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第10話
森と凪はよく似ている。森との関係を話した時、レイはそう言って笑った。似すぎているから、きっと一緒にいたら苦しいよ、と。レイの言うことは尤もだった。森を見ていて苦しいと思うことは何度もあった。昔の自分を見ているようだったし、もしかしたら今の自分もふとしたきっかけであの頃に戻ってしまうのではないかなどと考えたりもした。そして、森はちゃんと自分を見てくれるようになるだろうかという不安。その困難さと苦しみを凪は誰よりもよく知っている。
けれど、結果的にはだからこそ森に強く惹かれたのだとも思う。初めはただ、涙が白い頬を伝う様を印象的に思った。二度目に会った時は偶然と、誘われた幸運に感謝した。朝、森が出て行って、一人部屋に残された時、彼が抱え込んでいるものの重さに触れたと思った。森は自分と同じだった。あの時湧き出すように身体を満たした感情については、うまく言葉にならない。同情もあったし、痛みもあった。けれどそれは冷たくて硬質な金属のようなものではなく、もっと有機的な、熱を持ったものだった。逃げだしたい苦しさではなく、向き合って受け止めたい。そう思った。凪自身恋愛が得意な方ではないけれど、森はもっと不器用で、そう思うと余計に感情は強くなった。
森の美しい横顔が好きだ。細く真っ直ぐに伸びる手足が好きだ。癖のある髪も、時折悲しげに翳る瞳も。自分の感情をコントロールできず、それと必死に闘う姿も。素直になれない自分を誰よりも歯がゆく思っていることも。誰かにきつい言葉を浴びせたことでいつも自己嫌悪を感じて苦しんでいることも知っている。自分がそばにいて、少しでも森が自分自身を好きになれたらいいと思った。全部。全て愛している。
悠文に指定された都内のJRの駅まで、成田から電車を乗り継いで二時間かかった。新宿や渋谷に比べれば規模は小さいものの、休日の午後の街は人々で賑わっていた。改札を抜けると、初春の柔らかな光が溶けながら漂うのがわかった。初めて降りる駅だったけれど凪はそこに懐かしさを感じた。東京の街は日本を発つまで結局好きになれなかったけれど、こうして戻ってくるとちゃんと懐かしい。光の色や蕾を膨らませた木々には誰も見向きもせず、皆自分の目的に向かって真っ直ぐ歩く。東京に来たばかりの頃はその光景がいつも凪を心細くさせたものだった。
「……」
凪は内心で自嘲を零し、辺りを見回す。悠文に指定された駅前のカフェはすぐわかる場所にあった。じわりと緊張が滲む。深く息を吸い込んで、カフェに向かう。東京の空気の匂いはニューヨークのものとは違った。夏場には吐き気すら覚えることもあるニューヨークの濁った空気を、それでも今の凪は恋しく思う。
カフェの店内は混み合っていた。ほとんどの席がびっちり埋まっている。それでも比較的静かなのは、一人の客が多いからだろう。皆読書や勉強や仕事に忙しいようだった。
「……、」
凪は店内を見回し、奥のテーブル席で本を読んでいる悠文に気付くと、短い息を漏らした。すぐに気付いた自分に思わず笑ってしまいそうになる。雰囲気が少し変わったけれど、凪にとっては悠文は悠文だ。
「――悠文さん」
迷路のような座席をすり抜けテーブルの前に立つと、悠文はふと顔を上げて目を細めた。
「よぉ、久し振り」
「うん……」
悠文を前にすると、ついさっきまであったわずかな緊張は和らいだ。きっと何年か前の自分だったらこんなにあっさりとした再会をすることはできなかったに違いない。凪はそんなことを考えながら、悠文の向かいの椅子を引いた。
「一応コーヒー買っといたけど」
「あ、ありがとう」
凪は混み合っているカウンターを一瞥し、悠文に礼を言ってアイスコーヒーを受け取った。透明なカップにはまだ大きな氷が浮かんでいる。悠文のコーヒーはもうほとんど氷が溶けているので、わざわざ二度に分けて買ってくれたようだ。ホットではなくアイスコーヒーなのも、緊張していた身体にちょうどいい。細やかな気遣いは、凪に十年間を実感させた。
「お前全然変わんないな」
文庫本を閉じながら、悠文は半ば呆れたように言った。アメリカにいると未だに学生に間違われる。逆に悠文は適度に老けて、年相応に見えた。
