8 / 10
第8話
四月にしては冷え込みの強い朝だった。凪はアパートを出ると、思わず寒さに身を縮めた。晴れてはいるものの気温は低い。このところ寒い日が続いている。冬の終わり、かすかな春を感じさせるような気温が続き、はっきりとした春を迎えられないうちに夏がやってくる。もう慣れたけれど、毎年少し寂しさを覚えもする。
語学学校を出た後に予定通りプリストリー大学の院に進み、凪はシュトロハイム教授の下で建築を学んだ。院を出てからはニューヨークにある建築事務所で実務を重ね、三年後にはアメリカの建築士の資格を取得した。運よくグリーンカードも取得することができた。国籍を移し、渡米から八年目を迎えた凪は脇目もふらずに仕事に没頭する日々を送っている。八年前にはまだ細い細い糸のように頼りなかった希望は徐々に現実味を持ち、凪の確かな糧となった。未だに思い出の模型を大切に抱え、新しい恋愛を始められないことだけを除けば、凪の人生は充実していた。
シュトロハイム教授の推薦を受けて働き始めた事務所は、大学を出てから引っ越したチェルシーのアパートから歩いて十分ほどのところにある。いつものように途中のカフェで熱いコーヒーとマフィンを買って出勤する。ニューヨークに来てあまり前向きに食事をおいしいと感じたことはなかったけれど、そこのマフィンだけは好きだ。
「――ナギ、おはよう。今日も早いな」
オフィスの入っているビルのエントランスで同僚のアレックスに声を掛けられた。ガラスの天井からは白い光が面となって射し込んで、眩しかった。
「アレックス、おはよう。午後の打ち合わせの資料がまだなんだ」
「問題ないね。俺なんか十時からの資料まだ手つかずだ」
アレックスがうんざりしたように項垂れ溜息を吐いた。彼は昨日深夜に凪がアパートに帰ろうとした時にはまだオフィスにいたので、おそらくほとんど寝ていないだろう。オフィスでは珍しいことではないけれど、年々きつくなる。
二人で他愛のない会話を交わしながら、エレベーターに乗り込んでオフィスに向かう。早朝のオフィスは閑散としていて、他の社員たちはまだ出社していないようだった。国内でも随一の依頼の幅の広さを持った、著名な事務所だ。名の通ったデザイナーもいる。個人邸宅からホテル、公共機関に至るまで、約二十名のデザイナーが時にはチームを組んで国内外の依頼に対応する。凪も今は数件の個人邸宅を担当すると共にスペインに新しく建設予定のホテル設計のプロジェクトへの参加が決まっていた。教授に強く勧められて決めた就職先ではあったけれど、今はこの職場をとても気に入っている。本当に死ぬほど忙しいけれど、それに助けられてもいる。余計なことを考える時間はない方がいい。
「そういえばさ、あれ、どうする?」
オフィスに着いて、自分の個室に入ろうとした凪をふとアレックスが呼びとめた。
「……あれって?」
「ほら、ベル・アッカー賞の応募。今月中にテッドにアブストラクト見せないと、推薦文書いて貰えないぞ」
ベル・アッカー賞とは建築士なら誰もが知る大きな建築賞だ。三年に一度開催される。五年以上の実務経験があれば誰でも応募することができ、凪も権利を持っている。比較的若い世代の応募が多く、入賞しただけでもかなり知名度を上げることができる。もちろんそれだけ審査は厳しく、予備選を抜けることすら困難だ。凪もいずれは応募するつもりでいたけれど、今年はまだ見送ろうと思っていたところだった。
「見送り、かな」
「何で。ナギならもしかしたらもしかするかもって、こないだテッドと話したとこだったんだけど」
テッドというのがこの事務所の代表で、二人のボスだ。彼はシュトロハイムの一番弟子で、ほとんどがネイティブのアメリカ人ばかりのこの事務所にナギを快く受け入れてくれた。
「どうかな……」
