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Dawn of the World -1
日常を投げ捨ててしまうことがこんなに簡単だとは思っていなかった。二年と少し通った大学に退学届けを提出して、両親に泣かれて、殴られて、大して多くない荷物を纏めてあらかじめ入居を決めていたマンションに転がり込む。言葉にしてしまえばそれだけ、実際、随分あっさりしていたように俺には感じられた。
退学届けを出したのが今朝のことで、それから時計の針が一周しない内に、俺はまだほとんど物のない新しい部屋で大の字で寝そべっている。父親に殴られたのが随分昔のことのように思えた。
「――いてぇ」
昼間のことを思い出すと、途端に殴られた左側の頬が痛んで、俺は顔を歪ませた。腫れは少し引いてきたようだけれど、口の中が切れているらしい。じわりと血の味が滲む。殴られることに慣れていないので、予想はしていたものの突然のことに対処しきれなかった。
親に殴られたのは初めてのことだ。物心ついた頃から一度だって親に逆らったことがないので、当然といえば当然のことだけれど。二十一にもなって一度として親に反抗したことがなかったなんて、今考えると異常だ。反抗心を抱いたことは何度となくあった。小さなことから進路のことまで、それこそ数え切れないほど。けれど、そのたびに思いとどまった。意味がないからだ。学歴と従順さに最大の重点を置いている会社社長の父親と、盲目的に子供を溺愛する専業主婦の母親と。あの両親に反抗をしたところで、消費するのは俺の体力と精神力だけだ。無意味な抵抗に時間と身を削るくらいならと、俺は長いこと色々なアルバイトに精を出した。家にいる時間を少しでも減らしたかったというのも理由のひとつだ。父親は大事な会社の跡取りの俺にアルバイトなんて必要ないと不満そうだったけれど、社会勉強と銘打って、俺はアルバイトを続けた。働くだけ働いて使わなかったせいで金はみるみる溜まっていき、お陰でスムーズに家を出ることができた。まさか貯めた金がこんなところで役に立つとは微塵も思っていなかったのだけれど。
追い詰められるほどにあの生活を捨てたかったのか、正直なところ自分でもよくわからない。ただ、限界は確かに存在していた。特に興味のわかない講義も、家柄へのプライドと女のことばかりを考えている男友達も、わずらわしい女友達も、俺の将来を嬉々として待ちわびる両親も。何もかも、うんざりだった。
「――……」
溜息が零れる。きれいに磨かれたフローリングがごつごつとあちこちに当たって、俺は苦痛に体勢を変えた。ベッドを買わなければならない。この部屋は東向きだし、カーテンも優先度が高い。料理はできないから調理器具の類は後回しで構わないけれど。洗濯機に掃除機、ハンガーも欲しい。クローゼットはあっても今のままでは服がかけられない。シャンプー、コンディショナー、ボディソープ。それにグラスとカップ。箸やフォークくらいは最低限必要だ。
指を折りながら数えていくと、だんだんきりがないことに気付いて嫌気が差してくる。なんだか面倒くさくなってきてしまって、俺は数え上げていた手をがくりと床に垂らして天井を仰いだ。
「低い……」
ぼそりと零れ落ちた独り言は、余韻を残しながら少しずつ消えていった。新生活一日目だというのに、何だか虚しく思えてくる。今日一日が怒涛過ぎたのか、案外大したことがなくて拍子抜けしているのか。
「……寝るか。明日早いし」
また独り言を呟いて、一人暮らしを始めると独り言が増えるというのは本当だなんて思いながら立ち上がって明かりを消す。ランプシェードも必要だな、なんて、ぼんやりと考えて、一気にそれまで以上に静まった濃紺の夜に包まれながら、また硬いフローリングに寝そべる。相変わらずの寝心地で骨があちこち当たって痛いけれど、それでも目を閉じるとすぐに白い波に襲われた。疲れていたのかもしれない。うとうとと眠りの世界を迎え入れながら、明日は朝一でベッドを買いに行かなければと思った。
