1 / 27
第1話
スニーカーのつま先が身体の内側にめり込むような衝撃が走った。声が押し込められて、潤(みつ)は腹部を押さえる。夕闇の迫る校舎裏に潤と潤を囲む数名の少年以外には誰もいない。長く伸びる影が潤を重く照らしていた光を遮って、固く閉じた目の奥に感じる光は一粒もなかった。
衝撃による息の詰まりがようやく薄らいで、げほ、と苦しさを吐き出すと、すぐに次の一撃が今さっきとは別のところから放たれた。潤は目を閉じて身体を丸めて、ひたすら早く終わることを願う。まだ元気があると悟られていると大抵終わらない。憔悴しきって本当に動けなくなるまで、いつまでも続くのだ。一発目だけでももう、十分痛いし苦しいのに。潤は終わるのを待つことしかできない。
髪を引っ張られて、今度は頬を殴られる。潤の身体は簡単に吹き飛んで、すぐ後ろのブロック塀に激しく打ち付けられた。涼しい顔してんじゃねぇよ、という罵声が遠くから聴こえる。悲痛な顔をして泣き叫んだところで終わらせはしないくせに。朦朧とする頭で潤はそんなことを考えた。頭がおかしい。生意気だ。死ね。言い返すことがどんなにエネルギーの無駄かはよく知っているので、何も言いはしないけれど。飽きもせずに繰り返される言葉。ガリ勉。変人。こう何度も言われているといちいち気にならなくなるんじゃないかという気がしていたけれど、そんなことはなかった。いつも、いつまでも簡単な言葉の羅列に傷つく。終わらない。きりがない。
潤を知る人間は、皆一様にお前は変だと言う。それは唯一の潤の肉親である祖父ですら同じで、お前は普通じゃないのだから、まずそれを理解しなさい、と祖父は口癖のように潤に言った。けれど、皆潤が普通じゃないことは教えてくれても、どう違うのか、どうすれば普通になれるのかは教えてくれない。だからこの行為もいつまでも続く。
身体から何かが抜けていくように動けなくなっていく。代わりに潤の身体は痛みと苦しみで満ちた。いつもと同じ。皆、悪いのはお前だと言う。誰もがそう言うのだから、その通りなのだろう。答えなんて多数決のようなものだ。目は固く閉じられて光は更に遠のき、暗闇が濃くなる。どうせ目を開けたって、光は射さない。暗い影が覆いかぶさるばかりだ。
「――……っ」
朝の光がカーテンの隙間から零れるように射して、潤は慌てて飛び起きた。鼓動が大きく身体の内側から響いて、全身に張った汗の膜が表面を冷やした。呼吸は荒く、心臓にはいつまでもリアルな痛みが残る。
「朝……」
夢を見ていたことに気付くと、潤は胸を押さえて長い息を吐き出した。毎朝のように同じことを繰り返している。忘れようとしてもそれは土台無理な話で、どうすることもできずにいつも悪夢にうなされながら眠る。目覚めた時には少しの安堵があって、けれどそれもすぐに引いてしまう。
「……」
潤は溜息を吐くと、ベッドヘッドに手を伸ばして煙草を取り出し火を点けた。カーテンを開けてベランダの窓を乱暴に引き開ける。柔らかな春の匂いを馴染ませた風がするりと部屋に入り込んだ。熱を持った身体を優しく冷やす。煙草の煙が胸の中の痛みごと吐き出される。煙草を吸うといつもほんの少しだけ気楽になれた。
ぼんやりと煙草をふかしていると、突然電子音が高らかに鳴り、けたたましさが朝の静寂を突き破った。
「……っ!」
潤は驚いてベッドに両手をついて身体を持ち上げると、音の源を探して部屋を見回す。散らかった狭い部屋に、こんな騒々しい音を発するものはいくつもない。すぐにそれが携帯電話の着信音であることに気付くと、潤は慌ててベッドから出て電話を取った。ここに引っ越してきてから何度も鳴っていない電話のベル。触れたボディは固く冷たかった。
「――はい」
煙草の灰を灰皿に落として、潤は緊張を夢から引き継いだまま電話に出た。さらりとしたノイズから、すぐに甲高い声が鼓膜を乱暴に震わす。電話の相手は口早に入学予定の大学の事務の人間であることを名乗って、潤はその不快な声に思わず顔を顰めた。
「急なお電話ですみませんね。日和佐潤(ひわさみつ)さんにぜひお願いしたいことがありまして、ご連絡させていただきました」
