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第5話
履修登録も済み、大学生活は徐々に平坦な毎日になりつつある。視界のほとんどを埋め尽くしていた桜も大方散って、柔らかな若葉の匂いがキャンパス中に充満していた。
一年生の内は一般教養がメインとなる講義は、始まって数週間も過ぎると退屈以外の何物でもなくなる。講義室の固い造り、淡々と進められる講義の固い内容とは裏腹に、学生の空気は倦怠感が漂うばかりだ。線形代数学などとは銘打たれていても内容は高校数学の延長程度でしかない。篤史は階段教室の後方の席から着々と埋められていくホワイトボードの内容を、頬杖をつきながらぼんやりと眺めた。
「暇そう」
隣の席に座って同じように暇を持て余している様子の中原北斗(なかはらほくと)が篤史を見て言った。篤史は横目で北斗を見やって、それから息を吐く。北斗は講義が始まってから何かと付きまとって来る同級生で、人見知りのなさにかこつけた遠慮のなさがどうも苦手だった。
「……別に」
「そう? でも顔に暇って書いてあるけど。っていうか、俺も暇」
北斗はまた笑って手にしていた漫画を閉じながら欠伸を噛み殺した。周りを見渡して見ても数学に興味のある学生などいるはずもなく皆一様に退屈そうにしている。
「今日これで終わり?」
「そうだけど」
「マジ、じゃあさ――あ」
時が止まったように静かだった空間に異質な音が響いた。ちらほらと音の源に後方の席の学生の視線が集まる。篤史も音の方を見やって、目に飛び込んできた人物に瞠目した。
「日和佐じゃん。めずらしー」
北斗も驚いた様子で潤の方を眺める。一方で潤は集まった視線をまるで気にする様子もなく、ドアの近くの席について、すぐに身体を突っ伏した。学生が息を呑む気配。
「うわ、目立ってんな。さすが」
北斗が感心したように呟く。篤史は頬杖をついて、息を吐いた。確かに潤が講義に出てくるのは珍しい。
入学して数週間が経過し、潤は医学部の中ではすっかり有名人になってしまっていた。名簿を見て全国模試で常にトップにいた名前があると気付いた学生は当然一人ではなかったらしく、けれど講義が始まっても一向に潤らしき人物が顔を見せなかったことで、一気に知名度を上げた。高校時代、幸大が全く同じ状況を作っていたことを思い出さずにはいられない。あの時はどんどん噂に尾ひれがついていったけれど、今回はわりと早めに潤が講義に出てきたことでただ好奇の目を寄せられるに留まった。とはいえ相変わらず二、三日に一度見かければいい方で、篤史も入学式のあの時以来一度も会話を交わしていない。視線すら交わらなかった。
「なぁ、どう思う?」
潤の方に視線を向けたまま、初めて出会った時のことを考えていた篤史はどきりとして北斗に目を合わせた。
「どうって……何が」
「日和佐。あいつあの日和佐潤だよな」
「あのって?」
「だから、模試のトップにいつもいた奴」
「……そう……みたいだな」
入学式で会った時の飄々とした印象は、今は見受けられなかった。丸まった細い背中は、すべてを拒否するような空気を発している。あの時は春の陽の中だったからだろうか。あんなにきれいに笑うことができるのに、講義室の中で笑顔を見たことはない。
「羽沢?」
篤史はいつの間にかまた潤の方を見つめていて、それに気付いたらしい北斗が篤史の目前で手を左右に振った。はっとしてまた北斗の方を向く。北斗は訝しそうに眉を顰めて、それから小さく息を吐いた。横目で潤のいる方をちらりと見やる。潤は微動だにせずに突っ伏していた。
「……悪い、何」
「何か気になんの」
「何が」
「日和佐のこと」
「……いや……別に」
ふぅん、と北斗はつまらなそうにしながら頬杖をついた。側面の大きな窓から差し込む光は澄んでいて、篤史の言い淀みが小石のように不自然に転がった。自分でも違和感を覚えつつ、溜息を吐く。この違和感は何だろう。
「ああ……そういえばさ」
「何」
「サークルで聞いたけど、あいつ高校ん時、すごかったらしいね」
焦らすように北斗が言葉を区切った。篤史が何が、と返すと北斗は潤の方をまた見やって、それから篤史に視線を合わせた。
