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Dawn of the World -2
アルバイト先は小ぢんまりとしたバーで、家からもわりと近いところにある。のんびりとした初老のマスターが経営している店だ。ずっとマスターとマスターの血縁の人とでやってきたらしいのだけれど、最近は客足も増えてきて店が回らなくなってしまったらしい。時給もいいし好条件で、このアルバイトを見つけられたのは幸運だったと思う。ランチタイムから始まり、夜にはマスター自慢のカクテルを出す。俺はシェイカーを触れないので当分はウェイターとしての仕事になる。その内シェイカーを作る練習も始めようとマスターは言った。
「耕平君」
「あ、はい」
マスターに会計を促されて、グラス拭きを中断してレジへと向かう。何時間か前にはかなり客の入りが多かったのだけれど、今はもう落ち着いて、店内は元の静かな雰囲気に包まれている。客も今会計をしている二人組で最後だった。
「ありがとうございました」
客が店から出たのを確認してカウンターの中へと戻り時計を見やる。もうそろそろ店を閉める時間だ。
「耕平君」
「はい」
「きりもいいし店閉めようと思うけど……賄いは何がいい?」
「え」
「あれ、賄い付きって言ってなかったかな」
「はぁ……」
「言ったつもりになってたんだけど……ま、いいか。何か食べて行きなさい。混んでたから疲れただろう?」
「え……と、すみません、今日は……っていうか、えぇと……」
永久との約束が頭に浮かんで言葉をつまらせていると、マスターは何かを悟ったような顔をして笑った。
「恋人が待ってる?」
「え、いえ、そうじゃなくて……」
「いやいや、いいじゃないか。耕平くんは真面目だし格好いいし、彼女も幸せ者だね」
「いえ、だから、彼女とかじゃなくてですね……なんていうか……」
説明につまっているとマスターはなぜかうれしそうに笑っていいんだよ、と言った。何がいいのかさっぱりわからなかったけれど、どうやらかなり思い込みが激しいらしいマスターの誤解を解くのは至難の業に思えた。
「あー、あのですね……」
今後も考え、どうにかして誤解を解こうとマスターに切り出したところで、店に誰か入ってくる音がしたのがわかった。タイミングの悪さに辟易しつつドアの方を振り返る。
「いらっしゃ……っ永久?」
店に入ってきたのは永久だった。永久は俺を見つけると今朝と同じようににこやかな笑みを浮かべて、呑気に俺に手を振った。俺は思わず声を詰まらせる。確かに今朝アルバイト先を聞かれて何の気もなしに教えたのは俺の方だけれど、まさか店に来るとは思っていなかった。電話番号は教えてあったのだから一声かければいいのに。そう思って、けれど電源は切ってあったし仕事中は出ようがなかったと思い直す。溜息が零れた。
「友達?」
「友達……っていうか……えぇと……」
「マンションのお隣」
「それです」
言葉が浮かばずに永久に助けを求めると、永久は的確かつ端的に俺が言いたかったことを言葉にした。俺は頷いて、マスターは納得した様子で永久をカウンターに促した。すみません、とか言いながら、永久がスツールに座る。
「……何してんだよ」
「何か撮影長引いちゃって、帰り道の途中だったし寄ったんだよ」
「普通来るか?」
「いいじゃん。ちゃんと閉店ぎりぎり狙ってきたんだし」
「そういう問題じゃないだろ」
「まぁまぁ」
マスターに仲裁に入られて、俺はぐ、と言葉を飲み込んだ。永久は相変わらず何がそんなに楽しいのかにこにこ笑っている。マスターが永久の方を向く。
「えぇと……」
「あ、永久です。藤沢永久。はじめまして」
「トワ?」
「永久ってかいてとわって読むんです」
永久が慣れた口調で説明する。きっと名乗るたびに説明して来たことなのだろう。
「いい名前だね」
「ありがとうございます」
「何か飲む?」
「え、あ、じゃ、オレンジジュースを」
「ジュースでいいの?」
「オレ酒弱くて」
マスターは笑いながらオレンジジュースを取り出した。誰とでもすぐに打ち解けられる永久の性格に感心しながら、俺はグラス拭きを再開させる。
「いい雰囲気の店ですね」
永久が落ち着きなく店内を見回して言った。マスターがオレンジジュースを差し出しながら渋い声でありがとう、と笑う。
