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第6話

季節が変わり、凪の出国が近付いた頃に悠文の見合い話が舞い込んだ。悠文がその話を受けると聞いた時、ショックを受ける一方で少し安堵している自分もいた。これで悠文はひとりにならないと思ったし、自分の罪悪感も少しは和らぐと思ったからだ。薄情なものだと思ったけれど、そんなことに構う余裕はなかった。ただ、別れの時が近付くにつれて強烈な抵抗の波に襲われた。離れたくないし、耐えられない。呼吸が止まってしまうのではないかと思うほどに強い感情の波だった。あの部屋を出るまでの半年間は、まるで以前の幸福な二人に戻ったように表面上は穏やかな生活だったけれど、あくまでそれはやがて訪れる別れありきのもので、凪は内心で何度も引き裂かれるような痛みを味わった。 「――……」 空腹を感じていたのに、食事が実際に目の前に運ばれるとまるで食べる気にならなかった。天ぷらの添えられた温かな蕎麦は、湯気をゆらめかせている。凪は無理矢理箸を取ってそれを一口啜った。懐かしい味に、痛みが増す。 別れるまで、悠文の前で弱音を吐いて泣いてしまうことはできなかった。そうなったら終いだという強い思いが凪の感情を支配していたからだ。自分が立ち止まって崩れてしまったら、今度こそ二人してどこにも進めなくなってしまう。強く立って、笑顔でさようならを言う必要があると、本気でそう信じていた。今ならばわかる。泣いて、本心を吐露するべきだった。仮にそうしていても、凪はアメリカに渡ったし悠文は結婚したに違いない。それはもう揺るぎのない未来だった。けれどそうできなかったせいで、自分はあの瞬間を思いながら八年間も時を止めてしまっていた。ずっと。 地下へと続くドアの前で、ドアマンにIDを見せる。プロの格闘家かと思うほどの立派な体格のドアマンはまだ取得して間もない免許証をじっくりと観察して、それを凪に返却しドアを開けた。緊張で肩が強張ってしまっている凪に、ドアマンが淡々とした声でHave a fun、と声を掛けた。 凪がニューヨークに渡ってからそろそろひと月が経とうとしている。引っ越しや語学学校への入学準備はようやく落ち着いたものの、慣れない街で拙い英語での生活に凪はすっかり疲弊していた。おまけに毎日悠文のことばかり考えている。何をしていても、気付くと手を止めて悠文と別れた日のことを考えてしまう。笑顔で背を向けた自分を責めて、今すぐに帰って抱きしめたいという衝動に震える。気付くと涙が零れていて、それはいつもなかなか止まらなかった。家族を失い、最愛の恋人も失った。全てを正直に話し、それを受け入れてくれるような友達もいない。凪はひどく孤独だった。 繋がったばかりのインターネットを使って、アパートから一番近いゲイの集まるバーを探した。今までゲイバーに行ったことは一度もなかったけれど、普通のバーに行く気はしなかった。無意識に誰かを求めていたのかもしれない。 地下に降りると、薄暗い店内はニューエイジ系のインスト曲が流れ、控えめなざわめきが音に乗っていた。一言にゲイバーといっても様々な種類があるけれど、凪が選んだ店は運よくとても静かな店だったようだ。 「――こんばんは」 カウンターに近付くと、中にいた白人のバーテンダーが凪に笑みを向けた。アジア人に対する差別も強くはなさそうだ。凪は少し安堵して、スツールを引いた。十席ほどのL字カウンターには数人の客が座り、各々酒を飲んだりフロアを物色したりしているようだった。 「あの……こんばんは……」 「初めてかしら? 若いわね。ちゃんとチェック通った?」 凪の一・五倍ほどありそうなたくましい腕を持つバーテンダーは、早口で特徴的なリズムの英語でそう言った。凪はどうにか聞きとれた単語を頭の中で必死で繋げて、再度免許証を差し出した。もう一度チェックが必要なのかもしれないと思ったからだ。 「いいわよ、エディに見せたんでしょ?」 「……エディ?」 「セキュリティーよ。入口にいたでしょ? 未成年入れたのコップにばれたら大変なんだから」 「えぇと……?」 「いいわ、もう」 彼は少し苛立った様子で凪に免許証を押し返した。凪はそれをポケットに戻して、手持無沙汰に辺りを見回した。やっぱり来るべきじゃなかったのかもしれない。そんなことを考える。 「旅行? どこから来たの?」 「……日本から……大学」 「留学生?」 凪が頷くと、彼は驚いたように目を瞠り、それから小さく笑った。 「わたし学校なんかろくに行かなかったから知らないけど、近頃の大学は言葉が通じなくても入れるわけ?」 またしても早口の英語だった。凪はうまく聞きとれなかったけれど、表情から察するに馬鹿にされたのだろうということは感じ取れた。 「あの……えぇと……すみません。俺まだ……来たばかりで……もう少し……ゆっくり話して貰えませんか……?」 「ジャパニーズのイングリッシュねって、言ったのよ」 「……あ……すみません」 「別にいいわ。お金払ってくれるなら問題ないし、よく見たらかわいい顔してるし。追い出したりしないわよ。何飲むの?」 