「悠文さんは……さすがにちょっと老けたね」
「うるせぇ。お前が異常だ」
「ゲイって老けないんだよ」
「……あ、そう」
冗談を交わし合いながらコーヒーを飲んで一息吐く。最後にこんな風に軽口を言い合ったのがいつなのか、思い出せない。最後の方はいつだって引き千切られるような苦しみを感じていた。
「奥さんと子供無事だったって、安心した」
「…………うん」
「よかったね」
「お前は……、」
悠文の声にかすかな緊張が混じる。凪はうん、と小さく頷き、ゆっくりと息を吸った。
「……俺……ずっと、ちゃんと終わったはずだって……思ってた。十年前のあの日に……いつもの駅で別れて…それでちゃんと終わったんだって……それなのに、ずっと、辛かった。苦しくて、前に進めなくて、怖かった」
「……」
「あれは、俺にとっては終わりじゃなかった。だから、もう一回さよならを言いに来たんだ。今度はちゃんと、大丈夫だから……俺、自分勝手かな」
凪が苦く笑うと、悠文はほっとしたように息を吐き、首を小さく横に振った。凪も安堵し冷たいコーヒーを一口飲む。液体がするりと身体の中心を抜けた。
「悠文さん、俺、好きな人できたよ。それに父ちゃんとも和解した」
「……そっか」
「うん……あの家の模型のこと、覚えてる?」
「ああ、あれ……そうだ、お前賞獲っただろ」
「知ってたの?」
「雑誌で読んだ。インタビューも」
そういえば、ベル・アッカーの受賞後に取材を受けた雑誌社の中には日本の会社もいくつかあった。さすがに内容は覚えていないけれど、個人邸宅を出品した理由はほとんど全ての記者に聞かれたので、きっと悠文はその内容を理解したのだろう。
「おめでとう。お前すごいよ」
「……あ……ありがとう」
「うん」
「あの模型さ。俺、ずっと捨てられなかったんだ。でもここに来る前にちゃんと捨ててきた。区切りにしようと思ったんだ」
「……」
「悠文さんを好きになってよかったって思う。それは本当に、今も思う。でも誰よりも彼のこと、大切にしたいと思うよ」
悠文を愛した証拠はもうないけれど、大切な日々は胸の中にある。それでいいと、心から思えたから。悠文は小さく笑った。
「ほっとした」
「え?」
「凪は覚えてないかもしれないけど、お前、忘れろって、言っただろ?」
「……俺?」
「そう。お前のことも、何もかも全部忘れろって。最後に会った時」
凪は記憶を辿れずに顔を顰めた。あの時はとにかく泣かないように、自分を強く保つことに必死で、どんな会話を交わしたのかなんて覚えていられなかった。覚えているのは最後に笑ってさよならと言ったことだけだ。悠文が続ける。
「そんなの、できるわけないのに。実際できなかったしな……だから安心した」
「そ……っか……」
悠文以上に思い出に囚われていた自分を自覚し、凪は力が抜けるように短く息を吐いた。忘れてしまいたい気持ちと、いつまでも大切に思い続けていたい気持ちとの間で板挟みになっていた。悠文に忘れられれば少しは楽になれると思ったのだろうか。
「ところで、ちゃんと彼氏に言って来たんだろうな」
「え?」
「日本来ること」
「……言った……っていうか……」
「何」
「模型のことで……喧嘩になって、日本行けって怒鳴られて……来ちゃった」
「……は?」
「つい……こう……かっとなって……」
悠文は心底呆れた様子で息を吐いた。
「……よくその状況で飛行機乗ったな」
「……」
「お前が悪いぞ」
「……わかってるよ」
「大体お前は、昔から何でもかんでも一人で背負い込んで限界になるまで堪えるから……ぎりぎりになった時にそういうことになるんだよ」
「う……はい……」
「……って、まぁ元はと言えば俺が電話なんかしたからか……」
「……、」
「あの時電話に出た男だろ?」
凪が頷くと悠文はそっか、と言って目を細めた。
「そうかもって、思ったんだ。だとしたらやばいって。悪いことしたな……」
「あんなにテンパッてる悠文さん初めて見たよ」
「いきなり警察から電話かかってきてみろ。パニックにもなる」
「そうだよね」
「いや……ごめん」
「いいよ。たまたまあの時はそれが引き鉄になっただけで、いつかは浮かぶ問題だったんだから。俺も、多分彼もわかってる。必要だった。お陰で模型は捨てられたし、俺は彼のこと一番好きだってちゃんと確信できた」
