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第4話

一週間寝込み、熱が引くと凪はすぐに悠文のマンションに移って二人で暮らし始めた。性急だったのかもしれないけれど、二人にとっては違和感のない行動だった。まるで朝目を覚ますように、自然に。そうすることが生まれた時から決まっていたみたいに。 悠文は本当に凪を大切に思ってくれたし、凪もまた、悠文を心から愛した。二人で交わす言葉も、共有する空気も、抱き合って過ごす夜も、隣で目覚める朝も。全てが特別で、愛おしく思えた。本当に大切だった。一秒一秒をとても意味のある時に感じて、その流れの速さに時折怖くなって、彼を抱きしめる。悠文はいつも大丈夫だと笑った。もう凪は一人じゃないんだから、と、そう。 悠文と付き合い始めて二年目の夏休みのことだった。とても暑い夏で、エアコンの効いた部屋から出ることも億劫なほどだった。することもなく暇で、どちらかが提案して二人で設計図を描いて模型の家を組み立てた。凪が大まかな間取りを考え、そこに悠文が色々と注文をつけた。男が二人立っても狭く感じないようにキッチンはカウンターよりもアイランドがいいとか、喧嘩した時に一人になれる部屋も必要だとか、特に話し合ったわけでもないのに、自然とそれは二人で住むことを前提とした家だった。吹き抜けのリビングダイニングに、小さなバルコニー、青いバスタブのバスルーム、ダブルベッドのベッドルームに、喧嘩の反省用のオーディオルーム。悠文の愛する家具たち。遊びの延長だということも忘れて、凪は真剣に図面を引き、画用紙で模型を組み立てた。数日かけて出来上がった模型に二人とも満足し、それを見ながらビールを飲んで、こんな家に本当に住めたらいいと笑い合った。まだ学生だった凪の造った模型は今思えば未熟で荒が目立っていた。けれどそれは確かに二人の大事な宝物だった。確かに。 「――……」 空腹を感じて目を開けると、ざわめきが大きくなったのがわかった。時計を確認する。まだ昼過ぎだ。時間の進みが遅い。 森が床に落としたあの模型を、ここに来る前に棄ててきた。悠文との関係が終わった後、八年間ずっと、いつも傍に置いていた。コンペに出して区切りを付けたと思った後も。それは確かに凪が悠文を愛した日々の証拠で、失くしてしまえばあの日々もなくなってしまうような気がした。悠文の幸せを思いながらも、柔らかな風に包まれたあの毎日を忘れてしまいたくはなかった。森を傷つけたのだとはっきり自覚して、初めて自然とそれを棄てようと思えた。過去の大切な思い出よりも、森の存在だけが今の凪には全てなのだとようやく気が付いた。それは凪にとってはとても大きなことだったはずなのに。 「……」 空っぽの胃が頼りない音を立てる。こんな時にも腹は減るのだと思うと何だか情けなくなって、凪はそっと溜息を零した。小さなボストンバッグを持って立ち上がる。すぐ傍に日本食のレストランがあった。 十八年間の鬱屈した日々が信じられないくらい、悠文との生活は楽しくて、安らかだった。幸せだった。そう思う。永遠に続くとすら信じていたけれど、でも、それは永遠じゃなかった。綻びが最初に顔を出したのは悠文が大学を卒業して就職した頃だ。大手のゼネコンの営業となった悠文は、入社してから急激に男と同棲している自分自身に追い詰められていった。周囲に男と付き合っていることなど到底言えなかっただろうし、彼女募集中だとも言えなかったのだろう。慣れない仕事に加え、毎日の残業、合コンに接待、好きでもないゴルフ。ストレスは日々溜め込まれて、まだ学生だった凪との衝突は目に見えて増えていった。悠文が疲れていることがわかっていても、凪には何もすることができなかった。話を聞いて、抱きしめてキスをしても、それが余計に悠文を苦しめる。それでも悠文から別れを切り出されることはなかった。彼は凪を愛してくれていた。悠文が苦しむ姿を見る度に凪はひどい痛みを覚えた。何もしてやれない自分に腹が立った。歯車が狂っていくのが目に見えて、どうにかしようともがくほどに悪循環に嵌まる。一緒に暮らした部屋に以前のような安らぎはなくなり、張り詰めた糸が二人から身動きを奪った。 東京に来て四年目の夏が終わろうとしている。陽の傾きが早くなり、蝉の声はもうまばらだ。研究室の製図用のデスクで図面と向き合いながら、凪は溜息を漏らした。図面の締切が二日後に迫っているというのに、出来に納得がいかない。具体的にどこを直せばいいのかはわからないけれど、どうもピンとこないという感じだ。凪は普段構想をきっちり練って完成を何度もイメージしてから図面に入る。ここまで納得できない出来になるのは珍しいことだった。 原因はわかっている。一週間前に悠文と大喧嘩をして、今もまだ気まずいままになっているせいだ。喧嘩のきっかけは小さなことで、今思えばどうでもいいようなことだった。