」 「え?」 「学食でよかったらお詫びに奢る」 反射的に凪は首を横に振った。長年の習慣が凪にその反射を身に付けさせていた。嫌なはずはない。ただ、やっぱり怖いとも感じているのだろう。だって彼はとても凪の好みなのだ。 「そんなの……悪いです……」 「いいよ、別に」 「まだ……中……見てないし……」 「だからはずれだって」 「……仕事中なんじゃ」 「どうせ誰も来ない。九時からいて来たのあんた入れてたった四人だぜ? それに無料なんだし、フライヤー置いとけば問題なし」 凪の反応を待たずに彼は立ち上がってフライヤーを椅子の上に放り投げた。その様子に真面目な父の下で真面目に育てられた凪は軽いカルチャーショックを受け、額を押さえた。 「何で落ち込んでんの?」 「……いえ……何か……東京の人ってやっぱり力抜けてるなって……」 「はぁ? そう?」 「あの……悪い意味じゃ……なくて」 「いい意味の脱力って何だよ?」 「……あの……すみません」 彼の方が気を悪くしたのかもしれない。そう思い俯くと、とん、と肩を叩かれた。彼は笑みを浮かべている。 「冗談。じゃ、行くか。お詫び、な」 「あの……」 「ん?」 「もしかして、腹減ってるんですか?」 彼はばれた、といった風に舌を出した。どうやら凪への詫びというのは単なる口実らしい。 まぁいいから、と彼は笑って、凪の腕を取った。触れられただけで鼓動が高鳴る。彼に連れられて外に出ると冷たさと温かさを同時に感じる。春の空気に包まれる中で、胸のロザリオが揺れた。 それが、凪と有馬悠文(ありまひさふみ)との出会いだった。

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