チャイムの音のやかましさを、俺は今まで知らなかった。人生でチャイム音を聴いたことだっておそらく数えるほどだと思う。間延びした電子音が脳を直接揺らすのはひどく不快だった。
「……ん……ぅ……」
現実が、眠りの海から呼び戻す。意識は眠りから覚めたけれど、窓からの刺すような厳しい光に目が開かなかった。瞼が重いし、体が軋む。チャイムはしつこく部屋の中に鳴り響いている。
「んぁ……るさい……」
ぼそぼそと零れる言葉がドアの向こうに聞こえるはずもなく、チャイム音は間隔を狭めていく。
「マジ……むり……うるせ……」
唸り声を上げながら、時間をかけてフローリングに手をつき、よろめきながら起き上がった。信じられないくらい体が重い。溜息を吐いて両手で瞼を揉み解す。何てしつこい奴なのだろう。
「誰……てか、今何時……」
ふらふらと床に置きっぱなしの腕時計を拾い上げて時間を確認する。そうしている間にまたチャイムが鳴った。
「……八時ぃ?」
今日は日曜日だというのに、大半の人間にとっての休日の朝八時にチャイムを連打するなんて、一体どこの非常識人間の仕業だろう。俺はあちこちに撥ねている髪を掻き混ぜながら玄関までふらつきつつ歩いていって、最高に不機嫌な気分でドアを乱暴に開けた。頭に血が巡らない。
「あ、おはようございます」
「……誰?」
目の前に現れた見覚えのない、赤の他人でしかないと思われる長身の男は、にこにこといかにも無害そうな笑顔を振りまいていた。朝からこんな非常識な行動を起こしておいて、まるで俺と正反対に機嫌がよさそうだ。俺は額を押さえて壁に寄りかかる。
「はじめまして」
「……だ・れ?」
「え、あ、すみません。オレ、今日から隣に越してきました。藤沢です。あの……どうぞよろしくのご挨拶に……」
ありえない。能天気な顔で、不機嫌の極みにいる俺に満面の笑みを浮かべる男に、俺は血の行き届かない頭でただそう思った。たかが引越しの挨拶ごときでこんな朝っぱらから起こされるなんて、ちょっと頭がおかしいとしか思えない。
「……あのさ」
「はい?」
「今、何時かわかってんの?」
「え……ええと……八時……過ぎ?」
男はジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、わざわざ時間を確認した。重く地を這うようなた溜息が零れる。
「日曜の朝八時にチャイム連打って、非常識だと思うんだけど?」
「え、あ、ごめんなさい。寝てました?」
「見りゃわかるだろ」
「ごめんなさい。朝一で荷物運び入れたんですけど、俺荷物少ないしすぐ終わっちゃって……」
「いや、知らねぇし」
「それに、早くお隣さんに会ってみたくて」
「はぁ?」
顔を顰めた俺に、男は一瞬落ち込んだ様子を見せて、けれどすぐに開き直った様子で笑顔を浮かべた。
「すみませんでした。でも、ほら、天気もいいし、早起きも悪くないですよ?」
「何それ。意味わかんねぇ」
俺はがくりと項垂れて、力なく呟いた。怒って怒鳴りつけてやりたいのに、気の抜けた笑顔を見ていると調子が狂ってしまう。
「オレ、越してきたばっかりで何もわかんないんで、いろいろ教えてください。それから、これ」
何やら箱を差し出されて顔を上げると、玄関の段差の上に立っている俺とほとんど同じ目線に立った男はへらっと笑ってみせた。引越しのご挨拶ということなのだろう。意外と几帳面さも持ち合わせているらしい。こんなものをわざわざ用意するまめさと、朝からチャイムを連打する非常識さのギャップが何だか腑に落ちない。複雑さを表情に浮かべるオレに、男が目を細める。
「タオルです。ありきたりですけど」
「……どうも……っていうか」
「はい?」
「俺も昨日越してきたばっかなんだけど」
男は目を丸くして瞬きをした。ようやく頭にも血が回ってきて、壁に寄りかかっていた身体を起こす。
「えぇと?」
「だから、俺も昨日引越しで、住んでまだ二日目なんだけど」
