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第2話

古い体育館には、細い光の筋がまばらに射し込んでいた。張り詰めた緊張感と、輝く期待感を持った学生の出す空気。その合間を、始まったばかりだというのにすでに入学式に飽きてしまっている学生の出す疲労感がゆらゆらと縫っていく。 ぎちぎちに埋め尽くされたパイプ椅子のひとつに腰を下ろしている篤史(あつし)は、完全に後者の人間だった。長い割にはありきたりで特に実のない話ばかり。入学式など形式的なものでしかなく、本当はやりたい人間などいないと思うのだけれど、実際のところはどうなのだろう。篤史は欠伸を噛み殺しながらぼんやりとそんなことを考えた。動かない時に眠気を誘われる。 来賓の一人である医学部の名誉教授の話はまだまだ終わりそうもない。篤史は何気なく配られたばかりの封筒から名簿を取り出して、暇つぶしにそれを眺めた。医学部の新入生は全体で二百名弱だ。その全ての名前が数枚の紙に渡って羅列されている。ぱらぱらとそれを捲って、まず自分の名前のところに目を留める。それからその周辺に目を向けて、ふと見覚えのある名前を見つけると篤史は小さく息を呑んだ。 「――羽沢(はざわ)くん」 その名前に意識を集中させていた篤史は、突然かけられた気まずげな声に驚いて肩を震わせた。慌てて舞台の方を見やると、まだあの名誉教授の話は続いている。それから声の聞こえた方を向いて、すぐには理解できない状況に顔を顰めた。 「羽沢篤史くんだよね?」 腰を低くして小声で篤史の名前を確認した男はどうやら大学の関係者らしく、腕章をつけている。入学式の最中に新入生の席まで来て呼ぶからには余程の事態なのだろう。そう思って、けれどそれが何なのかまではわからなかった。 「そうですけど」 「ごめん。ちょっと、来て貰えるかな」 「はあ……?」 呼ばれた理由が不可解なまま、篤史は男に連れ出されて体育館の脇まで出て行った。会場のほとんどの人間があまりの話の長さに疲れ始めているらしく、篤史の方に目を向けたのはごく一部だ。小声の話程度なら会場の静けさを壊さない程度の場所まで来ると、男は振り返って気まずそうに頭を掻いた。 「ごめんねぇ、式の途中に」 「いえ……それより、何事ですか?」 「あー……実はね……君にこの後の新入生代表挨拶をお願いしたいんだよね」 「代表挨拶……?」 不意の言葉に篤史はそれまで以上に驚き、瞠目した。新入生代表挨拶はどこの大学の入学式でも行われるだろうけれど、さすがに式の途中で依頼することは普通ないはずだ。 篤史の戸惑いを察した様子で、係員の男は困ったように頭を掻いた。 「いやぁ、本当は首席の子がやるはずだったんだけど……来なくてね……君が次席なんだよ」 「……来てない?」 「そうなんだよ、まったく……連絡も取れないし……あ、君、知らないかな。日和佐潤っていう子なんだけど」 「日和佐……?」 篤史はまたしても驚いて男の口にした名前を繰り返した。直接には知らないけれど、その名前は知っている。篤史でなくとも、おそらくこの会場にいる新入生ならばそのほとんどが日和佐潤の名前を知っているだろう。医学系の全国模試では、常にトップの位置にあった名前だ。上位者の中ではあまり見かけない現役生だということもあって他人のことにあまり関心を寄せない篤史ですらその名前はちゃんと記憶してある。確かにさっき見た名簿でも、篤史のすぐ下にその名前はあった。篤史はあの日和佐潤が同じ大学に進んでいたことに改めて驚き、代表挨拶をすっぽかしているということに更に驚いていた。 「知ってる? メールとか、できないかな?」 知っている様子を見せた篤史に男は興奮して詰め寄ったけれど、篤史も知っているのは名前だけだ。否定すると、そうだよね、と肩を落としてしまった。これだけの規模の入学式で代表が不在となれば、慌てるのも無理はない。篤史は諦めて短く嘆息した。 「原稿、読めばいいだけですか?」 「そう……あ、え、やってくれる?」 「そのために呼び出されたんでしょう」 「まぁ、そうなんだけど……いやぁ、話の早い子で助かるな。あ、これ、原稿ね。ついでだから、呼ばれたらここからあそこのマイクのとこまで行っちゃって。で、原稿丸々読めばいいから」 篤史が引き受けると言った途端に男の表情は明るくなって、篤史に原稿を押し渡すと、男はさっさとどこかへ行ってしまった。手渡された重厚感のある原稿を開いて、溜息をつく。 「日和佐、潤……」 行方不明の本来の代表のことが気になって、篤史はぽつりとその名前を呟いた。横目で、体育館の外で舞い散る桜の花弁を捉える。儚げな薄淡いピンク色の花弁が、その名前と共に篤史の脳に印象付けられた。 まるで永遠のように長い名誉教授の話が終わった後は、式は至って順調に、淡々と執り行われた。