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第2話
『――十一時十八分発、イーストアメリカン航空ニューヨーク行き八四九便のご搭乗手続きについてご案内します」
アナウンスの声が耳を響かせ、凪はふと目を開け、俯けていた顔を上げた。視界が色調を取り戻す。長い夢を見るように過去の記憶が駆け廻って、身体を疲弊させていた。時計を確認して息をつく。ここに座ってからもう二時間近くが経過している。
「……、」
森と言い合いになった勢いでニューヨークのアパートを飛び出して、そのまま日本に来てしまった。十二時間のフライトは凪にとって少し長すぎたようだった。冷静を取り戻した後でもうほとんど忘れていたような記憶の欠片たちが次々と蘇っている。
森のことを愛していると思った。それは今もそう思う。どんな過去の思い出よりもずっと、森のことを大切にしたいと思っている。それなのに、彼をひどく傷つけてしまった。その矛盾が凪の身体を縛りつけている。繰り返されるニューヨーク便の案内。すぐに引き返して森と会うべきだと、会いたいと思う。けれど一方で会っても平行線を辿るだけかもしれないとも思う。思い出の模型を捨てないまま森を好きになったことは、凪がいくら区切りはついていると説明したところで森に理解されないのは仕方がないことだった。それは凪にしかわからない。
次の便には乗れそうにない。凪はそう感じながら溜息を吐いた。身体がロビーの固いベンチに根を張っているようだった。アナウンスの声も人々のざわめきも、レコードの針をゆっくりと上げるように遠のいていく。
悠文は近隣の大学の経済学部の二年生で、凪より三つ年上だった。専攻とは関係ないけれどデザイン家具が好きで、趣味は家具屋巡り。家具好きの知人の紹介でギャラリーの案内係のバイトをしているということだった。悠文に連れて行かれた食堂でカレーライスを食べながら他愛のないことをたくさん話した。人と話すことがずっと苦手だったのに、悠文は話すことも聞くことも上手で、気付いたら二時間も話し込んでいた。第一印象の通り程よく肩の力の抜けた人なのだと凪は思った。中学や高校にいた誰も、彼のような接し方はしてこなかった。すぐ触れられるくらいのところまで一歩で距離を縮めて、けれどそれ以上は干渉しない。その絶妙な距離を真綿で包むように大切にする。それは凪にとってとても心地いいものだった。悠文は凪の内面に深く突っ込むようなことはせず、とても自然に場の空気のバランスを組み立てた。
それから入学式までの一週間、凪は毎日ギャラリーへと通った。暇だから話し相手になってくれという悠文の提案に素直に従ったのだけれど、悠文自身まさか本当に毎日来るとは思わなかったかもしれない。朝起きて身支度を整えて、ふとあれはただの社交辞令だったのに違いないと思う。けれど気付くと靴を穿いて彼のいる場所へと向かってしまう自分がいた。悠文はいつもパイプ椅子に座って足を組み、退屈そうに欠伸をしていた。凪が姿を見せると振り向いて、そっと目を細める。お前ほんと暇だな。言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな声と表情が凪をほっとさせ、また明日も来ようと思わせてしまう。
悠文がどこかから持ってきてくれたもう一脚のパイプ椅子に凪は座って、朝から夕方まで、毎日話をした。初めて会った時に悠文が言った通り、客はほとんど来なかった。好きなデザイナーのこと、場所、音楽、食べ物、もちろん嫌いなもののことも話した。誕生日は。血液型は。得意科目は。まるで女子中学生にでもなったかのように、話題は尽きなかった。もちろん恋愛の話も出たけれど、凪があまり得意でないと言葉を濁すと、悠文はもうそれ以上何も聞いてこなかった。その代わりに自分は彼女がいたけれど、四か月前に振られてしまったのだと話して苦く笑った。