「大暴れ。やりたい放題」
「だから、何が」
「男子校だったらしいけど、見境なし。片っ端から食いまくってたんだって。あいつホモなんだ」
北斗は面白がっている口調でもないのに口の端を意地悪く上げて、反応を窺うように篤史を見た。篤史も男子校出身だし、同性に嗜好を寄せる性質でもある。だから北斗が意図しているほどは驚かなかったはずだけれど、それでも、それが潤の話だということには言い様のない感覚があった。焦燥に似ているかもしれない。篤史は咄嗟に潤の方に視線を寄せて、それからすぐに北斗に戻した。北斗の表情は変わらない。
「……噂だろ」
「サークルの先輩、日和佐と同じ高校だったんだ。先輩も餌食になりかけたって」
「……」
「なまじ優秀なだけに教師も何も言えなくて、友達とか全然いなかったらしいぜ」
篤史は反応に困って、言葉の代わりに息を吐き出した。潤と話したのは一度だけだし、それも数分のことだ。北斗の言うとおりだとしても篤史にはわからないはずなのだけれど、何となくその話の内容は篤史の記憶の中の潤とは結びつかなかった。
「あんまり、関わんない方がよさそうじゃね?」
「……え」
「関わんない方がいいって、言ったの」
「……そうかもな」
適当に返事をすると、北斗はそれでも満足げに笑みを浮かべた。高校の頃の記憶が蘇る。幸大の噂が流れた頃、よく篤史も七月に幸大と関わるなと言っては七月と小さな言い合いを繰り返していた。出会ってまだ数週間だけれど、北斗なりに篤史を気遣っているのだろうか。北斗の気持ちもわからなくはない。わからないのは自分の持っている違和感だ。篤史は溜息を吐いて、手にしていたペンを器用にぐるりと回した。
「――あ、なぁ、さっきの話の続きだけど」
「何だよ」
「今日友達がイベントでDJやるらしいんだけど、一緒に行かない?」
「遠慮しとく」
「……即答なの?」
「悪い。そういうの苦手だから」
つまんねぇの、と北斗は口を尖らせた。何度か飲み会だったりライブだったりに誘われたけれど、篤史が誘いに応じたことはない。
「なぁ、羽沢って俺のこと嫌い?」
拗ねたように北斗が篤史を見た。篤史は内心でぎくりとして、それから息を吐く。
「人の集まる場所が好きじゃないんだ。中原、いつも人の多そうなところしか誘ってこないだろ」
「じゃ、二人でカラオケとか行く?」
「……パス」
「ほらぁ」
「人がいないとか、そういう問題じゃない。それは」
「じゃあ、どういう問題?」
「……」
「俺は羽沢と親睦を深めたいだけなのに」
このままじゃ俺の純粋な気持ちが壊れてくぞ、と北斗は冗談めかして言いながらも、重い溜息を吐いた。何を理由にかはわからないけれど、気に入られていることは確かなようだ。
「わかった。その内付き合うから、カラオケは勘弁しろ」
「絶対?」
「ああ」
篤史は仕方なく頷いて、北斗はそれでも満足したように笑みを浮かべた。そこで会話が途切れて、篤史は頬杖をついたままホワイトボードに視線を戻し、北斗は閉じていた漫画を開いた。
ぽつぽつと降る小雨のような講師の声をぼんやりと聞きながら、ふと気になってまた潤の方を向く。さっきまでと同じように潤は突っ伏していたけれど、少ししたところで身体を起こし、振り向いた。
「……、」
潤の視線は冷たく凍っていた。視線がぶつかると、潤は一瞬だけ、かすかに表情を和らげる。電流のような衝撃。けれどすぐに視線は逸れて、篤史はゆっくりと息を吐いた。
「……今、日和佐こっち見なかった?」
読んでいた漫画から視線を上げて、北斗がぼそりと言った。
「いや、気付かなかった」
篤史は嘘をついたけれど、北斗は疑う様子もなく気のせいか、と言って漫画に視線を戻す。そうしてすぐに戻ってきた静けさの中で、篤史はもう一度だけ潤の方を見やった。もう、視線は交わらなかった。柔らかな日差しに誘起されるように鼓動が高鳴って、篤史は思わず胸を押さえる。小さな違和感が胸の中で結晶のように形作られていく。
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