「……お願いって?」
「あ、ええ。難しいことではなくて、代表挨拶を日和佐さんにお願いしたいんですよ」
「代表……」
「ええ。医学部の入試であなたが首席でしたので、新入生を代表して入学式挨拶をしていただきたいんです」
鉄の塊が胸の中に落ちてきたような気の重さを感じて、潤は溜息を吐いた。代表だなんて冗談じゃない。目立つのはごめんだ。けれど相手は潤に話すチャンスを与えずに先を続けた。
「当日は式の二十分くらい前に余裕を持ってお越しいただいて……簡単にリハーサルを行いますので。よろしいですね?」
「あぁ――え?」
潤が相槌を打っただけで、相手は安心したように明るい声でそれではどうぞよろしくお願いします、と言ってさっさと電話を切ってしまった。断るつもりでいた潤は電話を持ったまま硬直して、けれどもう一度電話をかけ直して断るというのも面倒に思えた。首席が挨拶できなかったとしても、あの押しの強さがあれば当日でどうにかするだろう。
無責任なことを考えながら、諦めるように細い煙を燻らせる煙草を取ってゆっくりと吸い込んだ。胸にじわりと染みる。入学式は三日後だ。
着替えを済ませてバスルームで顔を洗っていると、今度は部屋のチャイムの音が狭い空間に響き渡った。バスルームの壁を音が反射して何重にもなりながら返ってくる。潤は動揺して、後方を振り返った。無機質なバスルームのドア。その向こうは途方もなく暗い水の底のように思えた。
「……珍しい」
電話に、チャイムに。こんな日は一年に一度だってあるかどうかだ。拭き取り切れていない水滴が頬を真っ直ぐに伝った。潤は短く息を吐いて、バスルームから出る。とにかく狭い部屋なので、バスルームを出るとすぐに玄関だ。薄暗い玄関からドアを開けて、現れたスーツを身に纏った男の顔を見上げると、潤は安堵に胸を撫で下ろした。
「萱野(かやの)さんか……」
現れた男は萱野澄樹(かやのすみき)といい、中学生の頃に唯一の肉親である祖父を亡くして以来、親類のいない潤の後見人を務めているまだ年若い弁護士だ。潤の過去も含め、潤のことをよく知っている。澄樹は無表情でおはよう、と言って、それから辺りを見回した。
「誰か待ってるの?」
「どうして?」
「残念そうだから」
「そんなわけないよ」
この部屋に澄樹以外の人間が来ることなんてない。澄樹は当然それを理解しているはずで、苦く笑いながら手にしたビニール袋を胸の辺りに掲げた。肩からは大きな紙袋をかけて、空いた手には重そうな皮のバッグを持っている。重装備だ。
「これ。おみやげ。シュークリーム」
「ああ……ありがと」
「ちょっと用事があってね。近くでクライアントと会うから、そのついでだけど」
澄樹は用事がなければ、無理に呼びつけでもしない限り潤の元を訪れたりしない。それでも今の潤にとってはまともなコミュニケーションを取れる唯一の相手で、突然の来訪を突っぱねる理由はなかった。潤はビニール袋を受け取って、澄樹を部屋へと迎え入れた。静けさが更に強調されて、開け放した窓から入ってくる風が部屋を涼しくしている。
「……また、随分と散らかしたな」
六畳のメインルームに入ると、澄樹は部屋の中を見回して呆れ混じりに言った。潤はいつも通りの部屋をぼんやりと眺めて、仕方なくローテーブルの上にビニール袋を置くと周辺に散らばったルーズリーフを適当に集めた。
「先週引っ越してきたばっかりじゃなかった?」
「そうだよ」
ルーズリーフの池となっていた床に人の座れる面積程度のスペースを作って、潤は澄樹にそこを目で指し示した。澄樹がそこに腰を下ろし、まだ散っているルーズリーフの一枚を拾い上げた。床を埋め尽くしているものの九割はルーズリーフであり、それはいつも潤が暇つぶしに数式や証明問題を解いた後に残ってしまうものだ。数式を解いている間、潤は常に集中し、何も考えずにいられる。ただ時間を経過させるのには最適だった。
「解くのはいいけど残骸は棄てたら?」
「今棄てる」