本人から聞くまでもなく、それまでの会話や雰囲気から彼がごく一般的な感覚を持った男であることはわかっていた。けれどそれでもいいと思った。それくらい悠文と話すことが楽しかった。ギャラリーでの展示が終わっても、悠文とは頻繁に会って食事をしたり買い物をするようになり、鬱々として殻に閉じこもり続けていた日々が遠のいていくのを感じた。ただ、悠文の性質も自分の意志にも関係なく、急速に心が惹かれていったことも事実だった。矛盾は時折凪を深く悩ませたけれど、悠文と話しているといつの間にか頭の中の誰かが切なさをどこかに押し込んでしまうらしかった。片思いを隠すことには慣れていたし、きっと今度も大丈夫だと根拠の乏しい高を括った。本当はどうにも大丈夫ではなさそうだということを、わかっていたのに。だって、一緒に時間を過ごすほどに、悠文は身体中に巣食った空虚を埋めてしまう。
カーテンを閉めた西向きの部屋からも、よく晴れた天気であることがわかるような日曜日の朝だった。関東は一週間前に梅雨入りしたのだけれど、それ以来雨は一度も降っていない。どうやら今年は空梅雨になりそうだ。凪はカーテンと窓を開け、かすかに揺らぐ夏の始まりの空気を迎え入れた。そろそろと風が首筋を撫でる。この部屋には当然のようにエアコンがない。扇風機もなく、凪の装備は今のところ団扇のみだ。エアコンは無理でも扇風機は最低限導入する必要がある。団扇でわずかな風を引き寄せながらそんなことを考えていると、不意にチャイムの音が響いた。死にかけの蝉が最後に足掻くような、おかしなチャイム音だ。
「紺野さーん、宅配便でーす」
薄いドア越しに宅配業者の声はよく通った。凪は一応返事をし、判子を片手にドアを開けた。にこやかな青年がユニフォームの帽子のつばを押さえる仕草を見せた。彼が抱えている大きな段ボールに貼られた伝票には父の名前があった。特徴的な細長い筆跡に、息が詰まる。
「判子、お願いします」
「あ……はい、すみません」
凪が判子を押し段ボールを受け取ると、彼はまたにこやかに去って行った。ドアが閉まると、世界から取り残されたような気分になる。凪は畳の上に段ボールを置き、几帳面に真っ直ぐ貼られたガムテープを伝票ごと引き剥がした。中身は米袋と、数種類の野菜、それから手紙だ。父から物資の仕送りがあるのは二回目のことで、手紙はもう五通目になる。十日から二週間に一度、父から手紙が来ている。東京に来てから固定電話を引かずに携帯電話を買ったけれど、料金が高い上に電波が不安定で、凪はそれを理由に実家にほとんど電話をかけなかった。父と兄もほとんど電話は寄越さなかったけれど、代わりに父は定期的に手紙を書くことにしたようだった。内容は決まっていて、ちゃんと大学に行っているか、教会には通っているか、お祈りは欠かしていないか、といった確認事項がほとんどだった。胸のロザリオこそ今も身につけているものの、教会には一度も行っていないし誰にも何も祈っていない。もちろんそんなことを父に言うことはできず、凪は毎回葉書きに簡単な近況と教会に通っているという嘘を書いてそれを送っていた。
大学生活は、想像していたよりもずっと楽しかった。悠文と出会えたからという理由もあるだろうけれど、多分それだけではない。芸術大学の建築学科という場所が関係しているのか、凪と一緒に入学した同期たちは皆一癖ある個人主義者たちで、不必要な干渉をし合うようなことはなかった。自分の無個性さから目を逸らし、代わりに周囲に目を凝らして集団を均そうとする人間はいなかった。それぞれの個性を認め合いながら、自分を高めようとすることができる。そんな同級生に囲まれることは、それまで送ってきた窮屈な生活を思えば比べようがないほどに幸福だった。そのことが余計に凪の後ろめたさを大きくした。
「……、」
白い封筒の中にはいつもと同じ内容が書かれた手紙と、一万円札が三枚入っていた。先の連休に実家に帰らなかった凪の経済状況を父は気にしているらしかった。帰る余裕がなかったわけではない。入学してすぐに見つけた家庭教師と塾の講師のバイト、それから奨学金のお陰で、生活にはわずかではあるけれど余裕があった。連休に実家に帰らなかったのは後ろめたさと、悠文と会うためだった。