「耕平くん、様になってるね」
「あー?」
「似合うよ、この雰囲気も。かっこいい」
「どうも」
全てのグラスを拭き終えて息を吐く。永久が楽しそうにオレンジジュースを飲んだ。この風体でここまでオレンジジュースの似合う男もそうはいないだろう。
「お前オレンジジュース似合うなぁ」
「……それって褒めてるわけじゃないよね、もちろん」
「さぁ、どうだろな」
「耕平君、もう上がってもいいよ」
突然マスターが言ったので、俺は驚いてマスターの方を見た。マスターはのほほんとした笑顔を浮かべている。
「え、でも……」
「初日だし、疲れたろう?」
「平気ですよ」
「いいから。ほら、永久くんも待ってるんだし。ね?」
マスターは俺に目配せをして、俺をバックヤードに入るよう促した。それで俺はようやくマスターの誤解があらぬ方向までいっていることに気が付いて唖然とした。さも、偏見は持っていないから、と言いたげな表情だ。いくらそれまで恋人の話題が出ていたからといって、飛躍しすぎだ。冷や汗が背中を伝うのを感じる。永久は気付かない様子で呑気にグラスについていたオレンジに齧り付いていた。
「マスター、何か誤解して……」
「いいからいいから、早く着替えておいで」
俺は誤解を解けないまま、マスターにバックヤードへと押し込まれてしまった。思い込みが激しい上に何て人の話を聞かない人なのだろう。けれどもう言い返しに戻る気力はないし、説明すると余計に言い訳じみてくるような気がして、俺は諦めて脱力した。
着替えといっても、黒いパンツからジーンズに穿き替えるだけなのですぐに終わる。着替えを済ませて適当に髪を崩すと、俺は溜息混じりにバックヤードを出た。
「じゃあ、耕平くんお疲れ様。明日は二時からね」
「はい……お疲れ様でした……」
「永久くんも、よかったらまたおいで」
「え、いいんですか?」
「もちろん。耕平くんも君が来た方が喜ぶだろう?」
「マスター、だから誤解っ……」
「じゃあ、お言葉に甘えてまた来ます」
「あぁ、いつでもおいで」
満面の笑みで俺たちを送り出してくれたマスターに納得のいかない気持ちを抱えながらも会釈をして、永久と店の外に出る。夜の空気に触れると、一気に疲れが襲ってきたのがわかった。大きく溜息をついて、ふらふらと読み地を歩き始める。
「すげー……疲れた」
「お疲れさま」
「……っていうか、お前のせいだからな」
「え、何が?」
「お前が来たせいでマスターにあらぬ誤解を……」
「誤解って?」
「だから……」
「だから?」
「……だから、俺とお前が付き合ってると思われたんだよ」
永久は一瞬目を丸くして、それからけらけらとおかしそうに笑ってみせた。俺の方に笑う余裕はなく、ただ溜息を繰り返すばかりだ。
「笑いごとじゃねぇって……初日だぞ? どう責任取ってくれんだよ」
「責任って言われても」
「バイト初日で上司にゲイだと思われたんだぞ……」
「えー」
「えーじゃない。マジでありえねぇ」
「んー……あ、じゃあさ、耕平くんオレと付き合ってみる? オレ、耕平くんならまぁ男でも」
オレはげんなりして、けれどしっかり永久の腰を蹴り上げた。
「いって……」
「まぁ男でも、じゃねぇよ。オレンジジュース一杯で酔っ払ってんじゃねぇぞ」
「そんな、怒らなくたっていいのに」
「俺は疲れてんの。あー……もう、腹減った。お前のせいで賄い食いっぱぐれるし、まったく散々だ」
「賄い?」
「そうだよ」
「断ったの……?」
「断ったのって……お前の条件だろ」
「……できるだけでいいって言ったじゃん」
「あ?」
「いや……ありがと」
「ばぁか」
オレはもう一度永久を蹴って、永久が痛いと言って笑った。こんな時間なのに蝉が鳴いている。もうすっかり夏だ。柔らかく纏わりつく空気と、どこか懐かしい匂い。一昨日までの俺は、季節の音にも耳を傾けなかった。
「……マジで腹減った」
「あー……ところでさ」
「んぁ、何だよ」
「スーパーってまだ開いてると思う?」
「さぁ。さすがに閉まってんじゃねぇの」
「……だよね」
「何だよ」
「……怒んない?」
「聞いてみなきゃわかんねぇ。何?」
「……米がない。っつーか、何にもない」
「……マジで言ってんの?」
「マジ」
「おっまえ……」
「オレさ、引越ししたてだったんだよね。考えてみたら」