代表挨拶も何事もなく終わった。けれど突発的な事態に少しは緊張していたらしく、体育館を出ると篤史は溜息を吐いた。外は部活やサークルの勧誘で過ぎるほどに賑わっている。人込みの合間を落ちていく桜の花弁がとても小さく思えた。 入学式でのサークル勧誘の騒々しさは知識として知っていたけれど、実際にその場に立つと圧倒されるほどのエネルギーが放出されているように思えた。押し寄せるような騒音と、入学式の疲れを一気に感じて、篤史は静かな場所を探すことにした。この後にガイダンスがあるけれど、少し遅れたところで問題にはならないだろう。人の波を突っ切りながら、なるべく騒がしい方に目を向けないように、と視線を上げる。薄青い空は爽快で、けれどどこか虚無感を誘った。 そういえば、七月(なつき)にふられたのは春だった。空の色に唐突にそんなことを思い出して、篤史は内心で溜息を吐いた。思い出してしまうと、しっかり胸が痛む。 七月は幼稚舎からとうとう大学まで同じところに通うことになった幼馴染だ。元々両親同士の仲がよく幼い頃から何かと二人で過ごすことが多く、男だとか幼馴染だとか、そういうことを不自然とも思わないほど篤史はすんなり七月のことを好きになった。けれど高校に進んだ頃、七月は篤史ではない男を好きになった。七月が選んだ同級生の矢野幸大(やのゆきひろ)は、それまでの閉鎖的な世界をぶち壊すような破天荒な男で、だから、きっとそれは仕方のないことだったのだろう。篤史が守りたかったのはごく狭い、七月と自分しかいないような世界で、七月はそれを壊したがっていた。 七月と幸大が付き合いだして四年目に入ろうとしている今になって、七月を奪おうとか、自分の方を向かせようという気はもうない。けれど七月が一番大切だと思う気持ちは変わらない。七月にふられてから何人かと付き合ってはみたものの、その誰も、七月以上に大切だとは思えなかった。まだ七月を忘れられないのだ。相反する篤史の想いは、いつまでも篤史を同じ場所に留まらせる。それを実感すると、篤史はいつも虚無感に包まれた。ちょうど、今みたいに。 「……、」 うねる様な人の波から外れて、篤史は見つけた小道に入った。大通りはあれだけ騒がしいのに、細い脇道に入ってしまうとあっという間にざわめきは小さくなる。ようやく周囲を見る余裕が出てきて、篤史は柔らかな緑に目を向けると小さく安堵の息を吐き出した。植物の揺れる春の音とざわめきとが半々といったところだろうか。桜の花弁が揺れるのがどこか儚く思えた。篤史は細い小道からどこか休める場所を探しながら歩いて、それから視線の先に見つけたものにふと足を止めた。 「……、」 色とりどりの花の植わった花壇の周囲に並べられたベンチのひとつに、ぐったりと倒れこんでいる男子学生の姿が見えた。顔までは見えないけれど、浮き立つような周辺の空気の中でその一帯だけははっきりと異質だった。篤史は思わず息を呑む。放っておくのもどうかと思うほど、男はぐったりとしている。 「……あの」 「ん……」 「大丈夫ですか?」 ベンチに近付いて篤史が学生の肩に手を伸ばすと、ほんの少しの接触に彼は肩を大袈裟に震わせた。篤史の方が驚いて手を引く。 「っ……!」 ベンチが揺れる音がして、彼は勢いよく身体を起こした。飛び起きた、という表現がぴったりの。一瞬で篤史は具合が悪いのではなくただ眠っていただけだということを悟って、けれど驚きをうまく隠すことができなかった。 「あ……」 相手の方もかなり驚いている様子で大きな目を篤史に留めた。細い手で左胸を押さえている。きれいな目。それにしても、少し触れただけなのに随分大仰な驚き方だ。 「なに……」 「え……すみません、具合が悪そうに……見えたので」 「……」 「起こしてすみません」 篤史がそう言うと、彼はようやく落ち着いた様子で息を吐いた。 「……いい。助かった」 「え」 「悪い夢、見てた」 「夢?」 彼は何でもない、と言って視線を落とした。睫毛が長いことが篤史の位置からでもわかる。そうそういないほどきれいな顔立ちだ。ぎくしゃくと、心臓が血液を送り出している。 「……新入生、」 呆けていると、彼は息を吐いて、ポケットから取り出した煙草に火をつけながらそう聞いてきた。カナリヤが鳴くような細い声。白い煙がくゆる。 「……そう、ですけど」 「ふぅん」 「医学科の……?」 「そうだよ。今日からね」 「今日から?」 篤史は思わず彼の言葉を繰り返した。彼も新入生ということだろうか。入学式にスーツ着用というのは決まりではないけれど、見た限り会場に彼のように普段着の学生は見当たらなかった。からかわれている様子もないし、そもそもそんな嘘をつく必要はないのだから、きっと本当なのだろうけれど。 「座れば」 「え?」 「休みたいんじゃないの?」 「あぁ……」 他の反応が思い浮かばず、篤史は仕方なく空いたスペースに腰を下ろした。