凪は野菜を冷蔵庫に入れ、米を米櫃に移した。手紙は机の引き出しの一番奥にしまい、三万円は財布に入れた。それだけのことなのに、ひとつひとつの動作は胸を痛ませた。信仰には疑問を持っているし、あの街は嫌いだった。けれど凪にとって父と兄が大事な家族であることに変わりはなかった。裏切りたくはない。もしできるのなら、裏切りたくなかった。本当は。
「……」
荷物を仕舞い終えて再び空っぽに戻った部屋に、今度は携帯電話のバイブレーション音が響き渡った。それはチャイムの音に少し似ていた。凪は肩を震わせ、机の上に置いたままの携帯電話を手に取った。折り畳み式の電話を開き、ディスプレイを確認する。電話の相手は悠文だった。もっとも、休日の朝に電話をかけてくるような親しい友人は悠文しかいないのだけれど。
「……もしもし?」
「あ、紺野? 俺。寝てたか?」
「寝てたかって……だってもう十時だよ」
凪がそう答えると、悠文は小さく笑って、それがこめかみの辺りをざわつかせた。
「お前のそういうところ、いいよな」
「え?」
意味もわからずに跳ねた胸を押さえ、凪は聞き返した。悠文はまた笑って、何でもない、と言った。
「こないだ話してた映画、レンタルあったから借りてきた。暇なら家来いよ」
「……今から?」
悠文の家には何度か行っているけれど、毎回心の準備が必要だった。なにせ好きな相手と閉じられた空間に二人きりになるのだ。いつもは大抵夜に呼ばれるので、凪は毎回アルコールの摂取によって感情を誤魔化した。悠文に教えられて初めて酒を飲むまで全く知らなかったことだけれど、凪はどうやら下戸らしかった。ビールをちびちびと時間をかけて飲むのがやっとで、それでもグラス半分も飲むと目が回る。お陰で悠文と二人きりになってもおかしなことになる前に眠ってしまうことができた。けれどこの時間ではそういうわけにもいかない。
「何か予定ある?」
「……夕方から、バイト」
「じゃあ、それまで家いればいいじゃん。家から行けよ」
凪は少し迷ったけれど、結局断れずに今から向かうことを約束して電話を切った。ディスプレイが沈黙すると途端に後悔が顔を出す。悠文のことを好きな気持ちが日に日に大きくなっていっているし、今は父からの手紙で気弱になっている。けれど、悠文の顔を思い浮かべると会いたさは簡単に凪の身体中に染み入った。凪は溜息を吐き、立ち上がって窓を閉めた。
外に出ると、不快な熱気に身体全体が包まれた。まだ十時だというのにアスファルトも焼け付いている。間違いなく今年一番の夏日だろう。Tシャツ一枚で出てきてよかったと思う。本当に東京の夏は息苦しい。
悠文の家は凪のアパートから歩いて二十分ほどのところにあるまだ新しいマンションだった。明らかに学生向けではない二DKの部屋は、凪の六畳間とは完全に異空間だった。親戚の持ち物で安く借りられているのだという。一度酒に酔った悠文に冗談混じりにシェアを勧められたときには困った。あの時もし首を縦に振ってしまっていたら、大変なことになっていただろう。悠文はあくまで弟のような存在として凪をかわいがってくれている。それを嬉しいと思うし、もがくほどに苦しいとも思う。矛盾の連鎖がいつまでも続いていく。
薄く汗を掻いて玄関先に立った凪を、悠文はいつものように迎えてくれた。おみやげにと思いつきで買ったまんじゅうを渡すと、それを笑いながら受け取る。
「俺、初めてまんじゅう土産にもらったかもしんない」
「え?」
「いい、何でもない。俺、まんじゅう好きだからさ」
玄関に立ったまま箱を開け、まんじゅうをひとつ齧りながら悠文は言った。行儀の悪さすら彼らしさとして魅力的に映る。自分がおかしいのか、彼が特別なのか、よくわからない。
「緑茶……がいいんだろな。ないけど。ウーロンでいい?」
「……何でも」
「座ってな」
