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オール・マイ・ラブ

さらさらと小雨が降っていた。本格的な夏を目前に、空はまるで子供がぐずるように力ない雨を落としてくる。お陰で昼間も気温は上がりきらず、夜になると少し肌寒さを感じるくらいだった。雨が柔らかく薫る。 仕事を終えると、真っ直ぐ永久の部屋へと向かうことが多い。永久の仕事の時間にもよるけれど、俺は夜のシフトが多く、永久の方が少し早く帰って家で夕食を作っていることが多いからだ。永久が休みだったり早く仕事が終わったりすると、相変わらず俺を迎えに来ることもある。永久の方が忙しくなってきたので回数は減っているけれど。暇なの、と聞く俺に、永久はいつもまぁね、と笑った。本当は暇なんかじゃないことは、もちろんわかっているけれど。 永久の部屋のインターフォンのボタンを押して、俺は一呼吸ついた。ちらりと見やった自分の部屋のドアは何だか他人行儀な顔をしている。細かく軽く、ここまでかすかに寄ってくる雨のせいかもしれない。視界に靄をかけるように漂って、距離感を狂わせていた。 「――おかえり」 少ししてドアが開けられると、現れた永久は笑みを浮かべた。きれいな丸い目を緩く細める。 「疲れた」 「お疲れさま。ご飯できてるよ」 「んー、今日な……に……」 玄関に入るなりキスをしてくる。唇が離れた後でドアがぱたんと音を立てて閉まった。降りた影の隙間から光がつ、と漏れる。 「……あと五秒待てなかったのかよ」 「五秒?」 「ドアがちゃんと……閉まるまで」 「うん。待てなかった」 永久は何でもないように言って、俺は部屋に上がった。永久の料理が温かな湯気を立てている。 「ていうか、そもそもオレの部屋より向こうは耕平くんの部屋しかないんだから、誰にも見られないよ……あ、今日、ナシゴレンと生春巻きと何かそれっぽいスープ。自信作」 「何かそれっぽいって何」 キッチンで手を洗った俺は思わず笑いながら永久のいるメインルームへと入った。店で出すように見栄えよく作られた料理。おいしいに決まっている。永久の料理がまずかったことはない。それに料理の腕を明らかにあげている。 「トムヤンクンかなぁと思ったんだけど、レシピわかんないから、記憶を頼りに作ってみたんだけど」 「……お前、料理でも食ってけるんじゃねぇの」 永久は笑って食べよ、と言った。永久の向かいに座って手を合わせる。スープを一口飲んで、俺はおぉ、と感嘆の声を思わずあげた。 「何これ、うまいじゃん」 「そう? よかった」 「お前仕事終わってからこれ作ったの?」 「簡単だよ」 スイートチリソースに生春巻きを絡めながら永久は笑った。料理の難易度は俺にはわからないけれど、永久の仕事が忙しいことは確かだ。永久の仕事はとにかく朝早いことが多いので、午前中はほとんど寝て過ごすような俺とは違う。そして去年より明らかに仕事の量は増えていた。永久は俺に泣き言を言ったりはしないけれど。 「あ、そういえば雨まだ降ってた?」 「あー……うん。ちょっと。小雨」 「そっか。オレ帰ってきた時は結構降ってたんだけど」 「あー、気付かなかった……けど……」 窓の方を何気なく振り返って、俺はふと床に転がった雑誌に目を留めた。永久のあ、という気まずげな声がとん、と後頭部を突付く。俺は箸を持ったままそれを引っ張って取った。 「……何これ」 俺は永久に聞いたけれど、聞くまでもなく、それは賃貸情報雑誌だった。様々な物件が所狭しと掲載されている。雑誌を手に前方を向くと、永久が俺から目を逸らして小さく息を吐いた。鼓動が嫌な感じにうねる。 「賃貸情報誌」 「……永久、引越すの」 「すぐには引越さないよ。ただ……」 「ただ?」 首を傾げると、永久は緊張した様子で俺を見据えた。どくん、と心臓が跳ねる。 「……耕平くん、今の生活どう思ってる……?」 「どう……って……」 突然変な風に話を切り出されて、俺は動揺して俯いた。 「耕平くんさ……だいたいいつもオレんとこで飯食って……オレんとこで寝るのもまぁ多い……じゃん?」 「……まぁ」 「耕平くんのとこの家賃、勿体ない……かな、とか。