「でもナギ、ユニバーサル・アーキテクチャー賞獲ったんだろ? ベル・アッカーの選考にも有利だ」
「今はプリマヴェラホテルのプロジェクトで頭いっぱいだし……個人の依頼もあるから……」
「そんなこと言ってたら一生出せなくなるぞ」
「そうかもしれないけど」
「ま、俺も今年はパスしようと思ってるんだけど。ナギは出せよ。ライバルは少ない方がいい。ナギが獲ってから、次に俺が獲るから」
アレックスは冗談めかしてそう言い、凪の肩を軽く叩いた。凪は考えておくよ、とアレックスに伝え、自室に入った。デスクに向かって少し冷めてしまったコーヒーを飲み、マフィンを齧る。オフィスはいつもエアコンが効き過ぎていて、今朝ももう既に室内は暑いくらいだった。
デスクの上には仕上げを残した建築模型。打ち合わせでクライアントに提示する予定のものだ。五人家族のための郊外の一軒家。幸せそうに子供たちの部屋の希望を凪に説明する夫婦の姿が思い浮かんだ。悠文ももう家を購入して、妻と子供と幸せな家庭を築いているのだろうか。そう思うとやっぱり胸が痛くなるし辛い。もしかすると痛みは年々心臓から遠ざかっているのかもしれないけれど、どうしてもゼロにはならない。なくしてしまえない。
「……」
凪はコーヒーを啜って、重く溜息を吐いた。今はもう、昔ほどには生まれてきたことを後悔していない。夢を叶えて、日々次の目標が作られていくし、ゲイである自分を受け入れてくれる友人も持てた。楽しいと思える時間も増えた。傍らにいつも悠文への未練を抱えながら、それでも。模型を捨てるべきだし、悠文のことはもう忘れて新しい恋愛をするべきだと思う。いつも思っているし、ふとしたきっかけさえあればそうできるのではないかという気もしている。ただ、その瞬間に降りかかるショックを思うとなかなか踏み出せない。悠文のことを全て過去のことにしてしまった時、自分はまだ立っていられるだろうか。
凪はまた溜息を吐いて、マフィンの残りを口に放り込み模型の仕上げに取りかかった。ブラインドの隙間から射しこむ朝の光はまるでガラス片のように鋭く、室内の初夏のような温度とは馴染まなかった。
模型の仕上げと資料の作成に他の依頼の図面、ミーティング。やることは山ほどあり、朝の六時に出社したというのにあっという間に昼を迎えてしまった。いつものことではあるのだけれど、ふと集中を解いて時刻を確認した凪は思わず息を吐いた。オフィスではランチタイムの時間などは決まっておらず、ランチミーティングなどがなければ個人が好きに休憩を取ることができる。凪はパソコンのディスプレイから目を離し、腕を上方に伸ばして首を回した。枯れ葉を踏むような音が鳴りまた吐息が漏れる。ランチはどこにしようかなどと考えていると、不意にデスクの上のPHSが鳴った。仕事用に与えられているもので、内線も全てPHSでやり取りする。
「……ナギです」
「ナギ? ミシェルだけどあなた今まだオフィスにいる?」
電話に出ると、事務のミシェルがほっとしたように息を吐いた。
「いるけど、どうしたの?」
「あなたにお客様が見えてるわよ」
「クライアント? 一人?」
「そうみたい。一人だった」
「……みたいって……名前は?」
「聞きとれなかった。応接埋まってるから、ミーティングルームに通しておいたわ。三番よ」
「ミシェル……」
「ごめんなさい。コーヒー自分で淹れてね。ランチの約束遅れちゃうわ……あと、お客が来るならちゃんと部屋の予約取っておいてよね」
ミシェルは言うが早いか通話を切ってしまった。無機質な電子音を聞きながら、凪は顔を顰める。ミシェルは最近入ったばかりのアルバイトで、仕事ができないわけではないけれど、今のようにプライベートを優先し過ぎる欠点がある。定時を過ぎると風のようにいなくなってしまうので、事務処理をデザイナー自らやらなければならないことも増えた。