暖かで呑気な春の景色が広がっている。ざわめきは遠かった。 「入学式って、どうだった?」 まるで興味のない口調だ。篤史は短く息を吐く。同級生なら、敬語の必要もない。 「……出たんだろ」 「出てない。寝過ごした」 「は?」 「式のちょっと前に来たらすごい人だかりでさ。静かになるのここで待ってたら眠くなって」 「ならないだろ、静かには」 「うん。全然。何がそんなに楽しいんだか」 まだ長い煙草を近くの灰皿に落として、相変わらずの小馬鹿にするような、冷めた口調で彼はざわめきの方を見やった。同世代の人間としては少し変わっているのかもしれない。むくりと興味が顔を出した。それは篤史にしては珍しいことだったけれど、それを不自然には思わなかった。 「……名前は?」 「うん?」 「名前」 「潤」 「ミツ?」 「日和佐潤。名前」 彼の告げたその名前に、篤史は何度目ともなく驚いて振り返った。篤史の行動に潤の方が驚いた様子で目を見張る。 「日和佐潤?」 「……うん」 篤史は改めてその名前と自分の記憶を結びつける。今日の代表挨拶を断った全国模試トップ常連の、あの日和佐潤だろうか。ここで彼が篤史に嘘をつく必要などないし、名簿を見た限り同姓同名ではない。けれど目の前の普段着の細い男は想像に違い過ぎて、篤史はやっぱり驚かずにはいられなかった。 沈黙が続いて、色素の薄い潤の瞳に疑心の色が宿った。篤史は思考の継続を諦め、息を吐いた。考えていても仕方ないのないことだ。 「……代表挨拶すっぽかしただろ」 潤はきょとんと目を留めて、それから小さく笑った。 「そうか。そうだった」 「そうだったって……」 「忘れてたんだ。やるつもりなかったから」 「……やるつもりないなら、引き受けるなよ」 「だってオレの返事なんかまともに聞いてくんなかった。ていうか、どうして知ってるの?」 「急遽代理でやらされた」 「あぁ、へぇ、よかったね」 無関心な潤の言い方にむっとして篤史は眉を顰めたけれど、潤には何も伝わらなかったらしかった。思わず溜息が零れ、目の前に舞い降りてきた桜の花弁がくるりと舞った。 「それで、そっちは誰?」 「誰……って」 「名前。代表代理の」 「……羽沢篤史」 聞くだけ聞いて名乗っていなかったことに気付いて、篤史はフルネームを答えた。ふぅん、と、またしても興味なさそうに潤が相槌を打つ。それは何となく面白くなくて、篤史は配られた名簿を取り出して潤に差し出した。 「何、これ」 「名簿。日和佐はここだろ」 潤の名前のところを指で差すと、潤が名簿を受け取って、すぐに気付いた様子で篤史を見上げた。 「代表代理の羽沢篤史、ね」 潤は名簿を返しながら意味不明な笑みを浮かべた。笑う理由がまるでわからないのに、それは息を呑むほどきれいな笑みだった。篤史は名簿をしまいながら、浮かび上がった感情を隠すように嘆息した。 「……何でもいいけど、後で事務に行って謝っておいた方がいいと思うぞ」 「どうして?」 「慌ててた」 「代表代理の挨拶は滅茶苦茶で、入学式は破綻?」 「そんなわけない」 「シングスウェントベリーウェル」 わざとらしく呟き、潤は立ち上がった。 「帰る」 「……ガイダンスは?」 「それって医者になるのに必要なもの?」 「……何しに来たんだよ」 「雰囲気だけ――あ」 潤の目が丸く留まって、伸びてきた手が篤史の髪に触れる。篤史はなぜか一瞬どきりとして、すぐに動揺を押し込めた。かすかな煙草の匂いが背徳感を煽る。潤が指についた小さな桜の花弁をふ、と吹き飛ばした。 「二千百二十六枚」 「は?」 「一時間でこの一メートル平方に散った桜の花びらの数」 「……花びら?」 「もちろん、約だよ。誤差は…………プラマイ四・七%ってとこか……このオーダーじゃでか過ぎだ。どう思う?」 言葉が出ずにただ顔を顰めると、潤はふと頭上を見上げ、小さく息を吐いた。 「一応、風向きと風速の項入れたんだけど」 篤史は次々と舞い降りてくる桜の花弁を見やる。普通は散ってくる桜の数を数えようなんて思いつきもしない。計算が趣味なのだろうか。変わっている。桜色の空から視線を下ろし、潤の顔を捉えると、また一枚降りてきた花弁を掴まえて、それを篤史の頭上に降らせた。花弁が髪を滑り目の前を舞っていく。 「結論。羽沢篤史はピンクが似合わない」 呆気に取られていると、潤が小さく笑った。その馬鹿馬鹿しい結論に、つられて篤史も笑いを零す。 「変なやつだな、お前」 潤はふと表情を失くした後で、また笑ってみせた。じゃあね、と言って春の景色に消えていく。風がゆらりと吹いて、目の前を桜の花弁が過ぎっていった。心の中に溜まった濁った澱が揺らぐような感覚。それはどこか心地よかった。

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