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第4話

SF映画にでも出てくるような見事なピンク色の空だった。潤はぐちゃぐちゃな気分と身体を抱えて、アスファルトの道をずるずると歩いた。 潤の祖父が死んだのは一週間ほど前のことだ。まだ老衰で死ぬような年ではなかったけれど、手術室から出てきた医師は淡々とした口調で心筋梗塞だと潤に伝えた。死因なんてどうでもいい。そんなことより唯一の肉親を、唯一まともに話してくれる相手を失って、これからどう生きていけばいいのか教えてくれ。そう言いたいのを潤は堪えた。聞いたところで潤の求めるような答えが返ってくるわけのないことくらいは知っていた。 潤は初めて、本当に一人きりになった。一人。祖父がいなければ、潤は一日中誰ともまともな会話を交わすこともできない。 形ばかりとはいえ祖父の葬式を行い、数日学校を休んだ後に登校した潤をいつものように名前もよく知らない同級生たちが呼び出した。授業時間外で人のいない体育倉庫は据えた匂いと埃っぽさが充満していた。 ――なぁ、こいつ、ヤレんじゃね? 祖父を亡くしたことで色々なことに手が回らなくなり、制服のワイシャツのボタンが取れかけていたことにも気付かなかった。いつも通りに胸倉を掴まれた拍子にボタンがはじけ飛んで、胸部が冷たい空気に触れると、ふとグループの一人がそんなことを口走った。げぇ、とそれを残りが笑い飛ばした後で、でも、と誰かが言うと辺りはとても静かになった。 ――女みたいな顔してるし、いけるかも 一人がそう言うと、後は簡単だった。何発か殴られて、動けなくなると彼らは潤の下半身を剥いた。誰かの性器を銜えさせられ、口内で射精をされた。代わる代わる性器を挿入された。息のつまるような痛み、不快感。大声を上げそうになると口を塞がれて、精液まみれの汚い手が潤の性器を扱いた。長くしつこく続くそれに潤が射精をすると、変態、と罵られた。変態はお前らの方だ、と、そう思うことすら意識の遠く底の方だった。悲しみや悔しさというよりも、ただ虚しかった。一体何をしているのだろうという思いだけが強く残っていた。 重く痛む身体を引きずって家に帰ることにどれくらいの理由があったのかはわからない。放置されたまま、体育倉庫で眠ってしまったってよかった。もう祖父もいないのだ。けれど潤は本当の静けさを迎えた体育倉庫をふらふらと出て、家路へと着いた。泣きたいのに涙は出ない。雨が降ればいいのに、と思った。せめて。 「――日和佐、潤くん?」 家のすぐ前までどうにか歩いてきたところで、潤は不意に声をかけられた。空の色に溶けてしまいそうなほど、非現実的な声に思えた。あの潤をレイプした同級生たちの濁った声が耳についているせいで尚更。潤が視線だけを上げると、真面目そうな男が表情を固くした。知らない顔。どうでもいいけれど。 「……誰」 声はひどく掠れていて、ほとんど音にはなっていなかった。学校の水飲み場で口を濯いできたけれど、それでもまだ精液の味が残っているような気がする。潤が訝しんだ目を向けると、男はゆっくりとした仕草で潤に名刺を差し出した。 「僕は、萱野澄樹。君の後見人」 「コウケンニン……?」 「これからは、僕が君の面倒を見る」 「……アンタが?」 「君のおじいさんと僕の祖父が親しい間柄で、後のことを頼まれていたみたいだけど……申し訳ない。手違いで遺言書を受け取ったのが昨日なんだ」 「……」 「もうお葬式も終わってしまったね……一人で大変だったろう?」 澄樹は潤がいつまでも受け取らない名刺を諦めた様子でスーツのポケットに仕舞い込んだ。それから言いづらそうに口を開く。 「……それ、誰にやられたの」 「……」 澄樹が潤のどこを見て言ったのかはわからなかった。ボタンの引きちぎられたシャツか、精液のついた制服のズボンか、殴られてできた痣か。潤は目を逸らして、先の記憶を払拭しようと深く呼吸をした。けれどうまくいかなくて、潤はよろめきながら澄樹の肩に額を押し付けた。澄樹はさすがに驚いた様子で身体を強張らせたけれど、あからさまな拒絶はしなかった。 「……仕事?」 「……そうだよ。祖父にも頼まれたし、お金も貰ってる」 「オレを助けるのが仕事なの?」 「そう。これからのことも……」 「じゃあ抱いてよ。今すぐ」 澄樹が息を呑んだのがわかった。潤は澄樹の肩口に額を押し付けて、目を閉じる。かすかな煙草の匂いが潤をほんの少し安堵させた。 「それは……」 「そんなことはしない?」 「……、」 「でも、オレを助けるのが仕事って言った。オレを抱いてくれないならオレを救えない。早く馴らさなきゃ。時間がないんだ」 「……馴らす?」 「だって馴らさないと……痛い。これから」 グループの連中は潤に性欲をぶつけることを覚えてしまった。