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第3話
潤が去った後、結局篤史は途中からガイダンスに顔を出した。七月から電話がかかってきたのは、ガイダンスを終えてマンションに戻り、ちょうど着替えを済ませたところだった。篤史が電話に出ると、七月は困ったような声で言い辛そうに助けて欲しいんだけど、と言った。
大学入学を機に篤史も七月も実家を出て、篤史は大学の近くで一人暮らしを始めた。七月の方は幸大と同棲という形をとっていた。
「助けるって……何を?」
わけがわからず篤史が疑問をそのまま口にすると、七月が苦く笑った。小さなノイズが七月のきれいな声を濁らせる。
「あのね……実は……パソコンの設定が……できなくて……」
「パソコン?」
「うん……レポート書いたりするのに使うだろうからって父さんが買って送ってくれたんだけど……さっぱりで……」
「……矢野は」
「それが……ユキも自分のパソコン設定できなくて困ってるくらいで……あ、あと……オーディオの配線も全然……」
気まずげな七月に、篤史は溜息を吐いた。どちらも困って篤史を頼ってくるほどのこととは思えない。パソコンの設定はガイダンスに従えばいいし、配線などただ繋ぐだけだろうに。
「俺はお前らの便利屋じゃないぞ」
「ごめんね……」
七月の落ち込んだ様子から幸大の奮闘が想像できる。きっと今頃わかりやすく不貞腐れているだろう。仕方がない。篤史は諦めて、笑い混じりに溜息を吐いた。
「え……、」
「何だ」
「あ、ううん。何でもない。あの……よかったら……教えてもらえないかな……」
電話で説明するよりは行ってやってしまった方が早そうだ。七月たちのマンションはここから歩いて十分もかからない。篤史は結局、今から行くことを約束して電話を切った。
七月たちの部屋と篤史の部屋が近くなったのはほとんど単なる偶然だ。同じ大学に通うことになって、ある程度近くなったのは仕方がない。けれどその中でも同じ町内になったのは偶然。幸大はわざと篤史が近い部屋を選んだと思い込んでいるらしかったけれど、そもそも先に部屋を決めたのは篤史の方だ。
篤史は確かに今も七月のことを誰よりも大切に思っている。それでも幸大が心配するような事態は起こり得ない。わかっている。だから篤史だってこんな風に七月を気にかけずにはいられなかったり、ふとした時に切なさを感じてしまう自分をもう終わりにしたいと思っているのだ。ただ、なかなかうまくいかないというだけで。
十分ほどで七月たちの部屋に着きインターフォンのボタンを押すと、少しして見るからに不機嫌そうな幸大が顔を出した。エントランスでオートロックを解除してもらう時には七月が出たのだけれど。威嚇するように篤史を睨みつける幸大に、篤史はわざと大袈裟に溜息を吐いた。
「それが助けにきてやった人間に向ける目か?」
「……俺にだってできた」
「引っ越して一週間経ってるだろ。その間どうしてたんだよ」
「いいだろ、別に……さっさと繋げろよ」
「ユキっ……あ、ごめん。上がって」
玄関を阻む幸大を押し退けて七月が顔を出した。しぶしぶといった様子で幸大が道を開ける。篤史は内心で嘆息して部屋に上がると、通されたリビングに鎮座しているノートパソコンの前に腰を下ろした。新品の真っ白なノートパソコンを立ち上げて早速設定始める。七月はお茶を淹れるといってキッチンに行って、篤史が作業をする傍らに幸大がむすりとした表情のまま座った。
「ちゃんと見とけ。お前のパソコンは自分でやれよ」
「……わかってるよ」
「大体七月はともかく……今時パソコンの設定もできないのかお前は」
「できるって。もう少し……時間かければ……」
七月の機械音痴が度を越していることは知っていたけれど、幸大もそれには負けないらしい。篤史は思わず笑いを零して、笑うな、と幸大が口を尖らせた。
「何だよ。お前が笑うとか気持ち悪いんだけど」
「……帰るぞ」
腰を浮かせると幸大が慌てた様子で両手を動かした。溜息を吐いてまた腰を下ろす。
「……いや……でも、お前さっき七月が電話した時にも笑ったって……」
「……だったら?」
「七月びっくりしてた。機嫌いいみたいって、にこにこしてさ……」
あからさまに面白くないといった表情を浮かべて、幸大は言った。考えていることがすぐにわかる。こんなことだから周りの人間にすぐその仲を揶揄されてしまうのだ。篤史は作業の手を止めずに息をついた。
「妬くなよ、そんなくだらないことで」
「別に……妬いてねぇよ」
まったくと言っていいほど説得力のない口調で幸大が言うので、篤史は呆れかえってしまった。
「……ほら、終わったぞ。次はどれだよ」
「げ、もう? 俺の苦労の一週間は何だったんだよ……」
「……お前本当、馬鹿だな」
