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Dawn of the World -4

日中に溜め込まれた熱気がじりじりと夕闇を焦がす。俺はまばらな人混みの中を早足ですり抜けた。自然と歩調が早まってしまう。始終そわそわしていて落ち着かない。動揺しているのだ。昨日もあまり眠れなかった。溜息が零れて、意識して歩調を遅くした。 夕闇の空に溶け込んでしまいそうな白い月を見ると、昨日の永久とのことを鮮明に思い出す。唇に熱が集中して、火照った頬を隠すように手で押さえる。まさかキスをされてしまうとは思っていなかった。昨日一晩どんな顔をして永久と顔を合わせようかと悩んだのだけれど、今朝一緒に朝食を摂った時には永久はすごく自然に、何事もなかったかのように接してきた。意識しすぎておかしくなっていたのは俺の方で、完全に挙動不審になってしまった。ファーストキスでもあるまいし、酔っぱらって男にキスをされたこともあったのに、なんだか永久のとのキスは変だ。心臓に膜が張ったみたいで始終落ち着かない。膜の中で窮屈そうに心臓が波打つ。胸がいっぱいというのはこういう状況のことを言うのかなんて思って、その途端に恥ずかしくて居たたまれなくなって、誰が見ているわけでもないのに俺は俯いて歩き出した。疑惑から確信。結構危ないのかもしれない。 「……っ」 溜息をついて髪を掻き混ぜると、ポケットの中でブルブルと携帯電話が震えた。俺は思わずどきりとして、それから慌てて電話に出た。 「っはい」 「もしもし?」 「はぁ、あの……」 「あたし、映海(えみ)だけど。お兄ちゃん?」 「……映海!?」 想定外の人物からの電話に、俺は驚いて立ち止まり目を見開いた。映海は二つ年下の妹で、家を飛び出した時には大学に行っていなかったので、騒動の後で話すのは初めてになる。映海はあからさまに不機嫌そうな溜息をついた。 「……そうよ」 「……、」 「お兄ちゃん、今どこにいるの?」 「え?」 「今どこかって聞いてるんだけど」 「今……って……」 誰にも行き先を告げなかったのに、ここで映海にばれてしまったら元も子もない。言い淀んでいると、それを察したように映海は短く息を吐いた。 「今現在どこに立ってるかってこと。どこに住んでるとか、そんなことじゃないわ。そんなの聞いてもしょうがないじゃない」 「あー……」 仕方なく最寄り駅の名前を告げると、映海はそう、と言ってしばらく間を置いた。何かを考えている様子だ。電話の向こうはやけに騒がしく、途切れ途切れにアナウンスが聞こえる。どこかの駅にいるらしかった。 「あたし、今、渋谷なんだけど」 「渋谷?」 少し意外な場所だったので俺は映海の言葉を繰り返した。実家から渋谷までは電車一本で来られるけれど、近いというわけでもない。電車嫌いの映海がわざわざ渋谷まで電車で出てくるのは珍しいことだ。 「……珍しいな」 「まぁね。ちょっと会いたいのよ。三十分でこっち、来てくれる?」 「え?」 「そこからなら三十分もあれば余裕でしょ」 「そりゃまぁそうだけど……何だよ」 「会ってから話すわ。安心して、お父さんとお母さんには内緒だし、誰もついてきてないから。じゃ、後でね」 そう言うと映海は一方的に電話を切ってしまった。相変わらず強引な性格だ。俺は思わず溜息をついて、マンションの方向へ向かっていた道を引き返した。その拍子に向かってきた誰かとぶつかりかける。この時間、人の流れは駅から住宅地に向かう。人々は暑さの中で疲れたような、家路つくことへの安堵を感じているような表情で、俺はそれを少しうらやましく思いながら人の流れに逆らった。 渋谷の駅前で待ち合わせた映海は、見るからに不機嫌な表情と態度だった。相当怒っているように見える。