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第9話

大きな窓の向こうで、白い機体がゆっくりと方向転換をしている。どうにか半分ほど食べた蕎麦は、出汁を吸って伸びてしまった。グラスに注がれた水が光を浴びてきらきらと輝く。それはあの日の光を彷彿とさせた。 ベル・アッカー賞は凪にとって特別な区切りとなった。個人邸宅を出品するとテッドに言った時には猛反対を受け、テッドはシュトロハイムを呼び寄せてまで凪を説得しようとしたけれど、凪が見せた改良済みの模型を見て二人とも閉口した。最終的に二人を納得させた上で応募したその作品で、凪は最優秀賞を受賞した。まさか賞を獲れるとは思っていなかったものの、受賞はこの八年間が凪にとって確かに必要な時間だったことを教えてくれたような気がした。まるで一寸先も見えないような濃い霧が晴れ出すのがわかった。あんなに踏み出すことが怖いと思っていたのに、目の前に開けた道はとても明るい光に満ちているように思えた。大切に飾った模型。もう触れるのが怖いとは思わないし、涙も流さない。模型はあの日々を過ごした証だ。とても大事な時だった。悠文と一緒に過ごせて、彼のことを好きになってよかったと思った。悠文が幸せならいいと思ったし、自分も幸せになりたいと思った。初めて、心から本当に。 賞を応募した頃にスタートしたプリマヴェラホテルのプロジェクトでも社内コンペを勝ち抜き、凪の毎日は急激に加速した。目が回るような人生で一番忙しい毎日を送りながら、また送られてくるようになった父と岬からの仕送りに安堵した。大きな段ボールがぎゅうぎゅうになるほどに詰められた乾物や缶詰、岬の作っている米、それに大量のホッカイロ。手紙にはいつも、父の几帳面な細い字で凪は寒がりだからと書かれていた。同梱されていた岬の手紙によれば、どうやら父はニューヨークの緯度を間違って記憶しているらしかった。父がニューヨークに来たのは四月だったけれど、たまたま寒い日が続いていたこともあってそのまま勘違いしてしまったらしい。それでも、クローゼットの一角にひたすらに溜まっていくカイロのパッケージを見る度に凪は嬉しくなった。 季節が変わり、冬になってからようやくホッカイロを実際に使用する機会が増えた頃、あの日、凪は森に出会った。新しい年を迎え浮かれる人々の目を覚ますような寒い日だった。凪は箱いっぱいに溜まったカイロの内一番大きいサイズのものを二つ、コートの両ポケットに入れてアパートを出た。珍しく午前中のスケジュールが空いていたのでいつもよりも大分遅めの出勤だった。見慣れない時間帯の街に新鮮さを感じながら歩いている途中で、走り込んできた森と衝突した。尻餅をつくのなんて何年ぶりだろう。そんなことを考えながら目を開いた先で、森の涙が零れるのを見た。二つの位相の波がぴったりと重なるような感覚があった。それがとても印象的だった。 森のことを愛している。触れたいと思った瞬間も、傍にいたいと思った瞬間も、自分だけを見て欲しいと思った瞬間のことも。全て鮮明に覚えている。 森の気持ちがわかる。だからこそ、焦り、彼を傷つけた。あんな顔をさせたかったわけじゃない。ただ、森に自分だけを見て欲しいだけだった。 「――……、」 グラスの中のキューブアイスが溶けてぶつかり合い、小さな音を立てた。凪は短く息を吐いて、携帯電話を手に取ってボタンを押した。仕事のために国をまたいでも使える携帯電話を契約したのだけれど、この相手に掛けることだけは絶対にあり得ないと思っていたのに。懐かしい呼出音が胸をざわつかせる。 「……はい?」 呼出音が途切れて声が聴こえると、凪は目を閉じてゆっくりと息を吸った。 「悠文さん?」 「…………凪?」 電話の向こうで悠文の声が震えた。驚きと、緊張と、不安。声だけでもわかる。何も変わらない。自分の緊張が和らぐのを感じて、凪はそっと息を吐いた。 「……うん。凪」 「おま……何で……」 「五嶋さんに、念のためにって連絡先聞かれたんでしょ。俺の番号聞きにかけた時」 五嶋は凪が学生時代にアルバイトをしていた建築事務所の社員で、凪をかわいがってくれていた人だ。悠文が極度の混乱状態で事務所に電話を掛けて来たことと、預かった連絡先を凪が飛行機に乗っている間に彼がメールで送ってくれていた。 「……そっか……悪い、俺……」 悠文は思い出したように言って、重い息を吐いた。 「奥さんと子供は? 大丈夫?」 「……悪い……ほんと……」 「悠文さん?」 「病院行ったら……全然……二人とも元気で……一応……検査入院で……まだ病院いるけど……」 「……」 「……頭ん中真っ白になって……何でお前にかけようなんて思ったのか……本当…ごめん……」 悠文は申し訳なさそうに低く呟いたけれど、凪は安堵して、小さな笑みが零れた。 「俺はいいよ。二人が無事でよかった」 「……、」 「今、仕事中?」 「……いや……休暇取って……今病院から帰って来たとこ」 「そっか……あのさ、少しだけ時間、くれない?」 「……は?」 「近くまで行くから」 「……行く……からって……」 「今成田にいるんだ。だめ?」 悠文が絶句しているのがわかった。視界の先に、飛び立っていく飛行機が小さく映る。 「大丈夫。やり直そうとか、そんなこと言いに来たんじゃないよ。心配しないで」 「凪……」 「……そうじゃなくて……俺は……ただ……、」 「……わかった」 「悠文さん……」 「いいよ。わかった。待ってる」 小さな笑いの混じる悠文の声に、閉じた瞼の裏側にまで懐かしさが染みわたったような気がした。 電話を切って、携帯電話のバックライトが落ちると、そっと息が漏れた。ニューヨークのアパートで最小限の荷物をまとめて空港に行って飛行機に乗っても、まだ何をしに日本に行くのかよくわからなかった。森に行けと言われて意地になっているのだとしか思えなかった。けれど今はわかっている。モビールのように空間を巡る記憶をひとつひとつ拾い集めて、ようやくわかった。ただ、森を愛していることを悠文に伝えに来たのだ。それはもちろん悠文のためでも森のためでもなく、自分のために。続きを聞いていたら、悠文は更に呆れたかもしれない。 凪はグラスの水を飲み干し、立ち上がった。視線の端をライトを点滅させながら飛行機が横切った。

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