「はぁ!?」
「もう、ユキ!」
三人分のグラスを器用に持った七月がちょうどリビングに入ってきて、幸大はぐ、と言葉を呑み込んだ。この力関係は高校時代からまるで変わらない。きっとずっと変わらないだろう。
「どうして食ってかかるの。篤史呼ぼうって言ったのユキでしょう?」
「っばか、違うって。七月が羽沢なら全部一気に教えてくれるって言うから……」
「だから、電話しようってユキが言ったんじゃない」
「そう……だったかもしれないけど……」
幸大はどんどん歯切れが悪くなっていって、篤史は笑いを噛み殺した。幸大は絶対に知られたくなかったことを知られてしまったといった様子で顔を顰める。
「七月、パソコン終わった。次は?」
「え、あ、あとオーディオが……」
「……線繋ぐだけだぞ」
「……ごめん」
七月は申し訳なさそうに苦く笑った。こんな時、いつも篤史は七月には敵わないと実感してしまう。この笑顔が見られなくなってでもそばにいようと思える人間には出会えていない。一生出会えないような気すらする。
散らかったケーブルを手際よく繋いでいく。幸大は憮然として、近くに座ったままその様子を眺めた。七月はまたキッチンに戻っている。
「……なぁ、何で機嫌よかったんだよ」
「別に、よくないだろ」
「いいだろ。お前が笑うなんて」
「……人を何だと思ってるんだ」
「七月が電話したから」
「は?」
「だから……機嫌いいのかよ」
篤史は脱力してケーブルを持っていた手を下ろした。溜息が零れる。今更七月に電話を貰ったくらいで機嫌の善し悪しが変わるはずがないのに。
「……お前、もうちょっと七月のこと信用してやれないのかよ」
「っ……してる。けど……」
「けど、何、」
「……何でもない」
信用していないのは七月ではなく篤史のことだというところだろうか。篤史はまた溜息をついて、最後のケーブル端子を差し込んだ。テレビのスイッチを入れると、灰色の画面に色彩が宿る。
「できたぞ」
「お、おぉ……」
「つまらないことでいつまでも拗ねるなよ」
「拗ねてないって」
高校時代からちょくちょく牽制をしてきたので、幸大はいつも篤史を警戒している。幸大のことを子供だと言うこともできない、などと思いつつ立ち上がる。キッチンから菓子を載せた皿を持って七月が戻ってきた。
「七月、終わった」
「ほんと? ありがとう。助かった」
七月は胸を撫で下ろして、琥珀色の液体が入ったグラスを差し出した。ふわりと紅茶が香る。篤史はそれを受け取ると一気に飲み干して、すぐにグラスを七月に返す。
「帰るよ」
「え、お菓子食べてってよ」
「いや……」
矢野が拗ねるから、と言おうとした篤史はふと思い直して七月を呼んだ。七月が視線を上げる。
「え……」
篤史は手を伸ばして、何もない七月の目元を拭った。七月は少し驚いた様子で目を見張り、篤史は口角を緩やかに上げる。うじうじと拗ねる幸大に少し苛立ったのかもしれない。
「篤史?」
「睫毛、付いてた」
「あ……ありがと」
「じゃ、俺帰るから」
「本当に食べていかないの?」
「ああ。またな」
玄関に向かうと、ようやく慌てた様子の幸大が篤史を追いかけてきた。少し愉快な気分になりながら靴を履く。
「はっ……ざわ~!」
「目、覚めたか」
「お前がすぐああいうことするから! 俺はっ……」
幸大の方を向いて目を見ると、幸大はぐ、と言葉を飲み込んだ。ひとしきり考え込んで、それから篤史を睨みつける。
「羽沢」
「何」
「……頼むから、早く俺を安心させろ」
その言葉の意味を、篤史はしばらく考えた。それから息を吐いて頭を掻く。虚しさが形を作って胸の中に落ちた。
「それは、俺の心配してるのか」
「そんなわけねぇだろ、馬鹿」
「だろうな」
「真面目に聞けよ」
「聞いてるし、やれるもんならとっくにやってる」
「っ羽沢……」
幸大の声から逃げるように、篤史は部屋を出た。ドアが閉まると、夕闇が篤史を迎え入れる。こつこつとコンクリートを鳴らしながら、篤史は溜息を吐いた。
やれるものならとっくにやっている。それができないから、困っている。
篤史はまた溜息を吐いて、ふと、潤のことを思い出した。どうしてかはわからなかった。きれいな顔と声、言葉。思い出すと胸が震えて、自分でも違和を感じる。単純に潤が謎めいているせいだろうけれど。潤は変わった人間だった。さすがに模試でトップに居続けただけのことはある。
地面に平行に春の気配が漂う。酔ってしまいそうなのは、きっと自分の方が傾いているからだろう。新しい世界はいつだって過ぎるほどに眩しい。何かが変わるのだろうか。そうなって欲しいと思う自分は確かにいるのに、中心にはいつだって七月がいる。
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