でもさすがにここで二人はきついかな……って」 永久はへらりと笑って、俺は雑誌を持った手を下ろした。俺は永久の言わんとしていることをようやく察して、安堵に息を吐いた。一瞬別れ話かと思ってしまった。 「それはそうだけど……でも、雑誌買う前に俺に相談……とか。お前が一人で引越すのかと思って……びっくり……しただろ」 俺の言葉に永久ははっとして、慌てた様子でごめん、と謝った。俺はまた息を吐く。 「ちょっと本屋に行ったらたまたま目に入ったから。ほんとはもうちょっと自分で考えてから話そうと思ってたんだ」 「……そ……う」 「うん。でも、耕平くんさえよければ、もうちょっと広いとこ、一緒に探して……ちゃんと一緒に住みたいって……思ってるんだけど」 「……まだ、ここ越してきて一年だろ」 「うん、そうなんだけど」 「つーか、無理。俺金ない」 「……」 「……今も一緒に住んでるようなもんだし……っていうか、マジで金ないって……」 永久が言っているのは状況だけではなくて形のこともだろうとわかっていたけれど、俺はそう誤魔化した。モデルとして売れ始めた永久と違って、バーのアルバイトだけでは正直言って俺の方は生活で手一杯だ。貯金はまだあるけれど、引越しにそのほとんどが飛んでしまうことはできれば避けたかった。永久の提案はわかるし、俺だってその方がいいとは思うけれど、すぐには無理だ。いっそ壁に穴を開けて隣同士の部屋を繋げてしまえたらいいのに。俺が永久の方を伺っていると永久は少し考えて、それからぱっと明るい表情を浮かべた。 「あ、じゃあ、オレが出すよ」 「は、いいよ、そんなの……」 「耕平くんは身一つで来てくれれば……」 「……いいって」 「けど」 「いいって言ってるだろ!」 俺は思わず声を荒げて、永久はびくりと肩を揺らした。俺ははっとして、けれど訂正してやることはできなかった。永久に資金を出してもらって、それで新しい部屋に同棲のために移り住むなんてことはしたくなかった。けれど俺は現状費用を負担できない。自分で自分に腹が立った。永久は悪くないのに。 「……ごめん」 「あ、や、オレの方こそ……ごめん」 何だって、二人して謝り合っているのだろう。沈黙が真っ直ぐに空気を割る。まるで宇宙空間にいるかのような静けさは、ひどく居心地が悪かった。料理は冷めて、スープはもう湯気を立ててはいなかった。 「……あ、料理、冷めるね」 「え、あ……あぁ」 「この話、はもう終わりにして……食べよ」 「……ん」 珍しく永久が食い下がらなかったのは、きっと俺が声を荒げた理由を察したからだろう。俺たちは二人で白々しく明るい話題を出しながら、食事を続けた。ちゃんと話さなければならないことはわかっていたけれど、うまく説明する自信がなかった。妙なプライドが邪魔してしまいそうだったから。 永久の自信作のナシゴレンと生春巻きとそれっぽいスープは、どれもおいしかったけれど、スイートチリソースの鮮やかなオレンジ色はぎくしゃくしている空気には馴染まなかった。俺たちは時折気まずい沈黙を迎えながらどうにか食事を終えて、その頃にはぐったり疲れてしまっていた。 とても珍しく、俺から永久をベッドに誘った。ぐずぐずと外の世界を濡らしている小雨のように、心の中に薄く靄がかかっていて、それを少しでも晴らしたかった。晴らすにはしなければならないことがあるとわかっているのだけれど。体を繋げることで少しは素直になれることを願った。 「……耕平くん」 「ん……」 行為のあとで、永久が目にかかった前髪を梳いて、繋がりを解きながらキスをしてくる。さらりとした髪を冷たい汗が伝った。 疲れてしまった俺たちはシャワーを浴びる気にもなれなくて、べたつくところを簡単に拭っただけでベッドから動かなかった。肌はかすかに汗ばんで、冷たいシーツが心地いい。 「……よかった」 「うん……オレも」 永久の指が俺のそれに絡められた。永久の方が体温が高いのはいつものことで、今日も触れたところから熱を吸収していく。握った手に力を込めて、俺は吐息を漏らした。静かな部屋では、大抵の音を拾うことができる。俺の小さな吐息も、随分大きく聞こえた。 「……永久」 「うん?」 