きっと簡単には解放されないだろう。繰り返されるに決まっている。どうせ抵抗できないのなら、少しでもいい。快楽を得られた方がいい。罪悪感があった方がいい。 「君が受けたのは明らかに暴行だ。法で裁ける」 「それであいつらがいなくなったって、また別の奴らが出てくるだけだよ」 「……」 「オレは絶対アンタを訴えたりしない。大丈夫……ねぇ、見てよ。オレ、女みたいな顔してるんだって。だから大丈夫なんだって。おまけに女より締まりがいいって、喜ばれたよ。セックスは嫌い?」 「……潤くん」 「なんで。仕事だろ。依頼対象の言うことが聞けないの?」 「……、」 「頼むから。お願いだから。突っ込むだけで構わない。最初は痛くても……慣れればそれでいい」 「……」 「おねがい……おねがいだから……」 しばらくの沈黙の後で、澄樹がわかった、と苦しげに呟いた。ピンク色だった空はもう、濃紺の闇に包まれかけていた。 最後まで渋ってはいたけれど、結局澄樹は潤を抱いた。優しかったし、丁寧だった。すぐに不快感がなくなることはなかったけれど、それでも何度か行為を繰り返している内に身体は順応した。中学を出て、高校に入った後はとにかく強い相手と寝ることにした。相手は構わなかった。教師もいたかもしれない。潤を見る周囲の目は冷たさを増す一方だったけれど、それでよかったのだと思う。だって、精神的にはともかくセックスは気持ちいいことも多かったし、殴られることは確実に減っていったから。 「――……ラウンドオーバー……ファイ……オメガ……スクエア……」 独り言を漏らしながら数式をルーズリーフに書き込んで、潤は溜息を吐いた。辺りを見回すと、書き込まれたルーズリーフの量は記憶より格段に増えていることがわかる。時計を見やって、ふと思いついた多体問題の方程式を解き始めてからかなりの時間が経過していることに気付く。それでも続きに手をつけようとした潤はふと手を止めて、テーブルの上で頬杖をついた。入学式を終えて週末に入ってから、ずっとこの調子で何かを解いてばかりいる。さすがに手が疲れているようで、痺れを感じた。かと言って他にすることは何もない。 「……」 どうしようかと考えていると、甲高いチャイムの音が静けさを破った。余韻が部屋の中を余計に静かにする。潤はそっと立ち上がって玄関へと向かった。ドアスコープを覗いて、部屋の前に立っている人物を認識すると少し驚く。澄樹だ。ドアを開けると心地いい風がふわりと吹き込んだ。 「……何の用」 潤が呼んだわけではないのだから、用事があるに決まっている。それ以外では、潤が呼ばなければ現れない。そういう約束だ。 「ちょっと書いてもらわなきゃならない書類があってね。ついでに入学祝いに寿司買ってきたんだ。この間は時間がなかったから」 「……そ」 澄樹は淡々と言った。潤は澄樹を部屋へと通す。部屋に自分以外の人間が入ると、わずかながらも部屋の中は色づいた。 「入学式、どうだった?」 この間と同じように潤がローテーブル周辺のルーズリーフを拾い集めていると、ふと澄樹が潤に訊ねた。束ねたルーズリーフを丸めて肩を叩きながら、潤は息を吐く。 「式には出なかった」 「どうして?」 「寝過ごしたから」 四角ばったビニール袋をローテーブルの上に置いて、澄樹が呆れたように溜息を吐いた。丸めたルーズリーフをごみ箱に押し込んで澄樹に身体を寄せる。 「キス、して」 訴えると、澄樹はそれに従ってキスをしてきた。ゆったりと焦らすような舌使い。今日は時間があるらしい。 「ん……っ」 「寿司は、いいの? 駄目になるよ?」 「どうでもいいよ……」 潤は腕を伸ばして、澄樹が器用に潤をベッドに押し倒した。 初めは馴らすため、また慣れるため。その次は、孤独を埋めるため。それでも潤はこの行為にいくらかは救われる。いじめの延長の輪姦が続く中で、例えば行為の最中に澄樹が潤の感じるところを探してくれること、もっと単純に抱き締められることにだって安堵した。虚無が埋まるわけではなかったけれど。 「っ……」 熱の波が持続的に広がっていく。冷静な思考は遠のいて、潤は思う。何のために、誰のために自分は存在すればいいのだろう。一時的な安堵のために澄樹を巻き込んで、どうしたいのだろう。でも誰も自分を求めてくれない。だから求めるしかない。 変な奴。そう言って笑った男の顔がふと思い浮かんだ。言われ慣れた言葉だけれど、あの顔は見慣れなかったな、と遠い思考で思う。あんな素直な笑みを向けられたことはなかった。 身体のどこかでオーロラのように波が揺らめくのを感じて、潤は背中を弓なりに反らせた。息づかいが木霊する。波の狭間に感じる春の空気は、暖かいのに悲しかった。

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