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第7話
八月のニューヨークの夜は、濁った熱気に包まれている。昼間の内に柔らかくなったアスファルトの奇妙な感覚にはまだ慣れない。悠文を失った現実にも、未だ苦しんでいる。ただ、この街で数カ月を過ごすうちに表面上は少なくとも何事もなかったかのように振舞えるようになったというだけだ。昼間は苦しみを押し込めて、時には笑いさえできて、夜、ひとりになると身を裂かれるような痛みに襲われる。その繰り返し。繰り返すことはできるのに、終わりにしてしまうことはできない。いい加減前に進もうと思うのに、そう強く思うほどにそれはうまくいかない。
夜だというのに眩暈を覚えるような暑さに、アパートまであと百メートルというところで凪は思わず立ち止った。語学学校の面接試験を控え、ここ数日は学校の自習室に籠る日々が続いている。エアコンの効き過ぎた室内に長くいたせいで余計に暑く感じるのかもしれない。疲労と喪失感による虚しさ。狭い歩道の端に整列した鉄製の車止めポールのひとつに寄りかかると、気が抜けたのかくしゃみが零れた。
「――……」
再び歩き出す気力を絞り出すことができずに狭い夜空を見上げる。東京の空も初めて見た時には驚いたけれど、ニューヨークも大概だ。空なんて当たり前に公平であるはずのものが、こんなにも不確かだなんて、小さな頃には知らなかったのに。
空を見上げたまま溜息を零すと、バッグの中で滅多に鳴らない携帯電話が震えた。学校や公共機関などに掛けることはたまにあるけれど、誰かから掛かってくることはほとんどなかった。
「……ハロー」
「わ、暗いな。大丈夫?」
「……レイ?」
着信画面を見ていなかった凪は少し驚いて聞き返した。ジェリーの店に何度か通ううちにレイとは親しくなって電話番号も交換していたけれど、実際に電話でやり取りをするのは初めてだった。
「うん。ナギ元気? 最近店で会わないから何してるかと思って」
「……来週インタビューがあるから勉強してた」
「あぁ、学校の? 何だ、日本に帰ったかと思った」
「……帰らないよ」
凪は身体を起こし、アパートへの道を再び歩き出しながらはっきりと言った。電話の向こうでレイが笑う。雑音が大きいので、どこか外にいるらしい。
「そっか。なぁ、ナギのアパートって確かウェストハーレムだったよな」
「……そうだけど」
「遊びに行ってもいい?」
「今から?」
「酒持ってく。ジェリーのとこ行こうかと思ったんだけど、そんな気分でもなくてさ。ナギと話したくなったんだ」
レイの提案は凪にはいささか唐突に思えた。まさか今更口説こうなどという話でないことはわかるけれど、凪は誰かとのこういう付き合い方に慣れていない。
「来週試験だって」
「インタビューだろ? 問題ないよ。ナギ、英語上手くなったじゃないか」
「そんなことないよ」
「何で。今だってちゃんと話してるのに」
「……」
「今リトルイタリーなんだ。ピザとチャイニーズ、どっちがいい?」
「……どっちでも」
凪が諦めて息を吐くと、レイは笑いながら近くまで行ったらまた電話するからといって電話を切ってしまった。ノイズがなくなって熱を帯びた夜の気配が戻ってくると、凪はまた溜息を吐いて、辿り着いたアパートの重いドアを引き開けた。本当は少し助かったと思っている。また一人で泣いてしまうのが今日はいつも以上に気重だった。
部屋のベルが鳴ったのは凪が帰ってから二十分後のことだった。凪がドアを開けると両手に紙袋を抱えたレイは笑みを浮かべた。
「ナギ、来たよ」
「……すごい荷物」
「ピザとディムサム迷っちゃって両方買ってきた」
「俺そんなに食えないよ」
「俺が食うよ。あとビールも。どうせナギ飲めないんだろ。あ、片方持って」
屈託なく笑うレイに凪は半ば呆れながらも荷物と彼を迎え入れた。紙袋はまだ温かい。
「外すごい暑いな。今年はむちゃくちゃだ」
「そうなの?」
「いつもはもうちょっとまし……ふぅん……ここがナギの部屋か」
レイは狭い部屋をぐるりと見回して、まるでおもちゃを前にした子供のように言った。シュトロハイム教授の厚意で安く提供してもらっているこのアパートは来月から通う大学のすぐ近くにあり、部屋は古いけれど広く、凪にとっては十分な設備が整っている。治安もアパートの周辺は思っていたより悪くない。難点は学生が多く住むアパートのために時折騒がしくなることくらいで、そんなことは凪にとっては小さな問題だった。
「ごめん、散らかってて」