悠文は凪をリビングのソファに促して、キッチンに入っていった。リビングはエアコンが効いていて外の暑さが幻だったかのように涼しかった。薄いカーテン越しの光は随分と淡い。つ、と光を滑らせるフローリング。柔らかな輝きを見せる家具たち。それらはこの部屋をいつもとは別物に見せた。
「何きょろきょろしてんだよ」
氷がたっぷりと浮かぶ烏龍茶の入ったグラスを二つと、まんじゅうの箱、ポテトチップスの大きな袋。それらを器用に持った悠文がリビングに戻ってきた。凪はソファに座り直して、首を横に振った。
「エアコンあっていいなと……思って」
「は? ないの?」
「扇風機すらない」
悠文は信じられない、といった風に目を丸くして、ローテーブルの上にグラスとお菓子を置き凪の隣に座った。空気が揺らぐ。振動は胸の表面からごく内側の中心に届き、熱と痛みとを生む。
「お前ん家って行ったことないけど……本郷だったよな?」
「来ない方がいい。っていうか、多分有馬さん入れないと思うよ」
「名前がナントカ荘、みたいな?」
「そう。ひばり荘」
「マジかよ」
「うん」
「……うーん……まぁ、俺ガキの頃ボーイスカウトだったから大丈夫」
「さすがにテントよりは……いくらかまし……と思うけど」
「馬鹿、冗談だよ」
凪が目を伏せると、悠文は少し慌てた様子で言った。それから溜息を吐いて、テーブルの上のポテトチップスの袋を破った。
「って言っても、今時エアコンもないなんてさ……レポートも書けないだろ、汗で」
「……図書館でやるから」
悠文は呆れた様子でポテトチップスを口に運んだ。凪は居た堪れなくなり、烏龍茶を一口飲んだ。冷たい液体が真っ直ぐに身体を抜けた。
「だから家来ればって言ったのに。今時シェアなんか珍しくないし、家賃どうせ親が払ってんだし」
「っ……」
凪は驚いて思わずグラスを落としそうになった。手のひらを滑るそれを寸前のところでしっかりと掴み直し、息を吐く。
「お前が嫌だって言うから」
「……そんなこと……言ってないよ」
「そんなの悪いとか、バイトで夜遅いからとかもごもご言ってさ、遠まわしに嫌だって言ってるようなもんだろ」
「……、」
凪は困って言葉に詰まった。否定すればシェアの話が成立してしまうかもしれない。かといって肯定もできない。
「まぁ、いいけど。紺野って器用そうだし、家事も得意そうだから家いてくれればいいのにと思ってさ」
「…そんなに得意じゃないよ」
「そうか?まぁ、いいよ、住まなくてもレポートは家で書けばいいし。ついでに飯作って」
「……」
無言で悠文の方を見ると、悠文は白い歯を見せて屈託なく笑った。隣にいる男が本当は自分が好きだなんて、何も疑っていないという顔だ。それはごく自然な考え方だ。普通の男はいくら仲が良い男友達だって相手が自分のことを恋愛対象として見ているかもしれないだなんて考えない。それが普通で、自然な思考だ。
「……と、そうだ。映画。ほら、これだろ」
悠文はテーブルの上に置いてあったDVDを手にとって凪に見せた。ドイツの映画で、日本では単館上映だったものだ。上映はまだ実家に住んでいた頃のことだったので観に行くことができず、DVDを観る環境もなかった。大学のパソコンで観ようかと思っていることを悠文に話したので、わざわざ探してくれたようだった。悠文の部屋には立派なテレビとデッキがあった。
「わざわざ、探してくれたの?」
「たまたま目についたんだよ。で、紺野が観たがってたの思い出した」
「……うん……観たかったやつ。ありがとう」
凪が素直にそう言うと、悠文は少し照れたようだった。それを隠すようにして立ち上がり、DVDをデッキにセットする。やたらボタンのたくさんついたリモコンを操作すると、すぐに画面が青くなって初めの注意書きの白い文字が浮かんだ。
「……先言っとくけど、寝るかもしんない」
ソファに戻った悠文がまんじゅうに手を伸ばしながらすでに眠そうな声で言った。凪は手にしたままだったグラスをテーブルの上に置いた。グラスは薄く水滴を浮かべていた。