どちらかが一言ごめんと言えればそれで終わるようなことだったのに、どちらもその言葉を紡ぐことができなかった。後悔しても、時が経つほどに何も言えなくなる。どうしてこんなことになったのだろう。悠文のことが好きなのに。出会って四度目の季節はもう終わってしまう。 「――の、……おい、紺野ってば」 ぼんやりと図面を眺めていた凪は、ふと声を掛けられたことに気付いて顔を上げた。同じ研究室の佐々木友治(ささきゆうじ)が呆れたような顔で凪を見ていた。 「ごめん……何?」 「なんっかいも呼んだんだけど」 「気付かなかった。ごめん」 「いいけどさ……図面と睨めっこなんかして……行き詰ってんの?」 「……まぁ」 友治はふぅん、と言って凪の図面を眺めて、それから苦い笑いを零した。 「全然いいじゃん、これ」 「……なんか、好きになれない」 「そっかぁ?俺これすごいいいと思うけどな」 「……それより、どうかした?」 「え、あぁ、そうだった。教授が呼んでるぞ」 「そう……わかった。ありがと」 溜息を吐いて立ち上がると、友治が励ますように凪の肩を軽く叩いた。凪は曖昧に笑みを返し、ゼミ室のすぐ傍にある教授室へと向かった。 ノックの後に部屋に入ると、担当教官である小松は凪の顔を見た途端に目を輝かせた。 「紺野! やったぞ!」 「……はい?」 「エクストリーメリーグッドニュースだ!」 普段どちらかといえば冷静な部類に入る小松は随分と興奮しているようだった。その様子に凪は面喰い、思わず顔を顰めた。小松が近寄ってきて、ばんばんと嬉しそうに凪の肩を叩く。 「……何事ですか?」 「金賞だ」 「え?」 「お前がこないだ出したコンペだよ。ほら、サッカーの競技場デザイン。獲ったんだよ、金賞! 一番だぞ!」 「……、」 三カ月ほど前に応募したアメリカで開催されたコンペのことだ。学生限定のコンペではあるものの、世界中の大学から応募が寄せられ、学生にとって登竜門の意味合いを持った大きなコンペだった。凪も小松の推薦を受けて出品したけれど、まさか入賞できるとは思っていなかった。それも金賞だなんて。 「馬鹿、ぼうっとしてる奴があるか! 喜べよ!」 「あ……すみません……驚いて」 「ああ、まぁ、そりゃそうだ。なんたってうちの大学じゃ有史以来初の快挙だぞ」 「はぁ……」 「来月授賞式に出るからな。パスポート準備しとけよ」 小松がまた凪の肩を叩く。少しずつ実感が湧いてくると、喜びと安堵に笑みが零れた。これで就職先には困らないはずだ。 「いやー、よかった。素晴らしい。おまけにまだいいニュースがある。聞きたいか?」 「……え……あ……はい」 「ニューヨークのプリストリー大のシュトロハイム教授から連絡があってな。お前をぜひ教授の研究室に呼びたいそうだ」 「……は?」 「向こうの院に進めるってことだよ」 凪は受賞のニュース以上に驚き目を瞠った。シュトロハイム教授といえば世界の第一線で活躍する建築家で、アメリカ建築界をリードする存在だ。建築に疎い人間でも名前は聞いたことのある人がほとんどだろう。それは間違いなく建築家を志す者ならば誰もが欲しがる未来だった。 「院……って……え?」 「教授があのコンペの作品に惚れこんで、どうしてもお前を自分で育てたくなったんだそうだ。安心しろ。費用は全額うちで持つ。実はもう学部長に話をつけてきた。ニューヨークで向こうの建築を目いっぱい学べるんだ」 「……、」 「シュトロハイムだぞ?二年修行すれば世界中の事務所がお前を欲しがるぞ!」 驚き過ぎていて、声もでない。頭の中が真っ白だ。 「紺野?」 「あ、いえ……」 「行くよな、もちろん」 凪は否定も肯定もすることができなかった。小松は勝手にその無言を肯定と受け取ったらしく、細かいことはまた後日決めるというようなことを言われ、凪は教授室を後にした。 建築家になることがずっと夢だった。父に連れられて美術館の前に立ったあの日から、ずっと。それだけを糧に生きてきた。悠文に出会うまでは。でも。 「……お、紺野。教授何だって?」 ゼミ室に戻ると友治が凪に声を掛けた。凪はまだ茫然としたままで、友治の顔すらうまく認識できなかった。 「紺野?」 「……なんでもない」 機械的な声で言って、デスクチェアに落ちるようにして腰を落とす。友治は不思議そうに首を傾げたけれど、それ以上の追及はなかった。 この半年は悠文のストレスも限界に近いところまで蓄積され、限りなく終わりに近いラインをのろのろと騙し騙し歩いていた。でも、それでも歩いてきた。それなのに。 「っ……」 心臓に鋭い痛みが走り、凪は思わず胸を押さえた。何よりも心を痛ませたのは、悠文と離れなければならないであろうという不安ではない。小松の話を聞いて咄嗟にニューヨークに行って学べることを喜んだ自分への失望だ。 悠文のことをただ愛しているのに。

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