その怒りと俺が呼び出されたことが関連しないはずはない。俺は気付かれないように溜息をついて、早足で突き進む映海の後に続いた。 しばらくはお互いが無言のまま歩いて、それから映海に促されて適当なカフェへと入った。仕事終わりの時間と重なっているせいか、店内は混んでいる。案内された席につくと、すぐにウェイトレスが水を持ってきた。 「ご注文は」 「アイスティー、ストレート」 映海がメニューも見ずに素っ気なく言った。ウェイトレスがさらさらと注文を伝票に書き込んでいる。 「俺、コーヒー」 「ホットでよろしいですか?」 「はい、何でも……」 「かしこまりました」 オーダーを終えるとウェイトレスは足早に去っていって、俺は息を吐いて水を飲む。気まずい空気が映海との間に流れていた。ざわめきがその気まずさに拍車をかける。 「……いいの?」 「何が」 「食べ物頼まなくて。どうせお兄ちゃん外食でしょ」 「あぁ……うん。家で食うことになってるから」 「……彼女の手料理ってわけね。気楽なもんだわ」 映海はつんとして毒づいた。説明が面倒なので放っておく。それに事実を説明しようとするとどうしても余計なことまで言ってしまいそうな気もした。俺はどうにか話題を明るい方向へ持って行こうと笑顔を作る。昔からこの妹には弱いのだ。 「映海……え……と、元気か……?」 映海ははっきりと訝しげに俺を見て、それからまた息を吐いた。 「見てわからない? それに、何日でもないじゃない」 「まぁ、そうだけど……」 「お兄ちゃんこそどうなの?」 「……まぁ……まぁ」 「そう」 「ん」 映海は黙り込んで窓から外の方に目を向けた。何となく話しかけることができなくなってしまって、結局俺も映海と同じように窓から遠くを見つめる。もう辺りはすっかり夜だ。スーツを着たサラリーマンや髪を巻いたOLらしき人たちが早足で過ぎ去っていく。うごめくような熱気が目に見えそうだ。 お待たせいたしました、とさっきのウェイトレスが飲み物を運んできた。ウェイトレスはグラスとカップ、それから伝票を置いてさっさと戻っていく。アイスティーの琥珀色がきれいだった。映海がストローをアイスティーに乱暴に差して啜る。明るい色合いのアイスティーの中で氷が軽やかに揺れた。 「……まずいわ」 「文句言うなよ」 「本当のことだもの」 悪びれもせずに言うと、映海は陶器に入ったガムシロップをアイスティーにどばどばと入れた。甘さで誤魔化そうということなのだろう。本当に相変わらずの映海に俺は息を吐く。 「……で、何の用なんだよ」 「何が?」 「用事あったんだろ」 「別に」 「……わざわざ呼び出しておいて別にかよ」 「そうよ。ただ、ちょっとお兄ちゃんがどんな顔してるか見てみたかっただけ」 「顔?」 「そう。でも何だかがっかりしちゃった。もっとずっとすっきりした顔してるのかと思ったのに」 「は?」 「だってそうじゃない? 大学とか家とか、わずらわしいもの全部放り出して、すっきりさっぱりしてるんでしょ?」 映海の言い方にははっきりと棘が感じられた。俺は言葉をつまらせて、熱いコーヒーを飲んだ。コーヒーはひどく不味く、思わず顔を顰める。これでは映海のことを言えない。カップを置くと、映海がからりとアイスティーを掻き混ぜた。 「今ね、大変よ、とっても」 「何が」 「家に決まってるじゃない。お父さんは血管切れっぱなしで、機嫌は最悪。お母さんは朝から晩まで泣き通し。本当、めちゃくちゃだわ」 その状況はすぐに想像できて、俺はちくりと刺すような痛みを感じた。映海がほんの少しだけ笑う。 「お父さんもお母さんも、あのお兄ちゃんがこんなことするなんて思ってなかったみたい。いい子だったのにって。馬鹿みたいね。お兄ちゃん二人の言うことに逆らわなくても、いつも反抗的な目で見てたのにね。