「……、」
凪は溜息をついてスケジュールを確認する。この時間にアポイントメントはない。急用だろうか。それにしても連絡がないというのは妙だけれど。凪はしばらく考えたけれど、やがて諦めて席を立った。ランチはすぐ近くのグローサリーのサンドウィッチで済ませることになりそうだ。パンがぱさぱさで、具が少ないと評判のサンドウィッチを思い浮かべ、思わず溜息を吐く。
オフィスで二人分のコーヒーを淹れ、凪はミーティングルームへと向かった。応接室に比べると簡素な造りにはなっているけれど、応接室が埋まっている時はクライアントをミーティングルームに通すことはよくある。凪はドアに刻まれたナンバーを確認してノックをし部屋へと入った。
「すみません、お待たせ……して……」
凪に背を向けて座っていた男性が振り向くと、凪は衝撃に目を見開いた。持っていたトレーが傾き、プラスチックのカップが足下に転がる。コーヒーが飛び散って凪の足にかかった。熱さは感じなかった。
「あ……、」
凪は慌ててカップを拾い上げたけれど、中身はもうほとんど空だった。白い床に黒い液体が広がっていく。
「……凪」
「父ちゃん……何で……」
凪を真っ直ぐに見つめる目は、確かに父であることを悟らせる。父は立ち上がり、凪の足元に広がるコーヒーをポケットから取り出したハンカチで拭いた。
「っ……父ちゃん、いいよ……待って、拭くの持ってくる……」
状況を把握できないまま凪はミーティングルームを飛び出し、パントリーに駆けこんだ。心臓の音が大きく響き、動揺が思考を停止させている。まさか、そんなはずはない。ここはニューヨークだし、父とは十年以上も前に決別したきりだ。けれど確かに父だった。年を取ったにしても、険しい表情も凪を不安にさせる真っ直ぐな目も、変わらない。
「っ……」
凪はペーパーナプキンを乱暴に掴んで握りしめた。父と最後に顔を合わせた日の記憶が蘇り、胸を押さえて歯を食いしばる。静けさに満ちた教会。慈愛に満ちたマリア像の表情、悲しげなキリストの目、凪にこれでもかというほど罪の意識を植え付けた十字架、そして父と兄の祈り。凪は自分の祈りをどこにも向けることができなかった。
冷静を掴むのには時間がかかった。凪は心臓の音が少し落ち着くのを待って、再びミーティングルームへと戻ることを決めた。二時にはクライアントが来てしまうし、それまでにやっておきたい仕事もある。父が何の目的で来たにせよ、仕事に支障を出すべきじゃない。それだけは絶対に嫌だ。
ドアを開けると、コーヒーは既に拭きとられていた。長机に向かい俯く父の前には濡れたハンカチが置かれている。
「……いいって……言ったのに……」
「おらの手拭いなんがどうでもいいが」
「……」
父の頑なさも変わらない。久々に聞く日本語の響きに身体の強張りが増す。凪は息を吐いて、ジーンズのポケットに入れていた自分のハンカチを父に差し出した。
「これ使って。返さなくていい。父ちゃんのは俺が処分しておく」
「……いらん」
唇を固く結び、父は首を横に振った。凪は仕方なくハンカチを元に戻し、父の向かい側の椅子を引いて座った。薄暗い部屋にはみるみる緊張の糸が張り巡らされていく。
「……どうして、俺がここにいるってわかったの」
「大学の先生に聞いたが。お前何も言わねぇで勝手にアメリカさ来て、国籍も移しだっで」
「……うん」
「うんじゃねが。お前……こんな……岬も心配してるが」
父は怒りを押し込めるように低く呟き、拳で机を叩いた。胸は重苦しくはあったけれど、痛みは感じなかった。
「……嘘だよ」
「凪……」
「俺がアメリカに来てもう八年だよ。それまで知ろうともしなかったんじゃないか。それだけじゃない、父ちゃんだって、あの日俺の電話切って、それきりだった。俺がゲイだって言ったから、幻滅したんだ。俺が信仰を持てなかったから……そうだろ?」