「……本当に?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「……そう、ですよね……じゃあ、すごい偶然」
「とにかくそういうことだから。あんまり役には立てねぇと思うけど」
箱を受け取るべきか迷っている俺に直にそれを手渡して、男はまた屈託なく笑った。子供のような笑顔だ。
「いいんです。仲良くして下さい」
「……はぁ?」
「せっかくお隣になったんだし」
「意味わかんないんだけど」
「いいじゃないですか」
「何が」
「そうだ、腹減りませんか? 近くに松屋あったんですよ。行きません?」
行かない、と即答しかけたのに、結局それを口にすることはできなかった。俺の腹が盛大な音を立てたからだ。昨日は丸一日何も食べていなかったことを思い出す。男はくすくす笑って、ね、行きましょう、と行った。その無邪気な笑みに、力と残っていたわずかな怒りが一気に抜けていったのがわかった。
まだ朝も早く、しかも日曜日のせいか、近所の松屋は人影もまばらだった。
「お隣さん、名前、聞いてもいいですか?」
カウンター席の隣に座っている男は、注文してほどなく運ばれてきた定食の鮭を器用にほぐしながら尋ねてきた。俺はそういえばまだ名乗っていなかったな、なんてことを考えながら味噌汁を啜る。熱い味噌汁がまだ寝起きの体に染みる。
「……日生(ひなせ)。そっちは?」
「え、オレ名乗ったじゃないですか」
「藤……崎……だったっけ」
「……藤沢です」
悪い、と謝りながらも俺は何だかおかしくて笑って、白飯を口に運んだ。
「藤沢な。藤沢何?」
「永久(とわ)」
「トワ?」
「永久(えいきゅう)って書いてね、とわって読むんです」
「……変わってんな」
「よく言われる」
永久は慣れた様子で笑った。朝の空気と静かな店に笑い声はあまり馴染まない。けれど違和は感じなかった。
「藤沢くん……ね」
「あ、永久でいいですよ」
「ん? あぁ」
「ひなせさんは?下の名前何て言うんですか」
「俺? 耕平。平らに耕す。わかりやすいだろ」
「苗字は? ひなせって、どう書くんですか?」
「お日様の日に、生きる」
「へぇ」
永久は何かに感心したように相槌を打って、丁寧に解されている鮭を口に運んだ。
「日生さん、おいくつですか?」
「……耕平でいい。さん付けって落ち着かない」
「そうですか?」
「敬語も」
「じゃあ……えぇと……耕平くんは、いくつ?」
「耕平くんって」
「だって……じゃあ、どうするのが正解?」
困惑した様子で永久は言った。俺は自分でも正解がわからなくて首を振る。
「いいよ、それで。二十一になったばっか。そっちは」
「十九。春に高校卒業したばっかり」
「ふぅん……学生?」
「ううん」
「何してんの?」
「モデルと……あと、叔父さんの英会話教室の講師を時々」
その答えはものすごく意外で、俺は思わず咀嚼していた鮭を噴き出しそうになった。モデルも英会話講師もまったくの予想外だ。確かに言われてみれば永久は背も高いし顔も小さく、女がかなり喜びそうな顔立ちをしているけれど。永久の纏う雰囲気とオレのその業界へのイメージが正反対だったせいだと思う。それに、永久の服装は普通のTシャツとジーンズだ。
しょうもない偏見を頭の中で巡らせながら、俺はげほげほとむせこんだ。永久が慌てている。
「っだいじょぶ?」
「……だい……じょうぶ……っつかモデル? お前が?」
「まぁ……一応」
「意外過ぎ」
俺はつい思ったままのことを口にしてしまい、それを聞いた永久が苦く笑った。
「ね、オレもそう思う」
困ったような戸惑った永久の表情を見て、さすがに無礼だったと俺は内心で反省し、箸を持ち直した。
「……悪い。あ、ええと……英会話っつーのは?」
「昔アメリカに住んでたから。まぁ、英語はそれなりに」
「……ふぅん、アメリカのどこ?」
「ん、ニューヨーク」
「ふぅん、いいな。楽しいよな、ニューヨーク」
「……そうでもないよ」
「そっか?」
「うん……耕平くんは?」
「俺?」
「何してんの? 学生?」
「あー……まぁ、昨日までは、そうだったんだけど」
