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第5話
二日ぶりに帰る部屋はどこか寂しげに見えた。夜の空気は床と平行に凪いで、まるで住人を受け入れていないようだった。リビングの明かりを点けて肩に提げていたバッグと図面ケースを床に落とす。悠文がまだ帰っていないことに安堵したのだと思う。
おそらく悠文も帰らなかったに違いないと、凪は部屋の様子を見ながら確信していた。最後に会ったのは三日前の夜で、喧嘩の名残をお互いになくせないまま、ほとんど目も合わせられなかった。
「……、」
凪は荷物を引きずってテーブルの傍に置き、ソファに深く腰を下ろした。時計の針はそろそろ真上を指そうとしている。二日間細切れの仮眠を取りながら図面に没頭し、どうにか提出を済ませた。その間できるだけ確実に訪れる時のことは考えないようにしていた。もしかしたら突然、スコールが降るように自分の意思が変わるかもしれないと思ったし、それに期待していた。けれど変わらなかった。どうしても、アメリカに行かない未来を自分の中に描くことができなかった。悠文に判断を委ねることもできない。そんなことはさせられない。だから決意するしかなかった。
「…………」
エアコンを点ける気力もなく、籠った熱気が揺らめくのに、心臓が震えている。怖いし、不安だ。だって、自分はこんなにも悠文を愛しているのに。
「……っ」
重く溜息を零すと、玄関のドアが開く音が聞こえた。凪は震える胸を押さえつけ、深呼吸をした。
「……凪?」
リビングのドアが開けられて悠文の声が耳を揺らすと、空気の質が変わったのがわかった。お互いの緊張に強張って、空気は揺らめくこともできなくなってしまったようだ。
「……おかえりなさい」
ひどい胸の痛みを感じながら、凪はどうにか言葉を紡いだ。掠れた声に、それでも悠文は少しほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「……悪い……遅くなって……」
「オレも今帰ったとこだよ」
「……昨日も……帰れなかったし」
「……オレも……課題、やっと終わったんだ」
「そ……か」
悠文はまた安堵するように息を吐いた。いつもなら悠文は真っ先にエアコンを点けるのに、今日はそうせずにネクタイを緩めてキッチンから缶ビールを二本持ってきて凪に差し出した。いつもの悠文なら、自分から凪に酒を飲ませるようなことはしない。凪が極端にアルコールに弱いことを嫌というほど知っているからだ。でも今日は違う。
「いいの?」
悠文の行動に凪は少し驚いて、小さく笑いながらビールを受け取った。よく冷えている。冷たさが指先に染みた。
「明日休みなんだろ?」
「……うん」
「でも一口な。後は俺が飲むから」
「うん」
凪は素直に頷いて、プルトップを開けてビールをほんの少し、舐めるようにして飲んだ。缶ビール半分くらいの量なら飲めるけれど、今酔っ払ってしまうわけにもいかない。ただ、少しアルコールに力を借りたい気分でもあった。
「あちぃな……」
そう言いながらもエアコンのリモコンに手を伸ばすことはせず、悠文はスーツの上着を脱いでビールを煽りながらソファのオットマンに腰を下ろした。隣ではなく、凪の斜め向かい。それが今の距離ならば、思っていたよりは近いのかもしれない。そんなことをふと考えて、次の瞬間にとてつもなく苦しくなった。いつの間に、そんな風に思ってしまうようになったのだろう。まるで留学の話など関係ないみたいに。
「っ……」
缶を持つ手が震える。凪は気を落ちつけるようにゆっくりと呼吸をして、一口しか飲んでいないビールをローテーブルに置いた。
「……凪?」
「……悠文さん」
「何だよ」
「……オレ……悠文さんのこと好きだよ」
「……、」
悠文が戸惑い、言葉を詰まらせるのがわかった。もうこの言葉が彼の胸を甘く響かせることなんかなくて、ただ苦しませる一方だということはわかっているのに。
「ごめん」
「凪……」
ほんの少しのビールが体内に熱を巡らせている。こんなに苦しい思いをすることなんて考えてなかった。でも幸せに満ちた日々の記憶はもう遠かった。ゆっくりと息を吸い込んで、深く記憶を探るのに、うまく掴むことができなくなってしまった。
「……悠文さん、ジゼル・シュトロハイムって知ってる?」
「……え、あぁ……あれだろ、パリ美術館の設計した……」
「その人が、オレにニューヨークに来いって」
「……え?」
「プリストリー大の院に入らないかって誘われた……学費は大学が出してくれるんだ……うまく行けばそのままニューヨークの事務所で働けるかもしれない」
「……」
「オレ……行くよ」
声は震えも掠れもせず、はっきりと空間に響いた。部屋の中はとても静かだった。終わりを告げるのは自分しかなかった。悠文は絶対に自分から別れを切り出さない。そうすることにひどく罪の意識を覚えるから。それが凪にはわかる。わかっていた。だけどそれでも愛していた。
「……そ……か」
長い間を空けた後の悠文の反応に感情を見ることはできなかった。凪の精神的な容量がもういっぱいなせいかもしれないし、悠文がただ驚いているからかもしれない。いずれにせよ、それが終わりの合図であることはお互いが理解していた。
「……いつ?」
「来年の春。入学は九月だけど……半年間は語学学校に通うことになるだろうって」
「そう……そっか……すげぇじゃん。シュトロハイムに……プリストリー大って、超名門じゃんか……」
「……うん」
「そっか……」
「……うん。だから……もし……」
「……、」
「……もし……悠文さんがその方がよければ……すぐ引っ越すよ……」
今度は本当に驚いた様子で悠文は目を瞠らせた。それからそっと息を吐く。心臓が痛くて逃げだしてしまいそうだ。
「何で……」
「え?」
「……何でお前はいつも……そうやって一人で全部片付けようとするんだよ……」
「悠文さん……」
「凪が……俺が余裕なくしてるの気付いてるのも、それに責任感じてんのも、わかってんだよ」
「……」
「だからお前のせいじゃない。出てく必要なんかない」
「……、」
「だから…………だから出てくとか……言うな……」
悠文は俯き、振り絞るように言った。声は震えていて、涙が混じっている。凪は驚き、気付いた時には身体が自然と動いて悠文を抱きしめていた。四年間一緒に過ごしてきて、悠文が泣いている姿を見るのは初めてだった。
「悠文さん……」
「……っ」
「ごめん……」
「お前は悪くない……っだろ……俺が……、」
「……、」
「……俺がっ……ちゃんとしないから……っ」
絶え間なく響く悠文の嗚咽が、凪の胸を締めつけた。悠文が追い詰められていることはわかっていたけれど、実際に真の辺りにすると思っていた以上に辛い。凪の胸にしがみつく悠文はいつもより小さく見えて、それが彼の積もった苦しみの大きさを物語っていた。
気を抜くと自分まで泣きだしてしまいそうで、凪は必死にそれを堪えながら、悠文を抱きしめる腕に力を込めた。悠文はとても弱いし優しい。だから、絶対に自分から凪を突き放すようなことはできない。これでよかったと思わなければ、離れることなんか到底できない。悠文の疲弊が限界を越えてしまうその時まで。だから。
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