バーテンダーは見かけに寄らず親切なようで、今度は凪にも聞きとれるくらいのスピードでそう聞いた。差し出されたメニューにゆっくり目を通す精神的余裕もなく、凪は目に付いビールを注文した。アルコールを飲むのはこちらに来てから初めてだ。 「いいわ。あなた本当に成人でしょうね?」 「……二十二」 「信じらんない。中学生って言われても納得しちゃうわよ」 彼は笑いながら慣れた手つきで冷えたグラスにビールを注ぎ凪に手渡した。凪はそれを受け取ってグラスの縁に口をつけてビールをちびりと飲んだ。全て飲み干すことは到底できないだろう。ほんの少しのアルコールで思考は揺らぎだす。 「わたしはジェリー。オーナーよ。あなた名前は?」 「……凪」 「スペルは?」 「え……と、N、A、G、H、I。ナギ」 「ナギ……うーん、ナギか。日本人の名前って難しいのよね」 「……はぁ」 「でもまぁ、わたし日本好きよ。スシはおいしいし。行ったことはないけど――あら、いらっしゃい」 また早口に戻ったジェリーは、ふと視線を入口の方に向けて笑みを浮かべた。凪もつられて振りかえると、まるでハリウッド映画の主役を張ることができそうなほど目立つ容姿の客が入口に立っている。彼は笑みを浮かべて軽く手を上げた。 「レイ、久しぶりね」 「うん。ちょっと仕事でミラノに行ってたんだよ」 「そう。ラッキーよ。かわいい日本人が来てる」 ジェリーがウィンクをすると、レイと呼ばれた男はふと凪の方を見た。近くで見ても整った顔だということがわかる。モデルかもしれない。目が合うと、にっこりと微笑まれる。 「ハイ。見ない顔だね。初めて?」 「はぁ……」 「ナギよ。ナギ、こっちはレイ。ソーホーのショップで働いてるわ。日本人が好きなの」 「最近の話だけどね。日本人は最高だよ」 レイはやや胡散臭くも見えるほどの爽やかさで白い歯を見せた。凪は少したじろいで、ビールのグラスに口をつけた。 「ナギは留学で来たんだって。でも英語が話せないのよ。口説くならゆっくりしゃべってあげて」 「ふぅん…大学生? ――あ、ジェリー、俺もビールちょうだい」 ジェリーははいはいと言って準備に向かった。レイの遠慮のない視線に戸惑いながらも、凪は懸命に単語を引っ張り出す。 「九月から……プリストリー大の院に」 「へぇ、偶然。俺もプリストリー大の出身なんだ。専攻は美術だったけど。君は?」 「建築」 「建築?」 「……ジゼル・シュトロハイム博士の研究室に……」 「マジかよ!」 レイは興奮した様子で声を大きくして、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。 「ジゼル・シュトロハイム!? 名誉教授の!? 俺大ファンだよ!」 「え……」 「建築科の友達が言ってたけど、研究室なんか名ばかりで実質学生なんかほとんど取らないんだろ? そこに日本人が入るなんて、信じられない!」 「なによ、レイ、大きな声出して」 ビアグラスを持ったジェリーが周囲を気にする仕草を見せながら、それをレイに差し出した。 「だって、すごいことなんだ。ジェリー、ナギに気に入られておけよ。将来絶対有名な建築家になるぜ?」 「あら、そうなの?」 「アメリカ人だって滅多に師事できない人だからね。ナギは相当優秀なんだ。だろ?」 「……どうかな。わからないけど」 「わからなくないよ。すごいに決まってる」 「レイがこんなに興奮してるんだからよっぽどすごいのね」 「ああ。俺がもし建築やっててシュトロハイムの下で学べるなら全部投げ打ってでも世界中どこでも行くね!」 「……」 まさに全てを失ってここにいる凪は何も言えなくなって俯いた。不意に脳裏に、手のひらに、悠文の顔や声や感触が蘇る。疲れているせいか、ごく少量のビールは思った以上に早く凪を酔わせていた。悠文の記憶の波に襲われるような感覚に、心臓がぐらぐらと震える。 「俺は服屋だけど、建築デザインはすごく好きなんだ。なぁ、よかったら部屋においでよ。色々話したいよ」 「レイらしくないわよ、その口説き方。スマートじゃないわ」 「そういう気分じゃない。吹っ飛んだ。俺は今憧れのスターに会ったファンの気分なんだよ」 「あら、でもナギは――ナギ?」 「っ……」 名前を呼ばれて顔を上げると、ジェリーとレイがぎょっとしたのがわかった。はたりと涙が一滴カウンターに零れて、その理由を察する。ひとたび自覚するともう止まらなかった。 「ちょっと……ナギ……?」 「大丈夫?」 「……っ」 凪は二人に掛けられた言葉に答えることもできずに固く目を閉じた。ぱたぱたと涙が落ちる音がする。二人が息を呑み戸惑う気配も、淡々と流れるピアノの旋律もはっきりと感じていて、それらが凪をこの場にぎりぎり留めている。もし一瞬時が止まるような何かが起きたら、今すぐ日本に帰ってしまいそうだ。悠文に会いたい。離れたくなかった。必然だったとわかっていても、あの時でなくともいつかは終わりが来ていたとしても、それでも。 会いたさで身体が壊れてしまいそうだ。

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