「……寝てないの?」
「レポート書いてたら朝だった」
「……え……じゃ……何で俺に電話……?」
「んー……?」
「……オレ呼ぶより、寝た方がよかったんじゃないのかなと……思って……」
「だって、観たかったんだろ?」
「……そうだけど」
「観たがってたな…と思って…そしたら電話してた…………あ、だめだ……わりぃ……腹膨らんだらほんとに眠くなってきた……」
まんじゅうを二つとポテトチップスを数枚。それらは悠文の眠気を一気に引きずり出したらしかった。声が掠れ、頭がふらふらと揺らぐ。
「オレ帰るから、ちゃんと寝た方が……」
「いいって……いろよ……えいが……みてれば……」
「……有馬さん」
「ん……」
悠文にはもうほとんど凪の声も届かない様子で、静かな寝息と共に身体が凪の肩に寄りかかった。一瞬、息が詰まる。触れた個所がざわつき、血液の流れを速くする。エアコンの効いた部屋の中で、悠文の柔らかな体温がリアルだった。それは、過ぎるほどに。
「っ……、」
凪は動けなくなって、身体を強張らせた。悠文はもう眠りについてしまったらしい。テレビにはもう本編が映し出されているのに、心臓の音で全く内容が聴こえてこない。映像も脳が処理しきれない。こんなに近くで他人と、それも好きな相手と触れたことはない。面積を拡げたいという衝動を、凪は必死で抑えた。
悠文の顔の造りが好きだと、初めは単純にそう思った。具体的な好みというものを持っていたわけではなかったけれど、悠文の顔を見た時にああ、これが理想だったんだとそう思った。話をしている内に、どんどん好きになった。面倒見がよくて、優しくて、実は気を遣う人で。ドアを足で閉めたり目玉焼きをフライパンから直接食べたりというような、時折見せるごく小さなラフさも、とても好きになった。人を好きになる時、どこかにこれ以上は踏み込んではいけないという境界線のようなものがあって、ずっとそこで止めていられるのだと思っていた。そうしてきた。けれど今度はできなかった。止まない雨に泉の水が溢れ続けるように、きりがない。
悠文に寄りかかられた体勢に耐えられたのはほんの十分ほどで、悠文の呼吸が深くなったのを確認すると凪はそっと身体を避けて悠文をソファに横たえた。掛けるものがなかったので代わりにエアコンの設定を上げて、ソファのすぐ傍の床に腰を下ろす。エアコンの風が穏やかになり、左耳を悠文の寝息が震わせた。映画は静かに進行している。けれど内容はもうまるで頭に入っていない。
「……」
テレビに目は向かず、凪はそっと顔を傾けて悠文の寝顔に見入った。安心しきった、穏やかな寝顔だ。顔が熱いのは、エアコンの温度を上げたせいか、身体のどこかにある発熱工場の仕業か、よくわからない。感覚が鋭くなって、首に触れるロザリオの珠を鬱陶しく思う。教会には一度も行っていないのに、父と兄の顔を思い浮かべると外せなかった。罪悪感は募り、それなのに悠文に惹かれていく。彼はごく普通の人で、それでも傍にいたいと思ったはずだったのに。
思考までが遠のき、凪の手は引き寄せられるようにして悠文の髪に触れた。指先に痺れを感じる。それは斥力なのかもしれないと思う。生まれた時からこの業を背負ってきたことに対する、反発の力。けれど表面でいくら拒絶しようとしたところで、何の意味があるというのだろう。本質を変えられないのなら意味がないのに。
徐々に痺れが強くなり、凪はますます悠文に引き寄せられた。すぐ傍で彼の穏やかな寝息を聞いていると、力が抜けていくような気がする。今までずっと気を張ってきたことが全て解放されてしまう。
「…………、」
気が付いた時には悠文の静かな寝息を唇ごと塞いでしまっていた。初めて触れた熱が感情を加速させたのかもしれない。熱に浮かれて、まともにいられなくなっている。
「ん……?」
すぐに離れなければと思ったのにできなかった。数秒のキスは、凪にとって短くも長くもあった。悠文が違和感に声を上げたのを聞いて、ようやく魔法が解けたように身体を離した。