「あのさ……」 「……どうしたの」 「……俺……お前と一緒に住みたくないわけじゃない……から」 囁きのような小声は、それでもやっぱり聞き取るのには十分の大きさだっただろう。永久が息を吸う音がして、それから俺の体は引き寄せられた。 「わかってる。ごめんね」 「ん……」 謝って欲しいわけじゃない。悪いのは俺の方だ。そう話そうと思ったのだけれど、引っかかっていた言葉を口に出せたことに安心したのか、俺の意識は一気に半分ほど眠りの中に入ってしまった。落ちていく中で、永久のキスを感じる。キスはいつも以上に、優しかった。 目覚めは唐突に訪れる。小鳥がち、ち、とさえずる声がぼやける意識の中でクリアに聞こえた。俺は険しい顔をしてもぞもぞと体を動かす。カーテンの隙間から真っ直ぐに白い光が差し込んでいて眩しい。 「っん……んー……あさ……?」 シーツが擦れる音。物音で目覚めたらしい永久が細い腕を折り曲げて目元を押さえた。一足早く起きた俺は、ゆっくりと体を起こす。布団が肌を滑り落ちて、朝の空気に素肌が触れると、それはとても心地よかった。 「んー……おはよ……」 寝起きのいい永久は少し声をぼやけさせながらも身体を起こして、俺の頭に手を添えるとキスをしてきた。起き抜けなのに、永久の寝起きの良さにはいつも感心する。 「……はよ」 「何時……?」 「……あー……六時……前」 「……はや……耕平くん仕事何時?」 「俺は夕方から……お前は」 「今日は午後から」 どうやら午前中は一緒にいられるらしい。永久は狭いベッドの上で伸びをして、ベッドはぎしりと軋んだ。差し込む光の眩しさで、随分いい天気だということがわかる。雨は止んだらしい。けれど部屋に漂う空気にはまだ雨の気配が残っているようだった。 順番にシャワーを浴びて、後に入った俺がバスルームから出ると、部屋にはバターの焦げるいい匂いが漂っていた。朝の薄青色をした四角い箱の中に、その匂いは緩やかな波模様を描いて広がる。永久の部屋で何度も迎えた、この朝の感じが俺は好きだった。昔は朝なんか嫌いだったのに。 「あ、耕平くん、パンとコーヒー運んでもらっていい?」 「ん」 俺に気付くと、永久が焼き上がったトーストと淹れられたばかりのコーヒーの方を目で指した。言われた通りに二人分のトーストとコーヒーを持ってメインルームに運ぶ。少しして永久がハムエッグと切った桃を持って部屋に入ってきた。料理たちが小さなテーブルに並べられて、朝食が始まる。俺は早速トーストにバターを薄く伸ばして、熱いそれを齧った。香ばしさとさくさくした食感が広がる。 「……晴れてるね」 「ん?」 「外、いい天気そうだよ」 トーストを咀嚼しながら、窓の方を改めて振り返る。煌めいた光が零れ落ちる。昨日の鬱々とした雨が嘘のように。 「あー……」 相槌を打とうとした俺はふと昨日の賃貸情報雑誌がどこにもないことに気が付くと、息苦しさを感じて、俺は前を向き直った。永久がどうかした、と目で聞いてくる。 「……本当に。いい天気だな」 ね、と永久は笑った。じわじわと蝉の声も聞こえてくる。心の奥底に罪悪感が小石のようになって留まっている。けれどどうすることもできない。今の俺には。 「耕平くん、午前中暇?」 「え、あー……まぁ。仕事まではすることねぇし」 「じゃあこれ食べたらちょっと散歩しようよ」 「散歩?」 「せっかくいい天気だし、勿体ないよ」 いい天気というより、暑いだろう。そう思ったし、いつもの俺なら言葉にしてしまったような気がするけれど、今日はそういう気にならなかった。真夏の色が差し始める外をまたちらりと見やって、俺は頷いた。 「いいよ」 「あ、でも暑そうだなって思った?」 「まぁ……ちょっとだけ」 「たまには耕平くんも太陽浴びないと」 「ん……」 俺はまた頷いて、コーヒーを一口啜る。インスタントコーヒーなんてこの生活を始めるまでほとんど飲んだことがなかったけれど、慣れればこれも悪くない。何より手間がかからないし。 「あ、耕平くん、桃も食べてよ」 「え、あー、うん、食う」 「はい」 「え……ん……」 永久が直に桃を手にとって、俺の口に押し入れた。つるりと瑞々しい桃が滑り込む。冷たく甘い感触ごと、熱に蕩ける。永久は指を舐めながら微笑んだ。爽やかな朝にそれは随分甘美に感じられて、頬がかすかに紅潮するのがわかった。