全然気付かなかったなんてどうかしてるわ」 「……」 「でも大丈夫、安心して。お兄ちゃんを無理矢理連れ戻そうなんてことにはならないわ。大学辞めて無職で、言うこと聞かないお兄ちゃんなんかに二人は興味がないもの。あの二人が今嘆いてるのは、一流の大学でトップの成績が取れて、真面目で逆らわない息子が他にいないからよ」 映海が笑いながらアイスティーを飲んだ。すぅ、と心の中で何かが引いていく。俺は冷めて飲みやすくなったコーヒーを半分ほど一気に飲んで、カップを雑にテーブルに置いた。これ以上は聞きたくなかった。 「俺の顔見れたんだから、もういいよな。俺帰るから」 「待って」 伝票を持って立ち上がりかけた俺を、映海が呼び止めた。本当はそんなの無視してさっさとこの場を立ち去りたかったのだけれど、そうすることもできず、結局俺は再び腰を椅子に下ろした。 「……何だよ」 「いくら言っても言い足りないわ。会社継ぐはずだったお兄ちゃんの逃亡のせいで、あたしに迷惑がかかるのよ?」 「……何で」 「お兄ちゃんがいないならあたしが婿取るしかないじゃない。お父さんたちが勝手に決めた相手と結婚しなきゃならないの。あたしそんなの絶対嫌よ」 「じゃあ、お前も家出ればいいだろ」 映海は呆れたように息を吐いた。周りの雑音が耳障りだ。 「そりゃしたいわよ。でもあたしお兄ちゃんみたいに自分勝手なことできない」 「……」 「周りにどれだけ迷惑かけてるかわかってるの? あたしは自分の我儘で家を飛び出したりできないわ」 何も言い返すことができない。こういう風に言われることはわかっていた。けれどどうしても、耐えられなかった。逃げずにはいられなかった。 「そりゃ、嫌よ。お兄ちゃんが逃げた責任押しつけられるのは。だからこうして愚痴ってるの。でも嫌だからって逃げてもしょうがないじゃない。家のことだもの」 映海の言葉が真っ直ぐに俺を貫く。謝っても仕方のないことだということはわかっている。俺はごめんの一言を飲み込んで、唇を噛んだ。 「お兄ちゃんはずるいわ。現実から逃げて、面倒なこと全部放り投げて」 「……、」 「ねぇ、逃げって癖になるんだって。今の生活にがたが来たらまた逃げ出すんでしょう?」 「そんなことねぇよ……」 「あるわよ。一生そうやって逃げるのよ。誰かに必要とされるまでね。そうよね、家でも大学でも、みんなお兄ちゃんを日生家の長男としてしか見てくれなかったものね。だから日生の重荷から逃げたんでしょ。それでまた居心地が悪くなったら逃げればいいんだもんね。気楽な人生だわ」 映海の挑発的な言葉に俺は映海を睨んだけれど、映海は怯むことなく、長い髪をいじりながら先を続けた。 「お兄ちゃんは実感したかっただけなんだわ。自分は必要なんだって。日生家の長男としてじゃなくて、日生耕平として必要とされたかったのね。でも、そんなの、我儘言ってる子供と一緒じゃない」 黙り込むことしかできなかった。雑音ばかりがどんどん大きくなっていく。 「俺……は……」 「もういいわ。今日呼び出したのはそれが言いたかっただけなの。あたしがすっきりしたかっただけ。面倒ごと投げ出して逃げちゃったお兄ちゃんが気にくわなかったから。でも、それくらい許してよね。これからあたしがお兄ちゃんの分まで責任果たさなきゃいけないんだから」 全身がひどく痛む。映海は大きく溜息をついて、伝票とバッグを持って立ち上がった。 「あたし行くわね。もう一生会うことないでしょうけど……元気で」 映海が足早に去っていく。堪えきれずに落ちる頭を両手で支えた。映海が怒るのは当然だ。けれど俺は、あのまま道がどんどん細くなっていくことに耐えられなかった。誰も俺を俺として見てくれないことが辛かった。ずっと、誰も俺のこと何か見てくれないと思っていた。いつも心を閉ざしてきた。そうして自分を閉じ込めてしまう自分も嫌だった。 