街灯に照らされながらへらへらと笑う永久に、もう何度目かもわからない溜息が零れた。今日は朝から永久に振り回されっぱなしだ。
「へらへらすんな!」
「わ、ごめんって」
「……どうすんだよ。腹減ってんだけど」
「……松屋?」
「……」
「あ、えぇと、オレ奢るよ……?」
「当たり前だバカ!」
俺はぐんぐん夜道を突き進んで、申し訳なさそうに永久がそれについてきた。白い月明かりの下で、黒い木々が柔らかな風に揺れていた。
結局朝と同じ松屋で空腹を満たした俺と永久は、マンションまでの少しの道のりを並んで歩いた。今日は本当に疲れた。さっさとシャワーを浴びてぐっすり眠りたいところなのだけれど、生憎昼間駆け込んだ家具屋からベッドが届くのは明日の午前中だ。もう一晩は床で寝るしかない。
「あー……疲れた」
「……はは」
「朝っぱらから変な奴に起こされるし、ゲイって誤解されるし、夕飯松屋だし、その上ベッド明日まで届かないし」
「ごめんってば。でも最後のはオレのせいじゃないよね?」
「お前のせいにしないと俺の気がすまない。大体そもそもお前の登場でおかしくなり始めた気がする」
「めちゃくちゃ……」
「自分に甘く他人に厳しいのが俺のモットーなんだよ」
「何、それ」
永久は笑って、嫌味なほど長い腕をぐっと空に向かって伸ばした。改めて見ると永久は確かに顔もスタイルも際立っている。百七十四センチの俺が少し見上げるほどの身長に、細く伸びる長い手足、小さな顔。街で見かけたらやっぱりモデルかなにかだと思っていたのかもしれない。第一印象では結び付けがたかったけれど。
「……お前さ」
「うん?」
「モデルって、雑誌とか出てんの?」
「うんまぁ……あれ、買ってくれるの?」
「……気が向いたら」
「まぁ色々出てるみたいだけど……」
「みたいって」
「オレもあんまり把握してないんだ。それに何か、やっぱ恥ずかしいし」
「は? だってそこら辺で売ってるんだろ」
「うん、売ってるけど……」
「プロのくせに?」
「まぁ、そうなんだけど……なんか耕平くんに読まれるのは照れるっていうか」
「はぁ?」
永久は少し考えた後でその内雑誌持っていくよ、と辿り着いた五階建てのマンションのエントランスをくぐりながら苦く笑った。俺も黙ってそれに続く。蛍光灯の安っぽい明かりが少し眩しかった。エレベーターで部屋のある四階まで上がって、部屋へと向かう。コンクリートの上で革靴が心地いいリズムを刻んだ。夜に冷えるコンクリートの匂いがする。
「……じゃあ」
角部屋の俺を前に促して、永久は隣の自分の部屋の前で立ち止まった。夜風がするするとすり抜けていく。
「ん、じゃあな。あ、明日米買って来いよ。半分払うから」
ジーンズのポケットから鍵を取り出しながら言うと、永久が笑ってうん、と頷いた。からからとキーホルダーが夜風に揺れる。
「……耕平くん」
「んー?」
「あのさ……」
「何だよ」
「オレ……何かうれしかったよ」
「は、何が?」
「マスターに……恋人と間違えられたこと。自分でもよくわかんないけど、ちょっとうれしかった。変かな。変だよね……」
「何言って……」
「……おやすみ」
「……あ、こら、おい、永久」
永久は呼び掛けに無反応でさっさと部屋に入ってしまった。呆気に取られていると、部屋の中からどたっという人の転ぶ音が聞こえてきた。永久だ。
「ふ……」
派手な音を立てて玄関で転ぶ永久を想像して、オレは思わず吹き出してその場にしゃがみこんだ。
「何やってんだあいつ……」
腹筋を抱えて笑いながら、一人で呟く。俺はわりと人見知りをする方なのに、永久は今朝初めて会ったとは思えないほどよく馴染む。
俺はまだ笑いを引きずりながらも自分の部屋へと入った。暗闇に迎え入れられる。ぬるい床をふらふら歩きながら、今日は楽しかったのかもしれない、と何となく思った。さっきまで疲れを感じていたのだけれど、最後のでそれが吹き飛んだ。
明かりを点けてバスルームに入る。ゆっくり熱い風呂につかって、明日に備えるべきだ。こだわってトイレと風呂が別の部屋を探したかいがあった。蛇口を捻って、バスタブに湯を張る。俺は目を閉じて水音と湯の匂いに身をゆだねながらさっきの永久の言葉を思い出した。穏やかさが膜になって周囲を包む。それはとても心地いい感覚だった。
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