澄樹の向かい側に同じようにスペースを作って、それなりの厚さになったルーズリーフの束をごみ箱に押し込む。ただの暇つぶしなので取っておく必要はどこにもない。潤は息を吐いて澄樹の向かいに腰を下ろした。澄樹が開けるよ、といってビニール袋からシュークリームと缶の紅茶を取り出す。
「どう? ここ、少しは慣れた?」
大学に合格して、潤はそれまで住んでいたマンションを引き払い、この小さなアパートに越してきた。家は確かに狭くなったけれど、生活自体は変わらない。一人のまま。潤は曖昧に首を傾げて、受け取った缶のプルトップを開けた。温かな感触。でも心はどこか寒々しい。
「……と、時間、ないんだった。潤くん、これ」
澄樹は時計を見ると少し焦り出しながら脇に置いていた紙袋を手に取った。
「……何、これ」
「スーツ。もうすぐ入学式だろう?」
「スーツ?」
「そう。入学式はスーツで行った方がいい。どうせ言ったって自分じゃ買いにいかないだろう? 今着て、サイズ確認して。直しが必要なようであれば、大至急でやってもらうから」
てきぱきと中身を取り出して、潤に差し出す。潤は仕方なくそれを受け取ると、渋々着替え始めた。
細身のブラックのスーツに、白地にグレーのグラフチェックのワイシャツ、ブルーが基調のネクタイ。確かに命令されても自分では買いに行かないだろう。どのみち入学式に出る気はすでにほとんど失せているのだけれど。
「ネクタイ自分でできる?」
「……したことないよ」
「じゃあ貸して。形、作っとくから。そのまま首からかけ……」
Tシャツを脱いで、ワイシャツの袖に腕を通していた潤は、澄樹が立ち上がり近付いてきたところを見計らって腕を引き寄せた。そのまま澄樹の唇に自分のそれを押し付ける。
「んっ……ふ……」
舌を絡めると、澄樹が潤の口内を一周して、すぐに唇を離した。
「……時間がないんだ。早く着替えてくれよ」
潤はちぇ、と舌打ちして、着替えを再開する。さらりとした肌ざわりが心臓を冷たくした。
必要な時、怖くて一人でいられないとき、潤は澄樹を呼び、澄樹は大抵やってきて潤の要求に従う。それが彼の仕事だ。死んだ祖父の頼みなのだという。もちろんその頼みに潤を抱くことなど含まれていないことはわかっているし、初めて頼んだ時には澄樹は不愉快げに眉を顰めたけれど、最終的には仕事の一部ということで強引に彼を巻き込んだ。同情心を利用した卑怯な手だったことは自覚している。でも澄樹は潤を見捨てられない。
「それにしても、意外だったな」
ワイシャツとボトムを着た潤の首にネクタイを結びながら澄樹が独り言のように呟いた。潤は視線を上げて、目の合った澄樹はあぁ、と声を零した。
「確かに君は超がつくくらい優秀だけど……大学に……いや、医学部に入るとは思わなかったから」
「……」
「人助けに興味があるの?」
「……ないなら、医学部になんか入らないよ」
潤は目を閉じて、それからゆっくりと息を吐き出した。きゅ、とネクタイが締められる。
「……ジャケット着て」
渡されたジャケットを大人しく羽織る。二つあるボタンの一番上を締めると、澄樹が少し離れて潤の全身を眺めた。
「少し裾長い……か……でも、まぁ、大丈夫そうだな」
「……ん」
「鞄と靴も入ってるから。靴、サイズ確認しておいて」
「わかった」
「はい。じゃ、僕は行くから」
澄樹はそう言うと、慌ただしそうに部屋から出て行く。潤は黙ってそれを追って、玄関まで行くと、澄樹が振り返った。
「楽しんで」
「……何を」
「大学だよ。決まってる」
澄樹はそう言ったけれど、潤はうまく表情を作ることができずに俯いた。ドアが開けられると柔らかな光がフローリングに筋を作る。澄樹が出て行って、ゆっくりと閉じるドアの動きに合わせて潤は壁に寄りかかる。
澄樹が初めて目の前に現れた時のことを思い出すと、溜息が零れる。あの時、ドアの向こうに広がるような光は感じなかった。あるのは絶望だけだった。絶望を生き抜くために、潤は澄樹に抱かれた。そうさせた。それなのに、今、自分は彼がいなければ生きていられない。
「馬鹿だ……」
力が失われるように、瞼が落ちる。瞼の奥にはただ、春の柔らかな光が遠い思い出のように黄色く残っていた。
ともだちにシェアしよう!