沈黙が流れ、父はばつの悪そうな表情を浮かべ言葉を呑んだ。
「俺がもし変わったことを期待して来たんなら、悪いけど期待外れだよ。俺は何も変わらない。男が好きだし、教会には行かない。父ちゃんに貰ったロザリオもとっくに捨てた。俺は一生変わらないよ」
「……」
「父ちゃんと兄ちゃんが俺を一生懸命育ててくれたことはわかってるよ。俺の我儘聞いて大学も行かせてくれて、お陰でこんな立派な事務所で働かせて貰えてる。それは感謝してるんだ。けど、俺はもう自分を誤魔化してまで二人とは向き合えなかった。家の中も、戸籍だって、俺がいたら邪魔なんだ……」
父は口元を歪め、それからゆっくりと息を吸った。内臓が震えていて、息苦しい。喉が渇いている。もう一度コーヒーを淹れてくればよかった。
「……お前が……何が普通と違うごとはわがっでだ……岬と違って友達も少ねぇ。自分のごとさしゃべらん。何考えでるがわからねが、いつも心配しとったが」
「……」
「やが……お前が……その……女がだめだっで……岬は……気付いでだ」
「……え?」
「なんどなぐそうがもしんねぇと思っでだって……お前が電話寄越しだ時……あいつもすぐ隣さおって……岬はそれでも凪は大事な弟だ言うたが……おらは……そんなごど……すぐにはわからん……時間がかかったで……それは……悪がっだ……」
「父ちゃん……」
「教会さ辞めで、今は隣町のプロテスタントの教会に移った……そごは……その……同性愛の信者も……受け入れるけ……岬が……調べて……あいつ神父辞めて今米農家手伝っとるが……毎日のお祈りはおらもあいつも欠かさん……お前が元気にやっとるが…ちゃんと仕事できとるが……心配やが……、」
「……、」
「岬が見兼ねて……飛行機さ予約しで……お前が……こんなでけぇ街で……こんな立派な会社で……大学の先生もお前が有名な賞獲ったって言うとったが……もう心配ねぇって……やが……やっぱり……お前の顔さ見ねぇと安心できんが……」
父の目に涙が滲み、凪は思わず息を呑んだ。父が泣いているところを見るのは初めてだった。鼓動がゆっくりと周囲を溶かし出し、波紋を広げていく。
「……何度考えでも……やっぱりお前はおらの息子やが…………大事な息子やが……」
肩の震えが大きくなり、父の目からはとうとう涙が零れ落ちた。身体を丸めて泣く父はとても小さく見えた。頬を温かなものが伝うのがわかって、凪は自分も泣いていることを自覚する。忘れていた痛みが再び心臓を縛りつける。あの頃何よりも怖かったのは父と兄に拒絶されることだった。それだけ二人のことが好きだったし、大切に思っていた。
「父ちゃん……」
「悪がっだ……凪……」
父は泣きながら頭を下げた。凪は自分の涙を手の甲で拭いとって、ハンカチをもう一度父に差し出した。父は今度は素直にそれを受け取り、それを握りしめながらまた泣いていた。
父の肩をさすりながら、時折ちらちらと部屋に入り込む光に目を細める。光に胸を開かれるような感覚に、震える父の肩の温かさに、凪はふと、今度こそ前に進もうと思った。本当に唐突に、前に進めるような気がした。少しずつかもしれないけれど、それでも、立ちすくんでいるよりはずっといい。
あの模型の家を、ベル・アッカー賞に出す。これまで個人邸宅作品は入賞すらほとんどなく、賞を獲ることはできないだろう。けれどそれでも構わない。区切りが必要だ。忘れることはできなかったけれど、悠文とのことを思い出にして、糧にして、前に進みたいと思う。
決意はゆっくりと凪の中に染みわたった。こんなに時間を掛けて切り替わるスイッチを、凪は知らなかった。けれどそれはとても前向きなものだった。白く清廉な光が目に射す感覚を、凪は今でも鮮明に覚えている。
ともだちにシェアしよう!