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第3話

雨の少ない梅雨は境界もあやふやなままに終わりが告げられ、世界は完璧な夏に包まれた。二カ月近い時間を、凪はとにかくがむしゃらに過ごした。全ての講義に出て、課題をこなし、残った時間は全て勉強かアルバイトのシフトで埋めた。お陰で入学して最初の試験では学科で一番の成績を取り、次の学期の学費免除の権利を得た。それにひたすらに働いたのでお金も貯めることができそうだ。はたから見れば、それなりに充実した二カ月かもしれない。けれど凪はほとんど空っぽのような気分だった。 あれ以来、悠文からも父からも連絡はない。それは当り前のことなのに、受け入れるのは凪にとって簡単なことではなかった。ずっと抱えてきたものを発散させてしまったことへの解放感などまるでなく、ただ重い澱だけが残った。想像していなかったわけではない。ただ、実際にその時を迎えてみると思っていた以上に澱は心の体積を埋める。心の中でどれほど受け入れられることを願っていたのかを思い知る。そんなことはあり得ないとわかっていながら、それでも願っていた。自分という存在、父と兄と過ごした短くはない時間。それらは不確かなものだった。 「――紺野先生」 空っぽの身体に振動が走った。いつもの倍以上の処理速度で神経が情報を脳に伝え、凪は振り向く。今日は塾のアルバイトの日で、今しがた最後の講義を終えたところだった。週に三日、中高生を相手に数学と英語を教えている。規模はそう大きくない塾だけれど、時給は悪くなかった。声を掛けてきたのは塾長だ。四十代くらいの女性で、見た目も中身も几帳面な人だった。 「あ……はい」 凪は小さな声で返事をした。生気のない声に塾長が眉を顰める。 「随分顔色が悪いけど、大丈夫?」 「すみません……大丈夫です」 大丈夫なはずがない。脳裏に浮かんだ反論を呑みこんで姿勢を正す。 「そう……?」 「本当に。あの……何か……?」 「ああ、ええ、そう。紺野先生の講義はわかりやすいって生徒たちからも評判なのだけれど……少しね、声が小さくて聞き取りにくいらしいのよ」 「……はぁ」 「まだ慣れていないでしょうし、あまり気に病まなくてもいいのだけれど、少し意識して貰えるかしら」 「気をつけます。すみません」 「いいわ。講義の内容自体は本当に評判がいいの。特に女子生徒からは、すごい人気があるわよ」 「……」 塾長はフォローのつもりらしく、明るい声で言って目配せをした。けれどもちろん凪にとってそれは慰めなどにはならない。むしろ最悪に近い気分になった。 「あ、もちろん、女子生徒に手を出すようなことは……、」 「あり得ません。死んでも」 男子生徒なら、まだしも。また余計な一言を思い浮かべて、凪はそれを払拭するように短く息を吐いた。 「……そ、そう。ならいいわ。お疲れ様」 凪のきっぱりとした強い口調に塾長はややたじろいだ様子でその場を立ち去った。凪は眩暈を覚え、すぐ傍にある休憩用のソファに腰を下ろした。痛みの波が寄せる。気を抜くと泣いてしまいそうだ。涙が出るのかどうか、わからないけれど。ここ最近まともな食事を摂った記憶がない。父から送られてきた野菜はとっくに腐らせて、それ以来インスタント食品以外のものを買ってすらいない。塾長に言われる前にも何人かに顔色の悪さを指摘されたし、実際、身体は熱っぽくひどく重かった。 普通に異性を愛することができたなら。塾長の念押しに少しでも動揺することができたのなら。知らなくていい痛みだった。もっと自分を好きでいられた。悠文ともきっと長く続くいい友人になれた。得るものは少なく、失うものは多過ぎる。大切なものたちを失っていくのに、失った後もそれらの重みが残り、蓄積される。それに耐えて一人で立っていることがこんなに苦しいなんて。 「……、」 凪は気力を振り絞って立ち上がり、着替えるためにふらふらと教官室へと向かった。 この二カ月を歩き続けるために、凪は建築家になるという目標をそれまで以上に強く自分自身に掲げた。自分にはまだ夢があるから、だから、まだ立っていられる。父に連れられて見たあの建物の美しさを何度も何度も頭の中で反芻した。まだ、自分の人生には意味がある。だから大丈夫。 逆を言えばそうしなければ立っていられなかった。自分がこんなに弱いのだということも知らなかった。東京に来る前から、悠文に出会う前から、ずっと孤独を感じていたし夢だけが全てだと思っていたはずなのに。 塾から家までの三十分の距離は随分長く感じられた。精神と同じくらい身体が限界に近付いている。歩いている内にみるみる熱が出てくるのがわかった。夜の空気との境界が揺らぐのを感じながらどうにか家に辿り着き、布団の上に倒れ込む。東京の夏の夜はひどく蒸す。もう十時だというのに三十度を越えている。けれど窓を開ける気力がなく、凪はそのまま目を閉じた。関節が痛い。免疫力が落ちているのだろう。何か口に入れることが必要だと脳が必死で呼び掛けているのに身体が動かない。部屋に着いて布団に入ったことで気が緩んでいるせいで、このまま死んでしまえればそれもいいのかもしれない、なんて、そんなことまで考えた。 