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Dawn of the World -3

昨日に引き続き、今日も永久は仕事が終わる間近の時間にバーへとやってきた。マスターはもう何も言うなと言わんばかりの笑顔で俺たちを見送ってくれて、その様子に永久は笑い、俺は脱力した。 夏の夜道では、熱気が足元で揺らぐ。浅い沼を歩くように、足には夏の空気が絡み付いて、けれど俺はその感触が嫌いではなかった。夏の夜が生むものは、全て、心を穏やかにしてくれる。 「いい人じゃん、マスター」 柔らかなアスファルトを踏みながら永久が笑った。俺は項垂れて息をつく。 「お前、面白がってるだろ」 「何で?」 「俺が困ってんの見て」 「……オレ、そんな悪い奴に見える、」 「見えなくはない」 「う、ショック」 「うるさい。今日だってなぁ、一日中マスターに何か言いたげな笑顔で見られてたんだぞ?」 「考えすぎじゃない?」 「じゃない。絶対」 さりげなく永久の話を振り、そこから決定的な言葉を引き出そうとしているマスターには、結局今日も誤解を解くことができなかった。俺は溜息混じりに肩を落とし、永久はまるで気にしない様子で先を歩き始めた。仕方なく小走りで追いつく。 「耕平くん」 「何だよ」 「ちょっとさ、寄り道しない?」 「寄り道ぃ?」 「そこ曲がると結構大きい公園があるんだ。さっき発見した」 「……何しに」 「散歩。オレ、夜の公園好きなんだ」 そう言うと、俺の返事も待たずに永久は角を曲がっていく。本当は空腹で一刻も早く帰りたかったのだけれど、俺は仕方なく永久の後に続いた。さわさわと風が揺れて、木もざわついた音を立てる。その公園は住宅地の公園らしく緑が多いようで、規模もわりと大きそうだ。永久は軽い足取りで公園内を進み、やがて現れたブランコに向かっていく。俺はやる気のない小走りで永久を追った。 「耕平くん、遅いよ」 「……うっせ。疲れてんだよ」 外灯の淡い光に照らされたブランコに腰掛けた永久が笑った。実際には遅れはせいぜい十数秒だったと思うのだけれど。俺は永久の向かいに作られたブランコの囲いに腰を下ろして、息を吐いた。 「何なんだよ、急に」 「うん?」 「だから、公園とか。俺腹減ったんだけど」 「うん……オレも腹減った」 「何なんだよ、マジで」 「……いや、懐かしいなぁって」 「ブランコが?」 「うん。でも一人じゃ寂しいし恥ずかしいから、耕平くんと一緒に来たかったんだよ」 「……ふぅん」 永久はゆっくりとブランコを前後に揺らして、目尻を下げて微笑んだ。大きな月に照らされた永久は、何だか映画のワンシーンのようだった。 「まぁ、ね。俺も子供ん時はブランコ好きだったかな」 「立ちこぎとか?」 「二人乗りとか」 「……何それ」 「二人乗り。お前知らないのかよ」 「知らないよ。そんなのできる?」 「一人がそうやって普通に座って、もう一人がその脇んとこに足入れて、立って乗るんだよ」 「……嘘だ」 「本当だって。何、お前、本当にやったことないの?」 「ない。耕平くんやってみてよ」 「……無理だろ」 「えー」 「誰かに見られたらどうすんだよ」 「またゲイ疑惑かけられる?」 「……夜の公園で大の男がブランコ二人乗りは怖いだろ」 俺と永久は笑い合って、それから永久はおもむろに夜空を仰いだ。今日は風がほとんどないせいで蒸し暑い。 「ブランコか。最後に乗ったの、五歳くらいかな」 「五歳?」 「五歳じゃ、二人乗りなんて思いつかないよ」 「……まぁ、そうか」 「惜しかったなぁ」 「そ……うかぁ?」 「絶対やってみたかったのに」 「……その内な」 俺が誤魔化すと、永久は寂しげに溜息を吐いて俯いた。永久の溜息を初めて見た俺は驚かずにはいられない。 「……何で?」 「え?」 「五歳から乗ってないって」 「え、あぁ……五歳からもうアメリカだったから」 「あぁ……あー、え、アメリカだってブランコくらいあるだろ」 「そうだけど……俺ん家の近くにはそういうとこ、なくて……」 「ふぅん」 「五歳でニューヨーク行っちゃったから、日本の記憶ってほとんどなくてさ……ほんと、ブランコくらいしか覚えてないんだ。母さんに揺らしてもらってさ」 「……」 「懐かしいな」 「……もうわかったから」 「…………耕平くん」 永久は少し勢いをつけて、ブランコを揺らした。キィ、という音を立ててブランコが軋む。夜にその音を聞くと、それはとても悲しげな音だった。 「……何」 「今日……さ……」 「うん」 「今日……父さんと母さんの命日だったんだ」 「……え?」 思ってもみなかった言葉に、俺は驚いて思わず間抜けな声を上げてしまった。永久が俺の方を見て、泣きそうな顔で笑ってみせた。 「五周忌だって。オレびっくりしたよ。