痛みは癒えるどころかひどくなる。頭を上げて、立ち上がって早く帰りたいと思うのに、そうすることができない。頭を上から押さえつけられているような感じだ。いつまでも立ち上がれない俺の前で、映海の残したアイスティーの氷が溶けて音を立てた。まるで俺を嘲笑うかのような音。胸が苦しくて目を閉じると、暗闇の奥に永久の顔が浮かんだ。永久に会いたい。そう自然に思った。 結局カフェを出たのは映海が出て行ってから何時間も経った後だった。よろめく身体はなかなか言うことを聞いてくれず、マンションに着くまでに何度も人や物にぶつかってしまった。痛みは感じなかったけれど、気持ちの重さはどんどん増した。 エレベーターからふらふらと降りて、俺は部屋までの道のりを項垂れながら歩いた。足音が脳に響き、それが鬱陶しかった。 「――あ、おかえり」 前方からの声に、重い頭をゆっくりと上げる。俺の部屋の前に寄りかかった永久が小さく手を挙げたのがわかった。 「と……わ……」 「待ちくたびれた。どこ行ってたの?」 「……何で」 「店行ったけど随分前に帰ったとか言われるし、携帯繋がんないし。心配したよ」 視線を逸らさずにはいられない。がさがさとビニールが揺れる音。 「あ、マスターが二人で食べなさいって桃くれたんだけど。何かわざわざ買ってくれたみたいだよ。耕平くんに渡しそびれたからって……耕平くん?」 一歩も動けない俺を不思議に思ったのか、永久が近付いてくるのが足音でわかった。つ、と細い線が身体を抜けて、涙が出そうになる。きっとずっと堪えていたのだろう。でももう少しでも動いてしまったら堪えきれなくなる。 「耕平くん……どうかした? 具合、悪いの?」 永久の薄い手の平が目の前に差し出される。細く長い指。込み上げる感覚。俺は差し伸べられた手は取らず、代わりに永久の胸に身体を投げ出した。衝動的に、そうしてしまっていた。驚いたらしい永久ごとその場に倒れ込んで、永久が尻餅をついた。 「いっ……」 「……悪い」 「耕平くん?」 「……、」 「どうしたの。大丈夫?」 「動くなよ」 「え?」 「……動いたら殺す」 声が弱々しく震える。永久のシャツを背中で掴みながら、俺は薄い胸板に頬を押しつけた。熱が触れたところを中心に揺らめいて広がる。苦しみの中に確かな温かさを感じる。こんな気持ちは初めてだった。 「……耕平くん」 「……」 「泣いてるの?」 「……泣いてない」 「……けど」 「泣いてない……って……」 「……、」 「泣いてないからな……」 「……ごめん」 ぽつりと永久は呟いて、それから俺を抱き締めた。隙間がなくなって、額が永久の肩口に埋まる。骨っぽい男の身体なのに、抱き締められていると心音がこんなにも凪ぐ。安堵が小さな波紋のように広がった。 「耕平くん、冷たいよ」 「エアコン効いたとこ、いたから」 「そっか。でもオレずっと外いたから丁度いいかも」 「……いつから」 「え?」 「いつから……いたんだよ」 「わかんない。忘れた」 「……馬鹿じゃねぇの」 「そうかな」 「馬鹿だ……」 「うん、でも、帰ってきてくれてよかった」 永久は俺を抱き締め直しながら少しだけ笑って、俺の背中をとんとん、と軽く叩いた。温かく、優しく。俺は嗚咽を堪えて、けれどこぼれ落ちた雫が永久の肩を濡らした。ずっとその言葉を待っていた。そして誰かの温もりを感じたかった。 どこかで爆発音と騒がしい声が上がる。きっと、あの公園で誰かが花火をしているのだろう。永久と手を繋いだあの公園で。俺はその音に紛れるくらいの声で、永久の名前を呼んだ。言葉にするたび、本当に焦げてしまうのではないかと思うほどに胸が熱くなった。

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