ふとした瞬間、俺の身体は溶けそうになる。永久と出会ってもう一年が経とうとしているけれど、それは日増しに確かになっていく。慣れるほどに、いつまでも慣れない一瞬が浮き立つのだ。それはきっと、これからも変わらないのだろう。仕返しに大きな桃を永久の口に押し入れながら、俺は思った。 外は俺が思っていたほどには暑くないようだった。柔らかなアスファルトや、重く揺れる緑、蒼い匂い。まだ昨日の雨の影響はそこかしこに残っている。けれど日差しは力強い。もう何時間かでこの熱が雨の残骸を掻き消すのだろう。 マンションからすぐの公園に入ると、一瞬で緑が薫った。蝉の鳴き声がやかましいけれど、濃いブルーの空は広く、心地いい。まだ子供たちの夏休みには入っていないらしく、公園を突っ切って登校していく小学生の姿がちらほらと見えた。永久は俺の少し前を歩いている。ここからでもわずかに見える変装用にかけた眼鏡は、俺がフレームを選んだものだ。深いブルーは永久によく似合ったし、却って目立つようにも感じられる。こうして朝の公園をぶらつく永久は、それだけで絵になった。俺がカメラマンなら迷わずシャッターを切るだろうな、なんてことをぼんやり考えていると、永久が振り返って笑った。 「何、ぼうっとしてんの?」 「……あー」 口に出すのも悔しいので視線を逸らして黙っていると、突然永久が耕平くん、と俺を呼んだ。 「え……っ」 夏の密度を増していく空間には、はっきりと異質な、電子音が響いた。俺は突然の出来事に驚いて、電子音の元である小さなデジタルカメラを手にしている永久はけらけらとカメラのディスプレイを見ながら笑った。 「すっごい……超びっくり顔だよ、これ」 「……おい」 「現像決定」 永久はうれしそうにそう言って、今度は雨の匂いを揺らす濃い緑にカメラを向けてシャッターを押した。短い電子音がまた響く。俺は見たことのない永久に戸惑って、また歩き始めた永久に並んだ。 「おい、消せよ、今の」 「やだ」 「っていうか、何、お前カメラなんか持ってなかっただろ」 「昨日買ったんだ。カメラマンの人に薦めて貰って。初心者におすすめのオートフォーカス、高感度手ぶれ補正。いいでしょ、小さくて」 永久はまたカメラを俺の方に向けて目を細めた。今度はシャッターは押さず、ちょうどすぐ傍にあったベンチに腰を下ろした。木陰のベンチにはまだらに光が差している。俺は息を吐いて、隣に並んだ。 「……何なわけ」 「んー、何か、最近カメラ楽しくて」 「初耳」 「雑誌の企画でさ、あったんだ。俺が街歩いて、撮った写真を載せるってやつ。何か、楽しくて」 「……カメラマンでも目指すのかよ」 永久はうーん、と唸って、小さなチタンシルバーのカメラを撫でた。硬質な金属にも緑の影が落ちていた。 「わかんない。でも、まぁ、モデルじゃ一生食べていけないしね」 「……、」 「わかんないけど……まぁ、趣味でも。無駄にはならないし。写真撮るのは好きだよ」 永久の口から将来の話が少しでも出てくるのは珍しいことだった。俺はふぅん、と相槌を打って、ベンチに背をもたれた。木の温度が背中を冷やす。 「モデルの仕事は正直、成り行きで始めちゃったし……今でもよくわかんないとこあるけど……それでもずっとやってるのは、もしかしたら写真が好きだからなのかもね」 俺は永久が今の仕事を始めた理由を、断片的にしか聞いていなかったけれど、始めた頃も今も、モデルという仕事に対して執着はあまりないらしかった。モデルをいつまで続けるのかと聞いた俺に永久は笑いながら必要とされなくなるまで、と答えたこともある。 「せっかくカメラ始めたし、これからは耕平くんとオレの美しい日々を記録していこうと思って」 「美しい日々って……」 「美しい日々だよ。オレが今まで生きてきた中で、一番満たされてる。ほんとだよ?」 永久は落ち着いた口調で言って、その口調とは反対に俺の胸は熱く波打った。俺だって、俺の人生の中で一番満たされていて、何よりも今が大事だ。永久と出会えたことを心から感謝している。ずっと一緒にいたいと思ってるし、本当は俺だって埋められる距離はもう全て埋めてしまいたい。少し怖いとも思うけれど。 「……永久」 「んー?」 