「うん。すごく意外だ。ナギがハーレムっていうのも、意外だけど」
レイは正直に言って笑って見せた。凪はソファの上に散らばっていた本とノートたちを適当にどけてレイをそこに促した。引っ越してきてからもう数カ月が経つけれど、部屋の状況はあまり変わっていない。船便の段ボールもほとんどそのままの有様だ。片付ける気力がなかったし、片付いた部屋にもいたくなかった。レイはありがとうと言ってソファに座り、紙袋の中から食料を取り出した。
「教授の知り合いの持ち物なんだって。安く貸してくれてる」
「へぇ。まぁ、大学も近いし便利だな。俺も学生の頃この辺住んだことあるよ。シェアだったけど」
「セントラルパークも近いし、気に入ってる」
「そっか。あ、ビール買ってきた。やっぱりバドだよな」
「俺、味とかよくわからないよ」
初めて訪れた凪の部屋に興奮しているのか、レイは店で会う時よりもよくしゃべる。凪はキッチンへと入り、二人分のグラスを洗った。ペアでしか売っていなかったので仕方なく買ったのだけれど、こんなところで役に立つとは思わなかった。
グラスを持ってレイのところに戻ると、レイはソファから離れすぐ傍にあるシェルフの上をピザを齧りながらじっと見ていた。
「……何してんの?」
「これ、ナギが作ったの?」
「え……?」
レイが身体を避けてデスクの上を指差す。心臓がぎくりと痛み、グラスを持つ手が震えるのがわかった。レイが指差したのは悠文と一緒に考えて作ったあの模型だった。ニューヨークには部品にばらして持ってきて、いつか捨てようと思っていた。それなのにここに来てすぐの頃、堪え切れずに再度組み立ててしまったのだ。思えばニューヨークに送ってしまった時点でそれは自明のことだった。一度組み立ててしまうともう触れることすらできなくなって、それから自然とシェルフから目を背けるようになっていた。
「……ナギ?」
「あ……ごめん…………うん」
「これ、建築模型だろ?すごいな、ギャラリーに飾ってあるやつみたいだ。中も見れるの?」
「……まぁ」
「見たい」
レイはまた子供のように目を輝かせた。凪はゆっくりと深呼吸して、グラスをテーブルの上に置いてシェルフに近付いた。それだけのことで、目の奥が重く疼く。
「すごいな、こんな造り見たことないよ」
屋根部分を取り去って中を見せると、レイはますます興奮したように声を大きくした。
「この階段の造り最高だな。ロフトに繋がるんだ。ここはガラス?」
「……うん」
「いいな、この部屋。すごく好きだ」
「……あ……りがとう」
「俺ここ住みたい。ナギ、いつか建築家になったら俺にこの家設計してくれよ」
「……」
「ナギ?」
胸の痛みがもう限界に達している。凪はどうにか堪えて笑おうとしたのだけれど、それはあまりうまくいかなかった。
「俺も……住みたかったよ……」
「え?」
「俺だって……住みたかったよ。でもできない……無理なんだ」
「無理って……何で?」
凪はもうそれ以上模型に触れていることができなくなって、目を逸らすようにレイに寄りかかった。レイは驚いたように息を呑み、そっと凪の背中を撫でた。
「日本で……付き合ってた人と一緒に作った」
「……え」
「日本でもこっちでも……何度も捨てようって……思ったのに……捨てられなかった……大事な思い出で……大切過ぎて……忘れられないんだ。忘れたいのに……できないんだよ。別れたのに……もう住めないって……わかってるのに……」
「……何で別れちゃったんだよ。そんなに好きなら……そんなのおかしいだろ」
「そうするしかなかったんだよ! 悠文さんは弱い人だから……俺のためにニューヨークなんか来れないし、そんなことさせられない。それに俺だって夢を捨てられなかった……」
「ナギ……」
「しょうがなかったんだ。俺が選んだんだ。決めたんだ。それなのに……っどうしても忘れられない……」
「……ナギは馬鹿だ」
レイは歯を食いしばるようにそう呟き、それでも凪の身体を優しく抱きしめた。涙が零れて、凪はニューヨークに来て初めて誰かの温かさに触れたような気分になった。誰かに聞いてもらうことでいくらかは救われるのだということを身を以て痛感している。そうして思い出す。父親と決別した時、絶望の淵から悠文の手が凪を掬いあげてくれた。あんなに大切な人だったのに。失ってしまった。忘れられない。愛している。どうしても。
前に進まなければならないと、いつもこれ以上ないほど強く思っているのに。
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