そんなに経ったんだね」 「ね……ってお前……」 「今日墓参りしてきた帰りに店寄ったんだ」 「……、」 「本当は、行きたくなかったんだけどね。今まで一回も行ったことなかったし」 「一回も?」 「うん。何かさ、怖くて。っていうか葬式すらオレ出なかったし」 「何で」 「ん……とにかく怖くて……何か……何だろ……オレまだ絶望したくないとか思っちゃって。墓になった父さんと母さんを受け入れる覚悟がなかったんだ」 「……」 「もしかしたらやっぱり生きてましたってなるんじゃないかって……ただの現実逃避って言われたらその通りなんだけど……でも、やっぱり心のどっかではそう思いたかったんだと思う。でも、五年も経って一回も墓参りしてないってなると…親戚とかも黙ってなくて。知らないじいさんばあさんにこの親不孝者、とか怒られちゃったりして」 永久は笑って、その笑いは夏の熱気にすぐに飲み込まれてしまった。胸がざわつく。苦しいのは永久の方のはずなのに、きつく心臓を絞られているように辛かった。 「叔父さんにも説得されたし。だから覚悟決めて今日行ってきた」 「永久……」 「なんか……」 「……、」 「なんかさ、やっぱり、怖かった。すごく。墓になった父さんと母さんは冷たくて……怖かったんだ」 声が震える。けれど永久は泣いていなかった。むしろなぜか俺の方が泣きそうで、俺は必死にそれを堪えた。 「涙も出てこなかった。怖くて」 「……うん」 「それで……なんか、うん。耕平くんに会いたいって、すごく思った」 永久は揺らしていたブランコから飛び降りてきれいに着地すると、真っ直ぐな視線で俺を捉えた。ねっとりとした夜にシャープな影が落ちる。 「出会ってまだ二日目だし、どうしてとかオレもよくわかんないんだけど……でも、オレすごく耕平くんに会いたかった」 「……、」 「バーに入って、耕平くんが笑って……オレすごいほっとしたよ。よかったって。何がよかったのかわかんないけど……とにかくよかったって思った」 永久が微笑んだ。じわじわと熱が身体に広がる。永久の言葉に悲しみとうれしさと、両方を感じていた。俺は何を言えばいいのかわからなくてしばらく呆然と永久を見ていたのだけれど、やがてわからないままに声を開いた。 「と……」 永久、と名前を呼ぼうとした瞬間に、俺の腹が空腹に耐えかねた悲鳴を上げた。今の今まで空腹でいたことなんかすっかり忘れていたのに。俺は一気に顔に血が上るのを感じて、永久がそれを見て笑った。 「帰ろっか」 「え……」 「オレも腹減ったよ。朝スーパー行って米とかちゃんと買っといたから。少し時間かかるかもしんないけど、今日はちゃんとできるよ」 「あ……あぁ……」 「帰ろ」 「……ん」 「あ、でも……あのさ、ひとつだけ」 「何、」 「家まで手、繋いでていいかな」 永久の声はひどく小さかった。俺は黙って永久のところまで行くと、何も言わずに永久の左手を掴んで、それから二人で並んでマンションまでの道を歩き始めた。永久の手は俺の手より大きくて、冷たかった。 「耕平くん」 「……何だよ」 「ゲイ疑惑さ、かなり濃厚になったよね」 「……うるさい。黙って歩け。できる限りの早足で」 「えー」 「競歩レベルで」 永久は声を上げて笑って、俺の手をぎゅ、と握りなおした。絡まった骨っぽい手が気持ちいい。結局緩やかな歩調は最後まで速められることはなかった。俺は恥ずかしくて、でき得る限りくっついた影から視線を逸らして歩いた。月がきれいだ。夏の夜に浮かぶ白い月は、こんなにもきれいなものだったのだ。 家に着くと、永久はあっという間に慣れた手つきでオムライスを作った。それはお世辞でも、腹が減っていたせいでもなく、間違いなくとてもおいしいオムライスだった。一口食べてすぐに感動してしまった俺は、思わず目を見張らせた。 「……うまい」 「え、マジで?」 「マジで」 「よかった。オレオムライス結構得意なんだよね」 「これ、中のこれがうまい」 「チキンライスだよ」 「へぇ」 「へぇって、耕平くん知らないの、チキンライス」 「……や、食ったことある……と思う。多分」 「多分って……」 「あんまりそういうの気にしたことがないんだよ」 「うーん?」 「とにかくうまいから」 「……そっか。ありがと」 永久は微笑んで、楽しそうに俺がオムライスを食べるのを眺めている。ただ見られているのは居心地が悪くて、俺は永久の方を見る。 「お前食わないの?」 「食うよ」 「何でこっちばっか見てんだよ」 「うれしいから」 「は?」 「あのさ、子供にご飯食べさせる母親って、多分こんな気分だよね」 永久は笑いながらスプーンで自分のオムライスを崩した。 「このオムライスさ、母さんに作り方教えてもらったんだ」 「……、」 「うち、共働きで二人とも忙しかったから。