目の前を通り過ぎていく首輪のない猫にカメラを向けていた永久はそれを止めて、俺の方を向いた。俺の視線はマイペースに去っていく猫に向けられている。 「俺……さ……」 「うん」 「俺……昨日も……言ったけど、お前と一緒に住むのが嫌なわけじゃない。今も同棲同然だからいいとか、お前がそういう意味だけで言ってるわけじゃないってわかってる」 しばらく間を置いて、永久がうん、と言った。永久の声はこんなに短くても、いつも柔らかく俺の耳を震わせる。 「でも……でも、大学辞めて、家飛び出して……それは全然後悔してないけど。俺まだバイトだし……収入もお前より低いし、不安になることもある……し……」 「……」 「だから……何つーか、もう少し……待って欲しい。俺がもうちょっとちゃんと……自立してるって、思えるまで」 次々と仕事が舞い込んでくる売れっ子モデルの永久と、アルバイトバーテンダーの俺と。俺は永久を愛しているし、永久もそれはきっと同じで、だから比べることなんて本当はしたくないけれど。でも、俺も永久も男なのだ。だからせめてもう少し、少しでいいから俺は仕事でも前に進んでいるところを形として実感したかった。永久がうん、と短く答える。 「……耕平くんは、今の仕事好き?」 「え……ああ……好きだよ」 俺は頷く。初めは条件につられて始めたバーテンダー見習いの仕事が、今はとても楽しかった。自分で思ってきた以上に俺は人と関わるのが好きなのだ。おいしい酒を出して、客と話をすること。それがこんなに楽しいとは思っていなかった。それは確かだ。だからもっと上に行きたい。俺が頷いたのを見て、永久は柔らかく目を細めてみせた。 「オレも頑張るよ」 「え?」 「ちゃんと、オレも自立してるって思えるように、頑張る。だから、いつかは一緒に引越そ」 「……ん」 「だから、傍にいて。離れないで」 永久はよく、この類の言葉を口にする。離さない、ではなくて、離れないでくれと俺に言う。それは優しい永久らしい言葉で、けれど俺の胸はいつも切なくなった。俺だって永久が離れていかないかと心配するのに。俺は息を吐いて、永久を小突いた。 「どこも行かねぇよ」 「……うん」 「お前こそある日突然ふらっといなくなったりすんなよ」 「しないよ。するわけないじゃん」 「……引越すのかと思った時、心臓止まりそうだった」 永久は一瞬驚いたような顔をして、それから手を伸ばしてきて俺の髪をくしゃりと撫でた。骨っぽい指の感触が内側を細かく揺らす。胸が苦しかった。 「……耕平くん」 「ん……」 「俺、耕平くんのこと好きだよ」 「……、」 「去年より、昨日より、耕平くんのこと好きだ。明日はきっともっと好きになるよ」 熱い吐息が漏れて、吸い込まれるように、俺は永久のキスを受けた。人通りがないとはいえ、こんな朝から、こんな公共の場所で。けれど咎める気は起きなくて、触れるだけのキスを数秒交わし、唇は離れた。永久の眼鏡は少し邪魔だったけれど。 「永久」 「うん……」 「俺も……お前のこと、好きだよ」 永久と違って俺は滅多なことではこんなことを言ったりできないので、言った後にはものすごい恥ずかしさが俺を襲った。顔を覆って俯いていると、ベンチがきし、と軋む。少しして耕平くん、と永久が俺を呼んだ。 「……っ」 顔を上げるとすぐに電子音が聞こえた。永久が緩く口角を上げる。 「今のも現像決定」 「っ……」 「タイトルはオール・マイ・ラブ。どう?」 永久が笑う。怒ろうと思っていたのに、そのタイトルのしょうもなさに呆れてしまって、俺は火照った頬を冷やすように空中を扇いで立ち上がった。 「最低のタイトルセンスだな」 「今のオレの心情を的確に示した言葉だと思うんだけど」 「どこがだよ」 「I realy realy realy love you, forever……って感じ」 馬鹿じゃねぇの、と笑って、俺は永久の手を取った。人がいないのをいいことに。手を繋いで、来た道を戻っていく。もう昨日の雨は今日の日差しに飲み込まれる寸前といったところだった。 すぐに光は満ちるだろう。真夏らしく。永久と俺が出会った季節らしく。

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