「――……、」 結局身体を動かすことはできそうになく、とりあえず眠ってしまおうと思っていると、不意にチャイムの音が鳴った。何度聞いてもやっぱり不細工な音だ。そんな感想を思い浮かべているうちにもう一度チャイムが鳴る。父からの仕送りはもう来ない。新聞か宗教の勧誘員だろう。 「紺野!」 今度はチャイムではなく直接ドアを叩く音だった。それと、聞き覚えのある声。凪は驚いて目を開け、ドアの方を見た。 「俺、有馬。開けろよ」 「…………」 凪は重い身体をどうにか起こし、迷った末に立ちあがった。怖いと思うのにぎりぎりと熱い感情が不安を覆ってしまう。手が震えているし、音が遠くて耳鳴りもしている。 ドアに手を掛け、ノブを回す。玄関の前に立った悠文は凪の顔を気まずげに見上げた。 「有馬さ……」 悠文の顔を見た途端、身体に力が入らなくなった。その場でよろけると、悠文が驚いた様子で目を瞠った。 「っ大丈夫かよ!?」 「……へいき」 「平気って……顔真っ青じゃねぇかよ……」 「平気だよ……それより……、」 どうしてここに。何のために。凪はそう問うことができなかった。言葉に詰まって俯く。悠文が溜息を吐く気配があった。 「……上がってもいいか」 「……」 「上がるぞ」 悠文はそう言って部屋に入り、凪のすぐ傍に腰を下ろした。身体が縮こまる。緊張と熱による悪寒でどうにかなりそうだ。 「風邪?」 「……わからない」 「そ……」 空気が凍る。こんなに暑い夜なのに。気まずさが空気を凍らせて次々に結合し合って大きくなっていくのがわかった。悠文はしばらく落ち着かなそうにしていたけれど、やがて覚悟を決めるように短く息を吐いた。 「……ずっと、考えてた」 「何を」 「素面のお前が真昼間にいきなりキスして、顔赤くしたり青くしたりして飛び出して行ったことについて」 「……」 「色々考えたけど、ここだけはっきりさせないと先進まねぇ。お前ホモなの?」 きっと彼は言い回しをどうするべきか、ひどく悩んだに違いない。遠回しなものを考えて、けれどそんなものは無意味だと気が付いた。どこか投げやりで、少し辛そうな直接的な問いかけはそれを示唆していた。凪は苦しさを包むようにそっと膝を抱えた。 「…………うん」 悠文が目を伏せる。 「そ……っか……いや、そうだよな。そうなんだろうって……思った」 「……何で来たの?」 痛みの足音がする。さっきは聞けなかったことを、今度は聞けた。心の防衛機能がそうさせたのだと思う。これ以上傷つきたくない。 「オレ、熱あるし……頭ん中ぐちゃぐちゃだよ。経験もないし……こんな時どうしたらいいかわかんない。駆け引きなんかできない。だから……こんなことされても、期待しかしないよ」 「……、」 「帰った方がいいよ」 顔を背けて身体を小さく丸める。傷つくとわかっているのに、一方で熱の波は広がっていく。広がれば広がるほど痛みも大きくなるのに。 「帰りなよ」 「……帰らない」 語気を強めると、同じくらい強い口調で悠文が言った。ぐらぐらと湧き立つ思いを抑えられない。 「考えてたんだよ……二カ月も、ずっと考えてた……考えて……だけど、やっぱりどう考えても俺は……どんなに可愛い顔してても、女みたいでも……男を好きだとは思えない」 「……」 「……けど……だから…………結局、紺野が特別なんだってところにしか……行き着かなかった。いくら考えても、どう否定しようと思っても、お前を拒絶することができそうになかった。だから来た」 頑なに硬直していた身体が動き、凪は悠文を見た。凪が目を丸くしているのを見て悠文はそっと笑みを浮かべた。困ったように眉を下げて。 「だから、帰らない」 「っ……」 緊張が緩んだのか、いきなり涙が零れてしまった。はらはらと頬を伝う。困惑と混乱で思考はほとんど停止状態なのに、悠文の言葉がしっかりと胸を熱くさせていた。 「泣くなよ、馬鹿」 悠文はまた笑って、凪を抱きしめた。悠文の匂い、感触にますます涙が溢れ出る。 「……っ」 「泣くなってば」 「っひ……う……」 「馬鹿だな……」 「だ……って……オレ……っ……も…本当に一人になったと……おもって……」 「紺野……」 「……兄ちゃん……神父で……父ちゃんも……クリスチャンで……オレだけ……オレだけが……神様を信じられない……っ」 「……」 「だから……だめだって……わかってたのに……オレは……」 「だめじゃねぇよ」 「っ……」 「だめじゃない」 悠文は凪を抱きしめる腕に力を込めて、それからそっと凪にキスをした。熱に浮かされた頭でもそれははっきりとわかった。人生で二度目のキスだ。悠文は凪の目元を濡らす涙を指で拭って微笑んだ。 「お前の家族の分まで、俺がそばにいる。だから安心してな」 「……あ……りまさ……」 「熱、下がったら、いっぱいキスしような」 涙を止めることは到底無理だった。今度は凪が悠文を力いっぱい抱きしめて、悠文が腕の中でちょっと苦しい、と呟いた。それでも力を加減することはできなかった。凪は悠文を抱きしめながら泣き続けた。汗と涙でぐちゃぐちゃになっても、それでも離すことができなかった。一生、離すことなどできない。そう思った。本気だった。

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