たまに母さんに料理教えてもらって、よく作って一人で食べてた」 「……そっか」 「……うん」 俺は黙ってまた一口オムライスを口に運んだ。永久が食事を作る代わりに出してきた条件は、そのことと関係があるのかもしれない。俺はきゅ、と胸が締まる感じを覚えながら、永久を時折見やった。 「耕平くん、明日もバイト?」 「え、あー……うん。でも明日は六時上がり」 「あ、オレ明日ロケだしちょっと遅くなりそう」 「わかった」 「夕飯先食べてていいよ」 「いいよ、待ってるし」 「でも、悪いよ」 「永久のが待ってるじゃん」 「それはオレが好きでやってるだけだし……」 「だから、俺も待っててやるよ」 永久は少し驚いた顔をした後で、ふ、と口元に淡い笑みを浮かべてありがとう、と言った。 「耕平くんって意外と優しいとこもあるんだね」 「意外とって何だよ」 「そのまんまの意味」 「……まぁ、いいや。ごちそうさん」 「あ、きれいに食べてる」 「腹減って限界だったんだよ」 「……あ……ごめん」 「何で謝んだよ」 「うん……ごめん」 ばぁか、と永久を小突くと、永久は残り一口のオムライスを口に放って、皿を持って立ち上がった。俺も皿を持ってキッチンに向かう。 「洗剤どこ?」 「いいよ、耕平くん部屋戻って。後オレやるし」 「やだよ。お前ばっかにやらせたら何かすっきりしないじゃん。で、洗剤どこだよ」 「あ、シンクの下……」 言われた通りシンクの下から洗剤とスポンジを取り出す。永久がテーブルの上にまだ残っていた食器を運んでくる。小さいシンクの前に男が二人並ぶと、やっぱりかなり狭い。 「すっげ、せま」 「しょうがないよ」 「っていうか、ずっと思ってたんだけど、キッチン狭すぎ。その上都心ど真ん中でもないくせに家賃七万ってどうなの」 「……この物件で七万は安いと思う」 「そうかぁ?」 「ねぇ、あのさ。オレ思ってたんだけど、耕平くんってどっかいいとこのお坊ちゃま?」 「は?」 「何か、こう、金銭感覚とか、普通と違うよね?」 スポンジにたっぷりの洗剤を出している俺を、永久が呆れた様子で眺めて言った。 「別にお坊ちゃまじゃねぇし。もう家出たから関係ないって」 「うーん……」 永久はあまり納得のいかない様子で、オレが洗った皿を丁寧に濯いだ。かちゃかちゃと食器が重なる音と、水の流れる音。何だかその音はとても穏やかに感じられた。 洗い終えた皿を白く細長いシェルフに仕舞って、テーブルの上を拭くと、俺は軽い達成感を覚えて短く息をついた。 「耕平くんってきれい好きなんだ」 「まぁな」 「何か掃除とか面倒くさがりそうなのにね」 「あー、まぁ、学校の掃除とか小学生ん時嫌いだったけど……自分の部屋は汚かったことないな、」 「あ、そんな感じもする」 永久は笑いながら布巾を洗濯機に放り投げた。俺はきれいになったキッチン周りを見回し満足して、帰ろうと思ったのだけれど、それを思い留まって洗濯機をいじり始めた永久の方を見た。公園での永久の話に何も言ってやれなかったことが気にかかっていた。 「あー……のさ」 「んー?」 「さっき……さ……」 「さっき?」 洗濯機の操作を終えた永久が振り返る。洗濯機の電子音、それと同時に水が流れ始める。 「さっき……気の利いた言葉言えなくて、ごめん」 永久は一瞬考えた様子で、けれどすぐにあぁ、と笑みを浮かべてみせた。 「いいよ。話聞いてくれてありがとう」 「いや……っていうか、あのさ」 「ん?」 「あー……だから、うれしかった……から」 「え?」 「お前が俺に会いたいって思ってくれて、うれしいって……思ったから……それだけ。じゃ、帰るな」 「え、耕平くん」 ものすごく恥ずかしくなって、俺はばたばたと玄関へと向かった。キッチンから玄関へはすぐだ。靴を履いて、ドアに手を伸ばそうとしたところで永久に腕を取られる。 「な……ん……っ」 振り向いたところを捉えられて、永久の唇が俺のそれに触れた。一瞬だけ触れた唇同士が名残惜しそうに離れていく。心臓が大きく跳ねて、瞬間的に顔が真っ赤になったのがわかった。 「と、わ……お前……っ」 「うん?」 「何してんだよ……」 「キス」 「な……」 「疑惑さ、確信になっちゃったかも」 「は?」 「耕平くん、おやすみ」 「おっ……やすみ……!?」 「うん、また明日。朝飯の時に呼ぶよ」 永久のおやすみ、の声に条件反射で言葉を返してしまった俺は、永久の部屋を出てドアを閉めると、そのままその場にへたり込んだ。確か昨日も似たようなことになっていたはずだ。ぐるぐると色々なことが頭の中で回る。俺はいつまでも立ち上がることができずにいた。問題は永久にキスされたことじゃない。永久にキスをされて、嫌じゃないどころかうれしいと思ってしまっている自分だ。

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