まだ森が許してくれるのかどうかは、わからないけれど。その一言を凪は飲み込んだ。口にしたらすぐにでも飛んで帰りたくなりそうだ。もう一度、ちゃんとさようならを言う前に。
「……どんな男」
「え?」
「見た目は全然変わんないけど、やっぱり大人になったなと思って。そんなこと、俺の知ってる凪は言わなかった」
「……、」
「アメリカ人?」
「日本人だよ。四つ年下で、グラフィックデザイナーなんだ。捻くれてて、強がりで、不器用で、子供みたいだ。でも可愛くてしょうがない」
「へぇ」
悠文が笑うと、凪は少し気恥ずかしくなってコーヒーを啜った。やや濃すぎたコーヒーは氷が解けて丁度いいくらいになっていた。森のことを思うと、気持ちが逸る。
「……帰ったら……図面、描こうかな」
ふと思いついて、凪は呟いた。いつかの森との会話を思い出す。
「仕事?」
「……いや……一緒に住めたらいいなって……思って……いつか……」
「あぁ」
「……引くかな……まだ付き合ったばっかりなのに」
「デザインの仕事してて、お前に家設計して貰って喜ばない奴はいないよ」
「……そういうことじゃ、なくて」
悠文は頬杖をついて、確信犯的な笑みを口元に浮かべた。
「わからないけど、引きそうな相手?」
「……ていうか怒りそう」
「照れ隠し?」
「だといいけどね」
「どっちにしろ、もう頭ん中で図面引いてるんだろ」
図星を突かれ、凪は苦く笑った。大きなバスルームと、陽の射すベッドルーム。頭の中にはもういくつもアイディアが溢れている。一緒に会いたさが真夏の入道雲のように大きくなった。
ちょうど、隣の席でヘッドフォンをして勉強していた学生風の男が席を立ち、すぐにそこに騒がしい二人組の女がやってきた。
「そろそろ行くよ」
隣の席を一瞥し、凪は最後にコーヒーを一口飲んで席を立った。駅まで送ると言って悠文も続く。あの時と同じだ。けれど今はあの時に比べればずっと晴れやかな気分だった。
駅前は凪が着いた時よりわずかに通行人が少なくなっていたようだった。切符を買って改札の前で立ち止まると、悠文が不意に凪を呼んだ。
「凪、」
「うん?」
「気を付けてな」
「……うん。時間取ってくれて……あと、コーヒーも、ありがとう」
凪がそう伝えると、悠文は小さく頷いて笑みを浮かべた。黒い瞳が、かすかな光に当たり輝く。大好きだった。
「……俺は結局……どこにでもいるノーマルで……弱くて……だめな男だったけど……それでも、俺は、お前のこと本気で好きだった」
「悠文さん……」
「今でも、あれが人生で一番の大恋愛だったって思う。大事な思い出だ。お前のことも、一生大事だよ。だから、」
「……」
「だから、幸せになれよ。お前が幸せになること、ずっと願ってる」
「……」
「ずっと、気がかりだった。きっかけはともかく、言えてよかった」
じわりと胸が熱くなる。思わず涙が零れてしまって、凪は慌ててそれを拭った。悠文が笑う。
「泣くな、馬鹿」
「……ごめん……びっくりして……ありがとう」
「ああ」
「……俺も……悠文さんの幸せを願ってるよ」
「ん、サンキュ」
「元気で」
「ああ」
「……さよなら」
凪が言うと、悠文は頷き、片手を軽く上げた。零れた涙は一滴だけで、あとはもう流れなかった。その一滴で、凪が八年間抱えて来た重みの全てが良性のものに完全になり変わったのがわかった。
背を向けて、改札をくぐる。柔らかな追い風を感じたような気がした。自然と早足になる。ホームに上がると、屋根の合間に空から光が降り注いでいた。凪は軽く目を閉じ、少しの時間祈った。悠文とその家族の幸せを。そして、自分と森の未来を。一緒にこれからの日々を歩けるようにと、そう。今、森だけが自分の人生で一番の人だと、自分の全てをかけて確信しているから。誰に祈ったのかはわからない。どこかに届くのかどうかもわからない。ずっと信じられなかった。でも、ただ、世界に、自分ではないどこかに祈った。それはあの白い教会で絶望を覚えて以来、初めての祈りだった。
凪の祈りは一片の風になって、青い空へと吸い込まれていった。
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