「昨日まで?」
「昨日やめたから。今は……フリーター……ってことになるのか。今日から新しいとこでバイト」
「そうなんだ」
「ん……」
何となく沈黙が訪れて、俺たちはお互いまだほとんど手をつけていない定食を食べ進め始めた。少しずつ白かった朝に色が差していく。今日も真夏日なのだろう。梅雨明けも済んで、もう何日も猛暑日が続いている。そろそろ中高生が夏休みを迎えている頃だろうか。夏休みという単語すら、もう随分懐かしく思える。昨日までは確かに学生で、これから定期テストを乗り切ろうという時期だったのだけれど、その事実がしっくり来ない。もう新しい道を歩み始めたのだと実感した。
「……この鮭うまいね」
突然永久が呟いて、俺は少し驚いて永久の方を見た。オレンジ色の鮭をまじまじと見つめている。つられて鮭を口に運んで、俺は頷いた。確かにこの鮭はおいしい。毎朝のように松屋に通う自分が目に浮かぶようだ。
「そうだな。俺毎朝通いそう」
「え、朝メシに?」
「そうだけど……何」
「作ればいいのに」
「あー、だめ。俺料理全然できないから」
「そうなの? 何かできそうなのに」
「何かできそうって何だよ」
「何だろ。何でもできそうな顔してるから」
「何それ。どんな顔」
「わかんないけど」
俺の方が聞いている立場なのに永久は首を傾げて、俺は諦めてまた白飯を口に放り込んだ。
「それでいくとお前は料理できなそうだな」
「少しはできるよ」
「……そうなの?」
「うん、まぁ……そんな凝ったものは作れないけど。カレーとかハンバーグとか餃子とか、簡単なのなら」
「できんの?」
「うん、オレ一人暮らし長いんだ」
「へぇ……」
オレは素直に感心して、色の鮮やかな鮭ををつついた。あの非常識さはたまたまだったのかもしれない。引越しの挨拶のタオルといい、料理のことといい、俺よりちゃんとした人間に見えてきた。
「……あのさ、耕平くん」
「んー?」
「いっこ、提案してみてもいい?」
「提案?」
「オレがさ、毎日耕平くんのご飯作ろっか」
思いがけない言葉にオレはまた鮭を詰まらせた。咽こんでいると、驚いたらしい永久が水を差し出してきたので、それを受け取って一気に半分ほど飲み干す。
「大丈夫?」
「平気……っつか何で?」
「何でって……だって耕平くん料理できないんでしょ」
「できない、けど……でも初対面の男にそんな提案おかしいだろ、どう考えても」
「そうかな……」
「おかしいって」
「もちろん、ただじゃやらないよ」
「……何だ、金? いくら?」
「じゃなくて、条件」
「条件?」
残った水を飲みながら永久に聞き返す。永久は頷いて、少し緊張した様子で息を吐き出した。
「できるだけ、一緒に食事を摂って欲しい」
永久は俯いて、店内の雑音に紛れてしまいそうなほど小さな声でそう言った。俺はよくわからなくて首を傾げる。
「一緒に……?」
「うん。できるだけ。時間が合うときだけでもいいから」
「……まぁ、いいけど。何で?」
「何でも。だめ?」
しばらく考えて、短く息をついた後で俺はいいよ、と答えた。少しわからないことはあるけれど、料理が全くできない俺にはありがたい申し出だったからだ。永久が柔らかく細める。
「本当?」
「むしろありがたいし」
「じゃ、さっそく今日から作るよ」
「俺バイトなんだけど」
「何時まで?」
「今日は多分十二時まで」
「オレもこれから撮影なんだけど、そんなに遅くはなんないかな……いいよ、オレ待ってる」
永久はうれしそうで、オレはますますよくわからなくて顔を顰めた。
「あれ、オレ、何か変なこと言った?」
「お前……永久さ」
「うん?」
「すげぇ変わってんな」
「そ……っかな」
「変わってるよ」
俺が笑うと、永久は一瞬だけ眉を潜めて、それから柔らかな笑みを浮かべた。やっぱり、不思議な奴だ。出会ってまだ数十分しか経っていないのに、もう俺は一緒にいることに気楽さを感じている。
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