「……え?」
短い距離を取った後で、目を覚ました悠文と視線がぶつかった。悠文は状況を把握しきれていないようだったけれど、瞳ははっきりと困惑を示していた。キスされたことに気がついていることは確かだ。ただ、それを頭の中でどう処理すればいいかわからないようだった。
「っ……」
身体中の血液が逆流するような感覚だった。凪は自分のしたことに改めて驚いて目を瞠った。悠文が凪の釈明を待っている。けれど何も説明できそうになかった。
「……ごめんなさい」
それだけを呟くのがやっとで、凪は立ち上がり部屋を飛び出した。振り返ることなんて到底できなかった。
外はかなり蒸して暑かった。エアコンの効いた部屋にいたので尚更そう感じる。凪はマンションをでて五分ほど走ったところで暑さと動悸とで苦しくなって立ち止まった。手が震えている。触れてしまった。触れてはいけなかったのに。彼は自分とは違う人なのに。好きになってしまってはいけなかった。
「っ……」
痛みが強くなり、凪は自然と胸のロザリオを握りしめていた。引きちぎりたい衝動に駆られている。もう限界だ。もう。
「……」
凪は深呼吸をし、空を仰いだ。晴れているのにグレーがかった空。東京の空だ。一瞬だけ目を閉じて決意を固め、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し実家のナンバーを呼びだした。通話ボタンは軽かった。こんなに簡単に押すことができるものだと、知らなかった。
「――紺野ですが」
四回半のコールの後で父が電話に出た。胸は痛み続けている。でもこれ以上続けていたらきっと自分は壊れてしまうから。
「……父ちゃん。凪」
「凪? どうしだ。急に」
父は驚いているようだった。無理もない。こちらから電話を掛けたことは一度もなかった。
「あぁ、荷物、届いたが?」
「届いだ。ありがと……やが、用件はそうじゃなが」
「どうしだんだ」
「……父ちゃん、ごめん」
「凪?」
凪は拳を握りしめて、息を吸い込んだ。
「こっちさ来て一回も教会行ってねがった。お祈りもせん。オレ、男が好きだ」
「……、」
電話口で父が息を呑む気配があった。今言わなくてはならないと思った。そうしなければこの先立っていることができないと思った。自分は立って、歩かなければならないのだ。強く。
「嘘でも冗談でもねぇ。ずっと言えんがった。でももう限界やが。オレ、神様には祈れん。信じられん」
「凪……! そんなの許さんが!」
「認めてくれなくても、いい。仕送りももういらん。奨学金があるし、バイトも見つげだ。一番になれば、学費も免除される。オレ、頑張る。ここで一番なって建築家になる。もう家には帰らん」
「……」
「……やが……ごめん……父ちゃん……」
「…………」
沈黙の後で電話を切ったのは父の方だった。もう何も言えない、そんな感じだった。ショックだったのだろうと思う。当然だ。十八年間信じた息子に裏切られた。
「……うっ」
通話が切れたことを音で知らされると、瞬間、凪はひどい喪失感に襲われた。強くいようとそう決めたばかりだったのに、この場に立っているのも困難なほど息が苦しい。
携帯電話を閉じて、ロザリオを剥ぐ。小学生になる頃に父に買い与えられた。深いブルーの珠の連なりに、シルバーの十字架。神様が見ている。父はそう言った。いつも見守ってくれている。だから安心して祈れ。必死に信じようとして、けれどできなかった。見る度に自分の運命を呪った。自分らしく生きることも死を選ぶことも許されないなんて。堪らずにすぐ傍のごみ箱にそれを押し込む。重みは残った。それでも、そうするべきだった。だって、どうしても抗えない運命を知ってしまった。
凪はふらつく足でどうにか自分のアパートを目指して歩き出した。
太陽の熱は胸の傷を化膿させる。けれどそれでも、歩かなければならない。わかっている。
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